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お姉様から婚約者を奪って、幸せにしてみせますわ

作者: 歩芽川ゆい

拙作「婚約破棄された令嬢は、婚約者を奪った妹に現実を見せつける」https://ncode.syosetu.com/novelview/infotop/ncode/n3237ib/ の、妹ラクリマンド視点のお話です。

「ごめんね~お姉さま。サメンテ様をとっちゃって。でもお姉さまが悪いのよ、お姉さまって、固すぎるんだもの。だからサメンテ様が私の方が可愛くていいな、って思っちゃったのよ?」


 ある日のティータイム、屋敷の庭の一角にある東屋において、レガート侯爵家カンティレーナ令嬢は、婚約者であるマエスト王国の第1皇子サメンテに突然婚約破棄を言い渡された。そしてそのサメンテと新たに婚約を結ぶというのが、カンティレーナの妹、ラクリマンドだったのだ。

 ラクリマンドは満面の笑みで、サメンテにしなだれかかってカンティレーナに向かって言い放ったのが上記のセリフだった。


 カンティレーナは少し青ざめ言葉もなく二人を茫然と見ていた。

その姉に向かって、ラクリマンドはさらに言った。


「恨むなら自分を恨んでよね、その無表情で面白味もな~んにもない、自分に!」


***


「カンティレーナ、あなたとの婚約を解消しても良いだろうか」


 マエスト王国の第1王子サメンテは、王宮の東屋で婚約者であるレガート侯爵家カンティレーナ令嬢に、そう切り出した。


「……サメンテさま、今、なんと?」

「あなたとの婚約を解消したいと、言った」

「聞き間違いではなかったようですね。理由をお聞きしても?」

 

 この東屋には二人と、二人の従者、それに護衛が少し離れたところにいるだけで、他人に聞かれることがない場所とはいえ、こんなところで話す内容ではない。

 それゆえに一度聞きなおしたカンティレーナだったが、間違いではないと確認して、持っていたカップをソーサーに戻しながら聞いた。


「実は、あなたの妹が」

「ラクリマンドですか?」

「そうだ。彼女が、自分の方が私の婚約者にふさわしいと直訴してきたのだ」

「はあ」

「最初は全く相手にしなかったのだが、先日30回目の直訴を受けて、その情熱に打たれた。それであなたさえよければ、考慮してみようかと」


 カンティレーナは、つと目線を落とし、膝の上の扇を開いて、口元に持ってきた。


「妹ですか……。あの子にサメンテ様の婚約者が務まりますでしょうか」

「本人はやる気だよ。決意を聞いてみるかい?」


 サメンテが従者に手で合図をすると、ラクリマンドがサメンテの後方から現れた。


 カンティレーナとサメンテは今年で19歳。

 カンティレーナは流れるようなストレートのダークグレーの髪を、今日はハーフアップにしているだけで、後ろに流している。装いも落ち着いたネイビーブルーで、その暗い青を強調するように効果的にちりばめられた小さな宝石たちのついたシンプルなAラインドレスを着用している。


 それに対して後ろから出てきた2歳年下のラクリマンドは、髪の色こそカンティレーナと似た色だが、こちらはつややかなダークブルーの毛先を巻き、ハーフアップに上げている。

 ドレスは明るい青で、レースを効果的に使った、腰の括れを強調したプリンセスラインだ。


 姉妹だけあって、顔はよく似ている。カンティレーナの方がしっかりして見え、ラクリマンドはかわいい系かもしれない、という位の違いだ。


「殿下」

「ああ。ラクリマンド、こちらに」


 サメンテは立ち上がり、彼女に向かって手を差し伸べ、ラクリマンドは微笑んでその手を取った。そしてサメンテのエスコートで、彼の隣の席に腰掛ける。それを見守ってからサメンテも腰掛けた。

 すぐに控えていた侍女がラクリマンドの分の紅茶を入れる。それを優雅に一口頂いたラクリマンドがカンティレーナに話しかけた。


「お姉さま。私、お姉さまよりも殿下のお嫁さんに向いていると思うの」

「どうしてか聞いてもいいかしら?」

「もちろんですとも。私はお姉さまより2歳年下だけれど、うちの女家庭教師もお姉さまと遜色ないと太鼓判を押してくださいましたわ。それどころか、踊りや楽器は私の方が上手いと言っていただいてますし、何よりもサメンテ様をお姉さまよりも愛していますから」

