第十三話 群青の水
自分を慰めるように、キャンバスに筆を叩きつけ続けていた。その上から点描を始める。最終形態が読めない作品となりそうだ。暫くして、リンゴやレモンにワインの瓶、布など、セザンヌを思わせるモチーフで形作ったが、まさかのセザンヌと点描のコラボレーションに筆を休める。写真事件から写実主義から抽象芸術を好むようになっていたが、診察してからはすっかり印象派へ転向して行った。
「絵画のちゃんぽんかな。リンゴさんにレモンさん他、皆さん勢いで痛かったらごめんなさいね」
気が付けば半月経ち、カレンダーはチューリップの三月だ。先月二十五日に家賃を支払って以来、催促されていなかった。燦展でいただいた賞金もそれ程余裕がないから、通帳の残高では足りないだろう。心許なさがふつふつと迫って来た。
「寧くんがどうしてプロポーズをしたのか、戯言ではないみたいだわ。禁断の果物に傷を負った私でも結婚相手だと思っていると、伝えたかったのだと思うの。慰めてくれたのかしらね」
絵の具や筆を片付けて、電話の呼び声の一つ目で応じる。
「アタシよアタシ、詐欺じゃないよ」
「お久し振りだわ。葛菊高校の西田さんよね。お元気でしたか」
「ピンポン西田さんでっす。五秒も話していないのに。生原さんは相変わらず記憶力抜群なんじゃん」
私達の間にマリアナ海溝はなく、糸電話で話しているようなものだ。懐かしい話をして笑い合う。
「お手紙が届いたかな?」
「少々お待ちを」
ドアポストに黄色い封筒が入っていた。中にはお便りと共に、五人展のイメージ画がある。
「ふんふん。西田さんと岩下さん、山木さん、増岡さんが、作品をかなり展示されるのね」
イメージ画には展示予定が書いてあった。葛菊高校美術部だった頃と変わりなく、個性豊かな作品群で頼もしい。
「やーだー、私も参加しないかって? 仲間に入れてくれて嬉しいわ」
「進路も別々だったけれども、あの頃のオクラの輪切りグループは健在だよ」
「オクラの……。くすくす。嫌な想い出の抽象芸術は捨てるとして、新しく描き始めた点描画は用意できそうよ。きらきらと瞬きするのが、私からの可愛いお返事」
西田さんは受話器越しにメモを取っている風だった。伝えたいことを纏める。
「イーゼルの上に油彩があるわ。最終形態が点描画で発進予定なのは、まあまあな感じよ。一点だけかしらね。絵の前にリーフレットを置かせてくださると嬉しいわ」
「そうかそうか。油もリーフレットも遠慮なく展示したらいいじゃない」
短かったけれども、内容の濃い電話を終える。ひたすら絵を描いて来た。売れるレベルになるには、階段を登らないとならない。趣味より実益を考えていたが、友達と展示する目標ができて心地がいい。
「うふふ、楽しみができたわ。ちょっと搬入が急だけれども、そろそろ仕上げだから大丈夫かな。リーフレットには勿論あれだわ」
体の方も動けるようになって来た。
「そうだ、寧くんに映画のお礼をしないとね」
私はコートを羽織ってメトロに揺れた。改札からフラットヒールで慎重に外へ上がる。出入り口にステンドグラスが使われており、夕方の日差しが私と私の影までも色彩豊かに照らし出した。気持ちは七色の薔薇だろう。公衆電話の地図は頭に入れてある。
「もしもし、寧くん。お仕事終わったかしら」
『はい。大丈夫ですよ』
寧くんの会社は千代田区にある大手広告業だ。
「会社の地球儀で弓を引く彫像の前にいるの。ちょっと話せない?」
『喜んで。十五分で着くからベンチに腰掛けていてね』
十五分丁度に寧くんがコートを手に、エントランスに駆けて来た。少ししか時間が経っていないのに、オレンジ色した人工の明るさに支配される。
「寧くん、こっちよ。こんばんは」
「やあ、こんばんは。顔色が優れて来て、疲れが取れたみたいだね」
