第十六話 甘い囁き
「疲れたろう、なるべく早くおやすみ」
頭をくしゃりと撫でられた。特別なデートにセットしたヘアースタイルが鳥の巣だ。
「美容院のトリートメントで、さらさらにして来たのにな」
ツンツン櫻絵で照れ隠しをする。
「寧くんに頭を触れられたのは、初めてなのよ」
ぷうっと頬を膨らませて、横からちらっと寧くんを射る。微笑ましいと顔に書いてあった。
「大遅刻よ。生原櫻絵の人生に、乗り遅れているの」
寧くんは全てお見通しの顔をした。素敵な方と初めてを一緒に経験していきたいと考えているのは、両親の背中を見て育ったからだ。
「ごめんなさい」
「素直でよろしい。えっへん」
「僕は大切に思っているから。結婚するまで、純でいようよ」
私は冷たい態度を解除した。
「ええ、清くいようね。汚れを拭ってほしい」
「卑屈になっていると、もっと疲れると思う」
作り笑いを見透かされた。
「そうね。脆弱過ぎたわ」
「いや、そんなことないよ。不可抗力だっただろうし、トラウマになっていやしないか心配しているよ」
彼はゆっくりと髪を撫でてくれていた。寧くんのワイシャツの香りが近い。ふいに、ぐっと抱き締められた。心と体をあたためてくれる寧くんもいいと、頬を埋める。
「寧くん。手も中々繋がなかったのにね」
「災害で別れてしまうのが怖くて仕方がないよ」
私へ回した腕が、肩をもしっかりと抱いた。禁猟区に飛び込んだようだ。すっと恍惚に浸りたい。
「どきどきして、もしかしたら気絶するかも知れないわ」
「大丈夫、朝には起こすから」
分かっているのか、はたまた冗句か。
「天然なの、お互い様だと思うけれども」
「仲がいい証拠だろう。さあ、忘れて眠るといいよ」
耳元の息が甘く眩暈がした。あたたかい彼の胸元で、眠ってしまえばいい。夢幻の小鳥の囀りで起こしてくれる。
「毛布は大丈夫だって言ったのに」
「風邪を引いたら大変なんだよ。熱は辛いから」
さっきよりも心地がいい。
「関東大震災の中、祖母もこうして祖父と恋に落ちたのね……」
「櫻絵さん、恋を感じたのが初めてなのかい。出逢ってから僕達はお付き合いしていたよね」
彼の胸で微睡んでいた。別れ話にしたい訳ではない。彼の頬に手を添えて暫く考えた。
「多分、友達以上恋人未満だったのだと思うわ」
「恋さえも居心地が悪ければ、愛も育たないだろう」
私の思考は停止の方へ向いてしまう。
「どうしたの。私よりも小難しい話をしていると、鶯谷大学大学院修了生が、賢くなくなるわよ」
「櫻絵さんは学歴を気にしないと言ったよね。僕は偶々、心理学を活かした広告を打ち出したかったので、相応しい研究をしようと進学しただけだよ」
私はお尻が段々冷たくなって来た。ストレスで生理不順となり、女の子にある赤ちゃんの一滴でも命を落とすことは、私の冥利が悪いだろう。
「寧くん。大学二つ行ったわよね」
「鶯谷大学の前に、東大学の短期大学部を出たよ」
上野美で絵画漬けになっていたので、部活はギター部を選び気分転換をした。同級生とは仲がよかったけれども、先輩の無情な捨て去り方に打ちひしがれたものだ。四年間、東大学へ合同練習をしに向かう。皆賢そうな印象が強かったが、誰にも惚れなかった。面倒だったからか。
「東短大でも卒業制作しないといけないし、楽じゃないわよね。万能なのね」
「怒っているのかな」
「僻んでいます」
私は、ぷうっと頬を膨らませ続けている。忘れん坊のリスさながらだ。どこにドングリ埋めたっけ。
「さっきのツンツン櫻絵さんが直ったと思ったのに」
「私だって、東大学を出ないと」
「関係ないよ。学歴関係なく、燦展受賞したと思うのに。櫻絵さんが東大学で人間関係に悩んだりする姿を想像したくない」
上野美で友達関係を上手く築けなかったのを心配されている。五人展にだって呼んで貰えたのは奇跡だろうか。彼女達の優しさに感謝しなければならない。縁を大切にしなければ。
「私って、そんなに人と上手く行かないのかしら」
「地震が落ち着いたら、ゆっくりするといいよ」
「ぷう。呑気な気持ちではいられないわ、ととっと」
余震が来た。失念した頃に揺れるようだ。彼は落ち着くように包み込んでくれた。私は恥ずかしくて下を向いたが、数ミリに感じる距離感を堪能したい。見れば、彼がいつにない真摯な様子だ。
「糟糠の妻は堂より下さず。櫻絵さんとは、そうなれると思っているよ」
しば桜の薄桃が遠く私に囁く。
『私の花言葉、〝臆病な心〟を振り切って。これは、一世一代の求婚よ』
懸命な寧くんの瞳にやられた。もう仔犬を感じてはいけないだろう。
「後漢書を引用して、三度目のプロポーズなのかしら」
私の声が暗くなった。彼は知性派で、私みたいな芸術爆発派とは反りが合わないだろう。
「プロポーズだよ。どんな言葉になっても僕の気持ちは変わらない。願いを込めているんだ」
彼は、私を毛布に包んで、ビルの壁に寄り掛けた。
「僻んで悪かったわ」
「それも櫻絵さんだから、大丈夫だよ」
芋虫みたいになったので自分で解く。すると、外気が入って来て鳥肌が立った。
「平成元年四月だったね。メトロの出逢いは、櫻絵さんが上野美大一年生、僕が鶯谷大学三年生の頃だった」
「震災の中、想い出のアルバムを開くとは、私の祖父母と同じだわ」
やはり毛布を巻く。芋虫のまま寧くんの懐に転げ込んだ。
「寝物語にいいと思って」
「言葉は要らないの。顔を埋めているだけで、心音が聞こえてとても落ち着くわ」
さらさらと私の髪が肩から落ちる。手櫛でもいい。この瞬間、綺麗に輝きたい。私は純白のウエディングドレスを着て、あなたの元へ向かっている。




