第十八話 信頼の階
私は電話のコールをしぶとくしていた。
「西田さん、他の皆も無事でよかった。私の作品は窓際で壊れてしまったようね」
『昨日が搬出だったけれども、生原さん、来なくても大丈夫よ。無残な姿になってしまったから。よかったら、破棄するけれども』
あの地震では、仕方がないだろう。
「お願いしてもいい? 西田さん」
『悪く思わないでね。我が子とも思える作品が跡形もないのは哀しいから』
「皆が無事なのが一番よ。では、またね。お電話ありがとうね」
『こちらこそ、生原さんから電話をいただいて嬉しかった』
寧くんも起きたことだ。隠すこともないが、心配させないように後ろで受話器を置いた。
「櫻絵さん、おはようございます」
湯を沸かしてあたたかいコーヒーを作り、一杯は寧くんに、残りを水筒に注ぐ。飴は別の鞄に入れよう。
「私、早く起きてしまったの。混んでいるかも知れないし、明け方の内に出発よ」
荷物を積んで私の車で行く。
「箱に入れた白に薄桃も里帰りの為連れて行くわよ」
私の膝を狙っていたけれども、揺れてしまうと思ってリアシートの下に置いた。
「その為に行くのだものね」
しば桜がこんなにも愛おしい。揺れないように毛布で固定した。
「寧くんのご両親は、橘京様と瞬様と仰っり、鶴見にお住まいなのよね」
「神奈川県の鶴見駅と亀有駅を結んで縁起のいい鶴亀切符もあったよ」
寧くんが運転を引き受けてくれた。加平インターチェンジから高速に乗る。
「震災は大丈夫だったかしら」
「父と母も自宅で無事だったらしい」
ほっとした。まだニュースが少ないが、相当揺れたから心配していた。
「いつかお会いしたいわ」
ご実家へご挨拶をしなければと思っていた。栃木行きが先になってしまったが。
「かしこまらなくていいから。僕にも心の準備が」
「世の中が荒れて胸の奥から叫ぶのよ。大切な方の大切なご両親にご挨拶したいわ」
寧くんの誠実さが私を揺り動かしたのだから。
「本当にキスさえしない騎士殿は、おられるのですかね」
「僕らには早いでしょう」
助手席で飴の小袋を剝いて、運転席へと渡す。
「いただきます」
「私は蜜柑味をいただくわ」
「うーん、フルーツではないな。カフェオレ味かも」
寧くんは運転中だが、私を一瞥した。一緒に頬で転がす楽しみがある。
「うちにあったお菓子を詰め合わせにしたから。お楽しみ巾着かも」
「それもミミちゃんなのかな」
彼は地頭がいい人だとは思っていたけれども、図星で恥ずかしい。
「小さい頃、おままごとに使っていたわ」
よく思い出せば、お買い物ごっこのお財布だとか、ビー玉やとても短い鉛筆等の綺麗な宝物入れだとか、一緒に大人の階を踏んで行った。
「これは、伯母さんからいただいたのよ。伯母さんにはお子さんがいらっしゃらないから、大層可愛がっていただいたの」
「想い出が沢山あるのかい」
持田和伯母さん、母より十八も年上で落ち着いた印象が強い。
「グランドピアノ型をしたオルゴールや人形を買っていただいたのも伯母さんだったの。伯母さんは日本画を嗜むせいか、私が小学生の頃描いた百合の花を額に入れて、ずっと居間に飾ってくださったわ」
「冥利に尽きるね。生原櫻絵画伯の誕生秘話だ」
「画伯は、冗句よね」
私はお腹が空いて来た。燦展受賞作、鯵の干物を思い出す。気楽に描いた作品で幸運だった。来年はもっといいものを出さないと。
「母はね、私が実家に置いて行った絵を全てゴミに出したわ」
「どうしたのかね」
「片付けに来なさいと電話があったときに、行かなかった私が悪いの」
彼が飴をもう一つとウインクがきたので再び渡す。
「おお、カフェオレ味だよ」
「あちゃ、ごめんね。くじ運が悪かったわ」
暫く黙って走行していた。
「そろそろ休憩と朝ごはんにしようか」
上河内サービスエリアに入った。名産品を食べればいいのに、カレーライスを二人分頼んだ。飲み物にカフェオレを頼もうとしたとき、意外な事情を知る。
「すみません。昨日から牛乳が入って来ないのですよ。備蓄もなく、コーヒーでしたらお出しできるのですが」
「ごめんなさい。昨日の今日ですものね。ブラックで、ホットコーヒーを二つお願いいたします」
食後のコーヒーが届く。
「ありがたいと思わなければならないな」
「二杯のコーヒーにもお水を使っているわ。実家に帰って様子を見ないと。母は一人暮らしをしているから」
「僕も気を配るよ」
私達は日持ちしそうなお土産を求めて駐車場へ出た。公衆電話が目に留まる。
「実家まで近いから、電話を入れておくわね」
「ああ、頼めるかな」
七回コールしても出ない。もう一度かけ直す。
「繋がらないわ」
「ご無事を祈っているよ」
暫くしてかけ直したが、一向に出ない。私も焦りが出て来た。
「母が家で倒れていたらどうしよう」
「安全の確認の為もあって、僕達は行くんだ」
「うん、実は朝も連絡を取ろうとしたの。寝ているのか、出てくれなかったわ」
しば桜の白を元気にさせるのは名目だ。母のお見舞い、無事な姿を見ないと。
「母の為か。寧くんのあたたかい配慮、感謝以外にないわ」
「もしものとき、櫻絵さんと僕の心は片とはならない」
「心は別れないのね」
私は優しい彼氏を振った理由が分からなくなって来た。
「学生のときは、ごめんなさい。男性を皆、色眼鏡で見てしまっていたの。心まで沁みる思い遣りが分からなかったなんて、やはり私が五つ下だわ」
「自分を卑下しない方がいいよ」
一般道に出る。栃木インターチェンジだ。
「将来の夢は画廊なのだろう。僕も寄り添って行きたいよ」
高速で私は走馬灯のようだった。大学で揶揄され、父が亡くなり、再び寧くんを信頼して。幼い頃から友達に恵まれず、大切なことを心の内で信用とは異なる信頼で表して来た。最も信頼しているのは、誰あろう助手席の隣にいる。彼、橘寧くんだ。