図星だ。けれども、私が頬を紅潮させているのは知っているのか、大人の配慮か。
「今度、フレンチのディナーとかどうかしら。よかったらだけれども」
彼は、二つ返事だ。
「本当に? いいお店を探したのよ」
私は、鼻歌も出そうだった。とても楽しいのが伝わってしまう。
「櫻絵さん、いい日だね」
「うん、晴だったわね」
「天然な所もお気に入りだよ」
失敬してしまったのだろうか。いや、寧くん吹いているから、笑われているのだろう。
「日曜日の午後七時で大丈夫かしら」
「前向きになってくれて僕はとても嬉しいな」
寧くんはコートを羽織ると、背を向けて鼻の下を触っている。もしかして、鼻の下が伸びたのかと勘ぐってしまった。
「前日の午前は、一点だけれども五人展に出させて貰えることになって搬入があるの」
「凄いね。その日は櫻絵さんのお友達とお付き合いとか大丈夫かな」
五人展の電話で打ち合わせしたことを伝える。
「二時間位飲みがあるようだけれども、一次会で切り上げるから遠慮しないで」
「うーん、五人展か。燦展へ一緒に行けなかったから、是非お誘いしてほしい」
二人して唸りながら顎に触れて考えるポーズをした。私が笑うと寧くんも笑う。
「そうね。三月十七日、日曜日の午後なら丁度いいわ。私と一緒に顔を出そうか」
寧くんが渋い顔をしている。どうしたのだろう。
「上野美大で、お友達に恵まれなかったようだったけれども、安心したよ」
「彼女達は、他大学の卒業生なのよ。高校が同じで、部活も美術部兼絵手紙部だったわ」
「ふむふむ。流石、葛菊高校だね。部活も懐かしいだろう」
寧くんの声色は明るかった。私の様子を反映しているからか。
「日曜日に、五人展とレストランの約束な」
「午後三時に中野区の展示場前はどうかしら」
「了解だよ」
話を切り上げて、会社から先程のメトロまで歩いて行った。ステンドグラスの出入り口まで近くて残念に思う。彼も同じ気持ちだといいと、胸に手を当てていた。
「私、絵を仕上げて、リーフレットの支度すら忘れていたわ」
「はは、がんばらないとね」
手を振って別れるのかと思うと、胸が締め付けられた。お付き合いをしたとしても帰る家は別々だ。結婚との違いは同居にあるのかと悩みながら帰途に就く。
「はあ……。ただいまを言ったら自分でお返事だわ」
『おかえりなさい。櫻絵ちゃん』
『薄桃も待ってましたよ』
「きゅんとするわ。しば桜ちゃん」
ベッドにダイブした。
「油はまた明日にして、ラフ案に取り掛かろう。そうだなあ、色を決めないとね」
益子焼に緑茶を注ぐと、母を思い出した。出涸らしでも美味しくいただいている母を。出涸らしの色よりも私らしい色を探さなければ。実家にお風呂があった。群青色の五右衛門風呂こそ、想い出深い。祖母か母が炊いて、私が子どもの時分は父とよく入ったものだ。そう言えば、母がよく話していた。男尊女卑があったから、母と入ると仕舞い風呂となって垢も甚だしいが、父と入ると一番風呂で湯も明るかった。
「さて、手を動かさないとね」
油絵具でウルトラマリンブルーが手元にある。さっと高く電灯に翳す。惚れ惚れする色だ。この群青色をこれからのテーマにしたい。
「リーフレットの題は、『群青の水』としよう」
私は、群青の水に浮かぶお姫様となっていた。川岸にいたのに、ゆるやかに流されて行く。葦もなくなってしまった。姫君は溺れてしまうのだろうか。
「お母さん、私は一人でやって行けますか」
母に電話をしようと思ったが、もう九時だ。流石に眠っているだろう。
「お母さん」
しば桜の冬越しは上手く行きそうです。
『うふふ』
『うふふ』
うちのしば桜だけではなく、栃木のも雪から顔を出しただろうか。囁きは耳に心地よい。