「どれを基準にそんな事を言っているのか分からないけれど、私よりも愛しているというのは、どういう事かしら?」

「だってお姉さま、毎日忙しいとサメンテさまとデートの一つもしないじゃないですか」

「それは、わたくしだけではなく、殿下もお忙しいから、お時間が合わないのよ」

「私とは何度もデートをしてくださいましたわ。お姉さま、時間は合わせるものではなく、作るものなのよ?」

「そう言われても……」


 カンティレーナがサメンテを見ると、ひとりで穏やかに茶を飲んでいた。その目線が重なる。


「殿下、妹とデート、なさったのですか?」

「あれをデートと言って良いのか分からないが」

「あれは紛れもなくデートですわ!」


 フンスと鼻息も荒く、ラクリマンドが割って入る。


「お忙しい殿下ですもの、執務室で一緒にお茶を飲んだり、この東屋で少しだけおしゃべりをしたりでしたけれど、お姉さまのように婚約者の義務でお茶しているのではないもの。あれはデートよ」

「……そう」


 確かに婚約者としての義務で、10日に1度程度お茶の時間が設けられていて、二人きりで会っている。だが確かに二人とも口数は少ない。

 カンティレーナが黙ってしまうと、サメンテが口を開いた。


「カンティレーナ嬢、あなたはずっと忙しかっただろう? ここで少し、ゆっくりしてみたらどうだろうか」

「……もうわたくしに、王妃教育は必要ないとおっしゃるのですか?」


 思わず縋るような声になっていたが、サメンテは全く気に留めず、頷いた。


「ああ。必要ないだろう」

「代わりにラクリマンドが、王妃教育を受けるというのですか?」

「本人がやりたがっているんだ、やらせてやっても良いと、私は考えている」

「そんな簡単に決めていいことではないと思うのですが……」

「正直に言うとだな」


 サメンテは真剣な目でカンティレーナを見つめた。


「王妃教育は、受けたいものが受ければいいのだ。高位貴族の令嬢なら、そんなに難しいものではないのだから」

「そ、そんな……」

「ですよね!」


 思わず声が震えるカンティレーナを横目に、ラクリマンドは歓声を上げた。

 サメンテはそんなラクリマンドを見て、フッ、と笑った。


「いいんじゃないか? こんなにやる気があるんだ。その方がカンティレーナも楽になるだろう」

「……殿下……」

「うふふ、殿下、ありがとうございますぅ~!」


 俯いて震えるカンティレーナと、キラキラした目でサメンテを見つめて両手を顔のまえで握っているラクリマンドという対照的な二人と同じテーブルで、サメンテは初めて体勢を崩した。

 椅子に斜めに座って足を組み、片ひじをテーブルに乗せてその手を側頭部に当てる。このように崩れた姿勢を、この皇太子が人前ですることはほとんどない。それを見せるという事は、彼は今非常にリラックスしているという事だ。それがラクリマンドには嬉しかった。

 サメンテはそのまま視線をカンティレーナに向けて言った。


「そういう事だ。カンティレーナ嬢。婚約を解消してくれ。そしてラクリマンドとの婚約を前提に動いていきたい」

「ありがとうございます殿下! 大好き!!」

「おいおい、飛びつかないでくれ。ひとまえだし、まだ婚約などしていないのだから」

「お姉さまと婚約を破棄したのですから、良いではありませんか! というか、すぐに婚約してくださいな!」

「そうはいかないよ。色々手続きがあるし、何よりもあなたが王妃教育に耐えられなければ、婚約しても意味がないのだから」

「大丈夫です! お姉さまが出来たのですから、私にも出来ます!」

「そうだと良いのだけれど。まあともかく、まずは婚約解消の手続きに3か月はかかる。そのあと、新しく婚約するための手続きに3か月程度はかかるのだ。その間の半年、王妃教育にいそしんでくれるね?」

「そんなにかかるんですか? ……はあい、分かりました」

「聞き分けてくれて嬉しいよ。それじゃあ、早速明日の朝から城に来て教育を受けてくれ。担当の者には伝えておくから。あとの事は宮廷家庭教師のグラーチレに聞いてくれ。ああ、カンティレーナ、ラクリマンドをグラーチレに引き合わせてくれ。それがすんだら、君は下がっていいから」

