第十七話 追慕の朝
「私、綺麗になりたいと心底思うわ」
「世界で一番美しいよ」
「や、やーだー。顔に汚れ付いていないかしら」
寧くんがハンカチで頬を拭ってくれた。心も綺麗だと囁きながら。
「櫻絵さんと長く話せて、不幸中の幸いとはあるものだね」
「わ、私もなの。知っていたかな」
寧くんがエントランスの方を向く。私も振り返るように見ると、顔が冷やりとした。
「さて、ビル風が強くなって来た。きっと太陽も連れて来るに違いない」
「どうしてかしら」
「理由は分からないけれども、僕は残業が伸びて夜勤になるといつもこうだった」
風が吹く。ビルの間に風紋如きものを拵える。
「大都会ビルで夜を明かしたことはない。けれども、明けない夜はないと信じている」
◆◆
間もなくだった。朝日が窓やエントランスから射して来た。
「朝だわ」
「日の出は一等眩しいなあ」
「ステンドグラスみたい。美しい朝ね」
二人で支え合いながら、毛布を返却しに並ぶ。親切にも、大都会ビルで千代田区職員の方が、ペットボトルの水と缶入り乾パンを配ってくれた。
「余震は大丈夫そうよ。お家へ帰りたいわ」
「櫻絵さんのポーラスターは、耐震性はしっかりしていそうだ」
ビルから注意深く出る。
「ヒールが低くてもパンプスで転ばないようにね」
「ありがとう」
はっと気付いた。お洒落をして迷惑を掛けてはいけない。また手を取ってくれた。彼のあたたかさが伝わって来る。寒い朝に温もりを感じた。じんわりと込み上げて来るものがある。
「電車は復旧していなかったわね」
「代替バスが出ているようだ。並ぼうか」
三月の風は身を細くするようには吹かない。繋いだ手が知っていた。
「手と手ってあたたかいわね」
「皆が見ていたら離すから」
「例え百人から見られても減る訳ではないわ」
「僕はマジックポイントが減りそうだよ」
「あちゃ、大変だわ」
私は、手を抜こうとしたけれども、彼が握り返した。
「怖いかな」
「い、いえ……。愛していますから」
彼がびくりと震えた。愛を初めて口にしたからだろう。
「櫻絵さん……」
「あのね、あの。本気なのよ」
「光栄ですよ。お姫様」
朝のバスに並んで、金町駅に着いたのは夕方となった。徒歩十五分の自宅を目指す。
「部屋の中に落下物とかないかしら」
「僕も一緒に行くよ」
「寧くんは一つ手前の駅でしょう。私が金町駅だと知ったら、亀有駅に引っ越して来たときを思い出すわ」
私は不謹慎にも楽しい気分になった。家に着くまでも残念な光景を目にする。壁に亀裂が入ったり傾いたりした建物があった。
「ポーラスターに着けてよかった」
「ほっとしたわ。見た目は大丈夫みたいね」
エントランスは開け放してあった。
「一時的かも知れないが、避難所へ去ったのだろう」
階段を使う。あの大都会ビルに比べたら、混乱もなく上がれた。
「寧くん。散らかっていると思うけれども、ゆっくりして行ってね」
くすぐったく微笑んで引いたドアが開き難い。
「僕に任せてくれるかな」
「お願いします」
コツの問題ではなく、力加減だった。
「よかった。助かりました、橘の騎士殿」
「拝まなくていいからね。随分とファンタジーの色彩が上がったな。画風だけでなく、読書傾向も変わったのかな」
ドアを開けて直ぐに零した。
「あちゃー」
「建物は大丈夫そうだったよ。少しだから片付けよう」
寧くんにもスリッパを勧め、自分も履いた。真っ先に窓辺のしば桜の様子を確かめる。
「白が部屋に落下してしまったわ」
鉢も割れて、どうにも元に戻せない。
「薄桃は土を拾って戻せば元気になりそうよ。お水をあげるね」
ライフラインが復旧していた。水が濁り気味だが、きちんと出る。
『櫻絵ちゃん、お水が美味しい。白ちゃんは、〝忍耐〟だったけれども、崩れてしまったのかな』
私がどんなに土を寄せても、白の方は上手く行かなかった。寧くんも手伝ってくれたが、根の状態も悪い。
「お父さんとお母さんが、私を励まそうと株分けしてくれたのに」
喉の奥から込み上げて来るのは、辛い時化だろう。
「無念さが伝わって来るよ。大切だよね」
土を寄せながら、寧くんは気が付いたようだった。
「もしかしたら、栃木のご実家にはないのかな」
「そうだわ。お母さんの広縁の辺りで冬越しをしていたわ。春を待つしば桜が」
私は走馬灯さながら、思い出した。
「しば桜とは、フクお祖母さん、さくらお母さん、櫻絵さんの三代にとって特別なものなのかい」
「心の拠り所なの」
寧くんが膝を打った。
「よし、僕は園芸の知識は乏しいけれども、実家へ行ってみよう。白を元気にさせようか」
「橘の騎士殿、元気になってほしいわ」
「白馬に乗って、しば桜のお世話をしに参じます」
畏まったお辞儀をする。
「寧くんの可愛い所を知って、ご満悦ですわ。ほほほ」
右こめかみが引きつったご令嬢役になった。寧くんは部屋の中をよく観察していた。
「櫻絵さん、危ないかも知れないから布団を一枚捲って、ベッドに寝るといいよ。電灯などは落ちていないようだから」
「ちょっと部屋着になるね」
「騎士は廊下を護りまする」
恥ずかしかったから助かった。ベッドはふっかりとしていた。
「控え目な愛をありがとうね」
「まずは疲れていると思うから、冷凍庫で解凍されてしまった物を食べて力を出そう」
「明日、発とうね」
「分かった。朝九時でいいかな」
「え? 帰らないでよ」
「か、神様、帰らせてください」
「むう。酷いわ」
静かに滲む夜、父母の夢を見た。父とは大学の卒業式以来殆ど会わなかったので嬉しかった。腕で父のお腹に輪を作っても、すっと消えてしまって捉えられない。母には電話こそすれ、孝行娘とは呼べないだろう。慕情を追うように、静かな朝が顔を出した。
「おはよう、寧くん」




