第十話 暴露の戸
受話器が乱暴に切られたと思ったら、玄関の外で大きな音がした。
「殴ることないだろう」
「お前、橘寧だよな」
「暴力振るってから確認するのは、間違っている」
「確証を得たからよしと」
殴る。そして、床に叩きつけられる。寧くんが飛ばされたようだ。
「大変だわ。サンドバッグにしないでよ」
止めに入りたかった。でも、私の姿をあのオトコにだけは見せたくない。
「インターフォンは違う。私の声が届かない」
玄関へ狂ったように這い出た。ドア越しに訴える。
「紫堂くん、警察を呼ぶわよ」
「怖えな。櫻絵、ヤバイ女だぜ」
「女の前に人なのよ」
あの言葉が聴こえる。
『人の子は、人と思わないかい』
先程の母の言葉だ。親らしい広い懐に初めて触れた。
「櫻絵が人だって? お前って自分が変わっているの知らないのかよ」
「普通の人だわ」
「お前は異端児だ。櫻絵」
「どうしてそんなことを決めつけるの」
私を煽っているのか。お腹がじくじく痛い。早く病院へ行きたいのに。
「ぐあーはっはは!」
急な嘲笑に驚いた。
「コイツのヘソの上に変な痣があるって知ってたか? 橘寧」
「はあ……?」
私は上手く考えが纏まらない。あのときのテープの声が際限なく回って聞こえた。寧くんに本当に教えるだなんて。
「橘寧よ! はーはっは」
「寧くん……。嘘を信じないで」
ドアを開けた方がいいのか。茶色いドアを力の限り数回叩いた。
「動じるなんて櫻絵らしくねえな」
「寧くん。私を信頼して」
大切な寧くんを傷付けてしまう。
「小さな桜のような痣だったな。櫻絵」
ドアの向こうからノックがした。これは、寧くんだろう。ショックが大きい筈だ。
「櫻絵さん、病院へ行こう」
項垂れているかと思ったら、張りのある声だった。
「話は分かったわ。紫堂くん」
「痣の件は聞いたよ。帰って貰おうか」
「おい、いいのかよ」
寧くんと私の気持ちが一致する。
「警察を呼ばれたくなかったら、大人しくお帰りください」
「櫻絵、マジ怒りかよ」
「お帰りください」
二人揃って排斥する。
「僕も帰ってほしい。暴力のことを黙っていてほしかったら」
「畜生。うざったいな」
ドアに憎しみを込めて一蹴りされた。
◆◆
「あの人は、エレベーターで降りて行ったよ。櫻絵さんは具合が悪いんだろう。僕と病院へ行こう」
「寧くん、気分を害した?」
彼の反応が恐ろしかった。私がもっと抵抗していたらよかったのか。
「時間は戻らないし、櫻絵さんが健康になるのが先だ」
私はドアの向こうで袖を濡らしていた。秘密を暴露された戸を開けて、寧くんにどれだけ謝ったらいいのか分からない。
「私、悔しくって」
「気概があるなら大丈夫だよ。大きな病院がいいかも知れないね。電話して行ってみよう」
私もなるべくお手当をした。
「もう、誰もいないわよね」
「安心していいよ」
ドアをそっと開ける。先程の喧騒が嘘のようだ。エレベーターが、未来への道を感じさせる。
「さあ、慌てずに乗って」
「ええ」
「大丈夫かい。荷物を持つよ」
「心から感謝しているわ」
相変わらず優しさは売る程ある。彼は私に勿体ない。
「ねえ、私達の未来は曲がってしまったかしら」
「僕に振られることを案じているのかい」
セダンをポーラスターの入り口まで寄せてくれた。後部座席で寝転がりたかったが、離れ難くて助手席にする。
「よいしょ」
「急患を受け入れてくれるそうだよ」
「お電話してくれたのね。ありがとうは繰り返しても尽きないものだわ」
寧くんは総合病院へ連れて行ってくれた。車中で元気付ける話も沢山してくれた。
「大丈夫だよ」
切り取ったように五文字の台詞が沁みる。怠くなって座席に寄り掛かっているばかりだ。
「僕は駐車場へ行くから」
僅かの間だった。もう立っていることも奇跡的で、ベンチに腰掛けた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、看護師さん。電話をした生原櫻絵ですが。止まらないんです」
「車椅子を持って来ます」
その間、知らない女性に目を配られた。
「奥さん。丁字帯なら持っていますよ。お使いになられますか?」
親切に触れて泣きじゃくりたかった。丁字帯は初めて耳にする。
「大丈夫です。ありがとうございます」
「お大事になさってください」
素敵な方と出会えたことに感謝しよう。看護師さんが車椅子を横に置いた。
「お待たせいたしました。車椅子へ腰を横滑りするようにできますか」
「ええ」
「櫻絵さん。遅くなってすみません」
丁度、寧くんが現れた。
「旦那様ですか」
「恋人です。彼が病院へ連れて来てくれました」
七階の産婦人科へ着いた。
「先生が来るまでにこちらで下着を脱いでお待ちください」
不安だらけだが従った。脚を冷たいものが伝う。ひやりとした。あらゆることが頭を過る。
「先生がお見えですから、台に乗ってください」
「こんな状態ですが」
「落ち着いてください。診察をしましょう」
間もなく診察は終わったと伝えられた。寧くんも一緒に医師の説明を受ける。
「最終月経はいつですか」
「昨年の十二月三日です」
父の葬儀より前だ。
「妊娠の可能性はありません。最近大きなストレスはありませんでしたか? ホルモンバランスの乱れも関係してきます」
俯いて心の弱さを恥じいた。
「ご自身を責めてはいけませんよ。生原さん」
丸縁眼鏡の奥底から医師の表情は読み取れなかった。
「またお困りのときは、遠慮なく病院を頼ってください」
背徳感しかなかったが、立ち直らなければ。
『薄桃よ。櫻絵ちゃんは悪くないわ』
『白よ。本当の恋も愛も自分で歩みましょう』
◆◆
「櫻絵さん、自宅で安静にしようね」
「子宮一号、万歳だわ! 万歳、万歳、万歳!」
助手席で私はくたばっていた。自暴自棄になって道化もいい所だ。
「状態が悪かったら気持ちに効く薬もあると先生が仰っていたよ。静養を心掛けてくださいとも」
寧くんは、自棄な私を包み込むように想ってくれていたようだ。
「僕はね、生原櫻絵さんと結婚したいと思っているんだ」
「万歳、万歳」
「落ち着いたら、改めてプロポーズをするからね」
「万歳!」
「哀しみの櫻絵さんを独りぼっちにできない。自分を傷物だなんて思わないでほしいよ」
私の無駄口に封をされた。枯れてしまって出なかった涙が堰を切り、とうとうと流れる。両親から贈られたしば桜に注いでもいい。運転席の反対側を向いた。景色はどこもかしこも都会だ。私の事故は、煌めく街の車に轢かれたからか。
「未来は、どこへ繋がるの……」