「……はい」


 涙ながらに小さな声で答えたカンティレーナは、涙を見せないようにうつむいたまま立ち上がり、後ろを向いてそっとハンカチで目頭を押さえた。そうして、綺麗な綺麗なカーテシーを披露してから、ラクリマンドに付いて来るように、と声を掛けた。


 ラクリマンドは喜び勇んで、ピョンと立ち上がり、カーテシーをサメンテに披露してから、カンティレーナに付いて行った。


 人気のない王城の廊下を歩いている時、ラクリマンドはカンティレーナの隣に並んで、その顔を覗き込んだ。


「ごめんね~お姉さま。サメンテ様をとっちゃって」

「……」

「だってぇ、お姉さまって、固すぎるんだもの。だからサメンテ様が私の方が可愛くていいな、って思っちゃったのよ?」

「……」

「恨むなら自分を恨んでよね、その無表情で面白味もな~んにもない、自分に!」


 ラクリマンドはサメンテに言われて、カンティレーナに連れられて王妃教育の教育係に会うべく、城の廊下を、姉のカンティレーナの少し後ろを歩いていた。


***

 

 二人はこの国の5家の侯爵家の一つ、レガート侯爵家の姉妹だ。そして二人は高位貴族の中でも非常に優秀な姉妹として有名だった。

 二人とも、両親の愛を同じようにたっぷりと受けて育った。そしてラクリマンドはいつも大好きな姉の後を付いて回り、カンティレーナも妹を誰よりも愛して可愛がった。

 そんな優しく美しく優雅で優秀な2歳年上の姉は、ラクリマンドにとって自慢の姉でもあり、誰よりもカンティレーナを尊敬していた。


 最初に淑女教育を始めたのは姉のカンティレーナだが、その教師であるイラリタは、その教育の場に付いてきて、部屋の隅で見よう見まねでマナーを学ぼうとしているラクリマンドを見て、両親である侯爵夫妻にラクリマンドにも家庭教師をつけるよう進言し、カンティレーナが7歳の時、ラクリマンドは4歳で始めることとなった。


 妹の特性か、姉の教育を見ていたおかげか、ラクリマンドは幼児とは思えない速さで知識とマナーを身に着けて行った。姉も負けていられないと意欲を燃やして勉学に取り組み、二人はほどなく優秀な姉妹として認められるようになった。


 そしてカンティレーナが10歳、ラクリマンド8歳の時に、王家からの要請で二人はサメンテと国王、王妃と面談をし、カンティレーナが婚約者として選ばれた。


 ラクリマンドは素直に喜んだ。婚約者が何かをよくわかっていなかったのもあるが、姉が選ばれたという事がうれしかった。あれだけ優秀な姉なのだ、選ばれて当然だ。サメンテの隣に並んだカンティレーナがそれはそれは嬉しそうに少し顔を赤らめて微笑んでいるのも、心から祝福して見ていた。


 だが、王妃教育の始まった姉は、次第にその顔から表情が消えていった。今までは必ず夕食後に姉妹でどちらかの部屋でおしゃべりなどのひと時を一緒に楽しんだのに、それも無くなった。

 たまには一緒にお買い物に行きましょう、と誘ってみても、忙しいとか講義の復習をしないといけないから、と断られるようになった。

 王妃教育から3か月も経つと、王城での姉はいつでも微笑みを絶やさないそうだが、家ではすでに能面状態だった。たまに見せる笑いは気持ち悪い無感情の張り付けたような微笑みで。以前と違って輝くような笑みではない。

 そしてできる限り家族で取っていた夕飯も、カンティレーナは一緒に取らなくなってきた。何なら夕飯時間までに帰宅しない。王城での教育の時間は夕飯前の時間に余裕で間に合うように帰宅できる時間に終わっているにも関わらず、だ。

 姉に何故こんな時間まで帰宅しないのかと何度も聞いたが、『補習を受けている』『勉強が終わらない』と返ってきた。どこかで遊んでいるのではと少し思ったが、未来の王妃として姉には護衛ががっつり付いているし、城と屋敷しか往復していないのも確認が取れているから、姉がそういうのなら嘘ではないのだろう。


 ラクリマンドは面白くなかった。自分より優秀なはずの姉が、何故こんなに疲れ果てているのだろうかと。そんなに王妃教育というものは難しいものなのか、と自分の教育係であるインティモに聞いてみたことがある。


