第十九話 頬焼く焔
「お母さん。いるかな」
実家の砂利道に車をバックで入れた。十二月に来たときは薄雪を被っていたしば桜が、顔を出している。芽吹き、花開くのは来月も下旬だろう。
「ただいま。櫻絵です」
つーんとした空気が流れた。
「上がりましょう」
寒さではなく、彼は肩を小刻みに震わせた。
「寧くんも緊張しなくて大丈夫よ」
彼が首肯する。私は玄関に鍵が刺さっていることに気が付いた。
「本当にお留守みたい。畑に回ってみましょうか」
玄関の右手に勝手口がある。そこからすぐに大根達が埋められている筈だ。
「櫻絵……」
「お母さん、得意の沢庵かしら」
心なしか、溢れて来るものがあった。
「櫻絵や」
ただいまの気持ちで黙って頷くだけだ。
「櫻絵ではないかい。お腹を壊したのかい」
「そ、そうなのよ。ぽんぽん痛くしちゃったのよ」
「まあ、可哀そうだこと。腹巻編むから、あたたかくするんだよ」
野良着で私を抱き締めてくれた。土の香りと朝の冷えた露を感じる。
「よく帰って来て……」
「お母さん、泣いているの?」
私の胸に母が拳を作って一つ叩く。小柄な彼女の雫が染みて行った。
「寂しかったよね。一人だったものね」
「志朗さんがね、櫻絵は本当に優しい子だと、お茶の度に呟くんだよ」
母は忘れることがないのだろう。生前は父の包容力に助けられていることが多かった。けれども、母は父の残念な所を一々私に零していた。几帳面過ぎるので家計簿にチェックが入るとか、ある意味贅沢な悩みではないかと思う。
「お父さんは、虹の世界にいるのよ」
「七色の。志朗さんは綺麗なものが好きだった」
私の胸にいつまでもいる、父。
「危篤を知る直前に、私の夢枕に立ったの」
父の遺した言葉を母に伝えた。
『さくらと自分が、手塩に掛けて育てた娘だ。綺麗な花を咲かせるのはもう暫し後になるかの』
あの情景は忘れられない。
「ほう、そんなことをかい」
最期の姿となるとは、衝撃的だった。
「虹が後ろに架かっていたわ」
母がこちらを向き、泣き顔を晒す。
「聞いたことがあるよ。魂が遠くへ行ってしまう前に、虹を渡りながら結ばれた人々の所を巡るそうだね。あたしが会えなかったのはどうしてだろう」
「お別れのとき、お母さんは病院に付き添っていたわよね。だからよ」
さっきから寧くんが傍にいたのだが、忍びの者かと思う気配だ。母を励ますのに、いいタイミングだろう。
「あのね、待ち焦がれていた人を連れて来たわ」
「おお。そちら様は、櫻絵がお世話になっております」
「申し遅れました。橘寧です。遅くなりましたが、この度はご愁傷様です」
寧くんは最上級のお辞儀をした。上品で誠実なのが好ましいと思う。
「はあ、あたしは野良着じゃないか」
「素のままがいいのよ」
母の泥のある細い手を取る。私は、ただ母の名をいつまでも呼び続けていたかった。けれども、がんばって微笑みを湛える。独居老人の侘しさを先程の泣き顔に見たからだ。
「お母さん、大根持つわ」
「僕にもそちらの籠を持たせてください」
母の豆鉄砲を食らった顔が堪らなく愛おしい。畑からすぐの勝手口から母が上がる。大根と籠を引き受けてくれた。
「橘さんに櫻絵や。玄関の鍵を抜いて上がってください」
「お母さん、鍵は昔のままね」
「誰もあたしの所に来ないからね」
履物を脱ぐのに、こんなに不適切な建物はない。時計のある部屋が、土間よりも随分と高くなっているからだ。
「タイトスカートだと難しいのよ。寧くん先に上がって」
「分かった。手を貸そうか」
「危ないからいいわ」
幼い頃を思い出す。右手に黒電話が相変わらず鎮座していた。この上に貼ってある電話番号一覧の一番上に私のナンバーがある。母が頻繁にかけて来るが、この番号は見ていないだろう。もう、指が覚えたから。先ずは、お仏壇へ行った。遺影の前に背筋が伸びる。
「……お父さん」
私が呼び掛けただけで、亡くした哀しみが深まって行った。寧くんも手を合わせて、静かに瞼を起こす。小さな足音が聞えた。母だろう。
「櫻絵や。皆でお茶にしようか」
「ええ。お母さんの背中が幻だと思ったわ。大根と話していたわね」
孤独感が夢ではない。現実に迫る夜が怖かった。
「私、心配していて。もし、お父さんに続くようなことがあってはいけないと」
「櫻絵さん、口にしない方がいいよ」
寧くんを居間に通した。この家も寂しいだろう。父もなく、私は東京へ出ており、母一人だ。独居老人とはよく表現していると思う。私が煎茶を支度し、母は漬かった大根を持って来た。
「お母さん、痩せちゃったから。お土産よ。お饅頭だけれども、餡子が体にいいらしいわ」
「あたしのことなんて、心配しなくていいのに。お二人の東京は揺れたろう」
大都会ビルのエレベーターを思い出して、冷やりとする。
「地震でね。丁度、彼にプロポーズしようと思っていたのが台無しだわ」
「櫻絵さんから? あのレストランでかい!」
私の方からお願いするのが、寧くんへの負担が軽くなるだろう。大学で揶揄された位で、喫茶檸檬で振ってしまった私。免罪符としようと思っている訳ではないけれども。
「嫌だったかしら」
「僕からもその予定だったよ」
いつも温和な寧くんなのに、少々お冠のようだ。
「あらあら、お似合いだね」
「もう、お母さんったら」
母が沢庵にしようか、お饅頭にしようか迷っている間に、顔が綻んだ。
「あたしがね。さくらのSが、志朗さんのSとお揃いだわって、茅葺の下で笑って話していたこともあったよ」
「イニシャルの話かな。エスだなんてどうしたの」
母は急いで沢庵を食べてお茶を啜った。
「僕が、Nだよ。寧のエヌ」
「同じくSの櫻絵と惹かれ合うのは磁石のようだね」
話に花を咲かせていた。間もなくして、切り出す。
「そそ。しば桜が土から離れてしまったのよ。こちらへ来たら元気になるかなと思って持って来たわ」
私が車に戻って、再び柱時計の所に戻ると、寧くんと母が畳の上で手をついていた。
「しば桜のように、美しく花開く櫻絵さんを大切にいたします。どうか、お嬢さんを僕に任せてください」
「櫻絵、櫻絵を幸せに……」
言葉少ない母がとても小さく感じる。静謐なときは一陣の風のようだった。私は柱の後ろで、涙を拭うしかない。胸が高鳴り、じっとりと手を繋いだときを思い出した。
「小さめの鉢もあるから」
母が納屋から必要なものを出してくれたので、花卉園芸の時間となる。
「しば桜が、お母さんのお陰で元気になれてよかったわ」
「気に入ってくれて冥利に尽きるよ。志朗さんも虹で喜んでいるだろうね」
「明日は雨が降るらしいわね。虹が出ないかしらね」
再び母の為にお風呂を支度した。母があったかいよと、歌っていた。薪の焔が私の心を抉り取る。新しい薪をくべる。頬を焼きながら、間もなく寧くんと夫婦になるのかと、思い耽っていた。




