鼠のカレンダー
師走の朝。
祖父は、コートを羽織って出かけていった。
亜美はこれから留守番を頼まれている。
小さな税理士事務所にひとり。
祖父は所長で、米寿を迎えたが現役だ。職員は皆、顧問先に直行らしい。
亜美は、高校生活が上手くいかず自室に籠っていたが、祖父に呼ばれ久しぶりに外に出た。
午前中だけとはいえ、勇気がいった。
──クレームとか来たらどうしよう。
同級生たちの粘りつくような口調が頭をよぎる。
実際は拍子抜けするほど平穏で、電話もほとんど鳴らなかった。
もう昼時だ。
ほっとしたその矢先。
からん。
玄関の鈴が鳴った。
そこには、カレンダーを山ほど抱えた異様な男が立っていた。
薄汚れ、饐えた臭いが漂う。まるで路地裏の溝鼠のようだ。
男はカレンダーを広げながら「買ってくれないと困るんだよなぁ」と厭な笑みを浮かべた。
「施設のガキどもが描いたカレンダーでな。売れなきゃ年も越せねぇ。可哀想だろうが」
男は、人差し指を立てて迫る。
「一部たったの一万円だ。税理士先生のところなら安いもんだろ」
──絶対、詐欺だ。
けれど誰もいない事務所で怒らせたら。
黙り込む亜美の前で、男は壁を叩いて決断を急かした。その大きな音に心臓が跳ねる。
机を蹴られた日々。
でもこれは、あの日々よりはましなはずだ。今この場を乗り切ればそれで済む。
そう自分に言い聞かせて踏んばった。
「わ、私、ただの留守番で」
声は出た。顔は上げられなかったけれど。
その耳に玄関の鈴と、祖父の「いらっしゃい」という穏やかな声が聞こえた。
「ぎょうさんあるなぁ。いくらかね?」
祖父は男の風体をちらと見た。そして三つも買った。
詐欺なのに。
男も面食らったようで足早に去っていった。
「あの人も、年越さんとならんしな」
戦後は自分も色々やったしなぁ。そう言って祖父は、三つのカレンダーを段ボールに放り込んだ。
中には、業者や顧問先からの色取取のカレンダーが積まれている。
「すきなの持って帰り」
祖父に促され、ひとつを手に取った。
──来年は鼠年か。
干支の最初の年。
新たなはじまりを意味するその年。
来年の自分はどこにいるのだろう。
このままでは進級できない。留年するか。どうするか。
表紙には、色んな鼠がひしめいている。
「色んな人がおるからな。転校でも留学でも試してみ。金なら心配せんでええ」
亜美は頷きながら、さっきの一万円のカレンダーも手に取った。
表紙をめくると、中には剣を持った勇ましい鼠がクレヨンで描かれていた。
了