 インティモはじっとラクリマンドを見て言った。


「確かに王妃教育は、普通の令嬢教育以上のものを行っています。しかしカンティレーナ様が付いていけないほどのものではないはずなのですが」

「インティモは、王妃教育がどんなものなのか知っているの?」

「王妃教育は公開はされておりませんから、正確なところは存じませんが、範囲としては知っております」


 この国で高位の令嬢の教育を担当するものは、大学の教育学部を卒業した貴族令嬢が多い。インティモも姉の家庭教師のイラリタもそうだ。その教育の中でそう教わったという。


「それなら、インティモも少しは王妃教育を教えられるの?」

「……そうですね、王妃教育を模したものならば、可能です」

「それなら、私にそれを教えてくれない?」

「ラクリマンド様にですか?」

「お姉さまは女神よ。誰よりも優雅で賢くて。でも誰も下に見たりしない。私がわがままを言っても、笑顔で叶えてくれる。本当に美しい、私の女神よ」

「カンティレーナ様がお美しく賢いのは、おっしゃる通りですが」

「女神の妹が凡人では困るの。どんな努力もするわ。だからお姉さまと同じような教育を受けたいの」

「ラクリマンド様はすでに一流の令嬢です。8歳とは思えないほどに優秀でいらっしゃいますよ」

「ありがとう、インティモのおかげよ。でもお姉様はその先をいっているわ。マナーも立ち居振る舞いも、誰よりも優雅だわ。知識もね。わたくしの知らないことをたくさん知ってるわ。しかもそれを自慢することなく、わたくしにも優しくわかりやすく教えてくださるの。このまま普通の令嬢教育ではお姉様と差が開いてしまう。それでは皇太子妃の妹として恥ずかしいし、いざという時にお姉様の手助けをして差し上げられないわ」

「カンティレーナ様の手助けをしたいのですか? カンティレーナ様を超えるのではなく?」


 いきなりインティもが眼光鋭く、強い口調でラクリマンドに言った。ラクリマンドは面食らったが、『姉を超える』というワードに魅力を感じた。


 そうだ、妹が姉を超えてはいけないという決まりはない。それに姉が家を出るのなら、この家を継ぐのは自分だ。次期侯爵には婿入りした相手がなるのが普通だが、自分だって侯爵夫人になるし、何よりも皇太子妃の妹の家だ。どこよりも立派に経営して行かなければならない。

 女性が婿の後方支援に回るのは、女性はマナーと立ち居振る舞いを中心に学ぶからだ。それ以上の知識があれば、自分が領地経営もできるかもしれない。その方が皇太子妃の妹としてふさわしいのではないだろうか。

 王妃教育は厳しいと聞く。姉がそれに挑戦するのなら、自分だって挑戦するべきだ。そしていざとなったら姉を助け、侯爵家を盛り立てていくのだ。


「……お姉様と並び立てるかしら?」

「ラクリマンド様ならカンティレーナ様を超えることも可能ですわ」


 インティモは子爵家出身の令嬢だった。勉学が得意で、貴族も通う高等学校を優秀な成績で卒業し、そのあと貴族大学の教育学部でも学んでいた。

 この国では、一般的に女性は17~8で婚約し、20を超えたら結婚するような環境で、その時に脇目もふらず勉学に励んでいた彼女には、気が付いた時には良いご縁に巡り合えなかった。しかも家は長男が継ぎ、4人きょうだいの末っ子であるインティモが手伝うような事も特になかった。


 それでインティモは自分の知識を生かすべく家庭教師となり、この家に来たのだ。

 その知識をフルに活かす時が来た。ただの礼儀ではなく、大学で教わった深い知識を。インティモは深く頷いた。


「良いでしょう。わたくしの知識を全て、あなたに叩き込みましょう。しかし良いですか? 普通の令嬢が教わる以上の知識です。講義も今までの1回30分では足りませんから45分にしますし、週3日から4日に増やします。もちろん刺繍の時間とピアノ、ダンスのレッスンも増やしますよ」

「お姉さまは週5日、お城に行くわ。私も週5日でよくってよ」

「……いきなりはわたくしが困ります。授業準備もしなくてはいけないのですから。ですから、しばらくは週4で、準備が整い次第週5にいたしましょう」

「ありがとう、インティモ。お父様にはお給料アップをお願いしておくからね」

「……よろしくお願いいたします」


 力強く頷くインティモに、ラクリマンドも力強く頷き、二人は王妃教育的な教育に取り掛かるにした。


 令嬢たちが習う算術は、基本的に買い物に使う金額計算が出来れば良い事になっている。実際には家の名前で購入して家令などが後から店に代金を支払っているから計算も必要ないが、全く何も分からずに買い物をされては困るから、足し算と引き算は必須、もう少し頑張って掛け算を習得する程度だ。そのあとは貴族も通う高等学院に入学すれば、もう少し難しい内容を習う事になる。


 だがラクリマンドは掛け算と割り算まで習得する予定を立てた。足し算引き算も貴族令嬢はざっくりとした数字、100+200とか、500-300などというように分かりやすい数でしかなかったものを、1の桁も数字が入るような細かいものにしてもらった。


 基本の計算は出来ているから理解は早かったが、これを速く解くために、インティモは50問ずつの足し算、引き算の問題を大量に作ってきた。それを一回1枚、45分以内に解く。最初は時間が足りなくて半分くらいがやっとだったが、ラクリマンドは毎回果敢に挑戦して、3か月ほど経った頃には、足し算は時間内に余裕で終わるようになった。次は引き算、そして掛け算、割り算と、他の令嬢が全くやらない内容を、ラクリマンドは解き続けた。


 国語もインティモが持ってきた本を読み、インティモが出す問題に答えた。単語の書き取りも毎回沢山出されたし、覚えるのも大変だったが、国内で使われる単語を書けないような王妃がいるわけがない。姉に少しでも近づくために、ラクリマンドは奮起した。


 有名な長い文章を覚えろと言われれば、必死に覚えた。インティモが上の句を言えば、ラクリマンドは続きの句を即座に答える。純文学と言われる分野は苦手だったが、食らいついていった。


 王妃の妹で、女侯爵を目指すものが、国の成り立ちや場所を知らないとは言えない。だから歴史も学んだし、地理も学んだ。国内に30ある領地の名前や場所、山や川まで覚えた。そして歴代国王の名前も覚えた。

 おかげで貴族用の高等学院に15歳で入学した時には、学内試験で何の苦もなく一位を取り続けた。学院始まって以来の秀才と言われ、伯爵令息たちが悔しがって地団駄をふむ様子が面白いと思った。


 その時期にも家でダンスやピアノも、毎回30分きっちりと練習した。インティモはピアノ演奏は得意ではなかったので、途中からはピアニストを呼んで教えてもらった。どこの生徒よりも出来がいいと褒められ、家の中でも事あるごとに演奏会を開いた。両親は盛大に拍手をしてくれたが、カンティレーナは無表情で聴いて、控えめな拍手をするだけだった。


 どこへ出しても恥ずかしくない娘。立派な令嬢、淑女の鑑。16歳くらいからそんな風に言われ、実際にどこの茶会に行っても、自分よりも完璧なマナーや立ち居振る舞いの令嬢などいなかった。


 その証拠に、学院では1年時にして生徒会とやらに誘われた。令息だけで構成されているそれに令嬢が初めて招待されただけでも学院にどよめきが起きた。

 2年の令息と共に計算問題を提示されたので難なく解いたら、あまりの速さに驚かれた。もちろんすべて正解で、一緒に受けた男爵令息が茫然としていた。後から聞いた話だが、彼は会計係として生徒会長とやらから直々に誘われた人だったらしい。

 ラクリマンドは優秀な女生徒がいる、という評判だけで会の賑やかしにと誘われただけらしいが、3年で現職の会計係よりも計算が早く正確だったことに、生徒会とやらの全員が愕然としたそうだ。


 生徒会とやらは、学院内の生徒側のアレコレを取り仕切る、小さな貴族院のようなものらしかった。そこで経営側の経験を積み、将来の領地経営や就職に備えるらしい。成績優秀者ではないと入れないらしいので、誘われただけでも光栄な事らしい。

 生徒会長の侯爵家令息から熱心に入会を乞われ、お姉さまや家の役に立つのならと、副会計としての役割を引き受けた。


 本来、ラクリマンドは高等学院など通う必要はなかったのだが、自分の実力試しと外部での授業も受けてみたいと望んで入学したのだ。会計の時の出来事で判明しているが、能力が高かったので、入学して半年で2学年に、そして次の年には3年に飛び級し、それも半年ですべての教育課程を終えてしまった。

 結局生徒会は1年で退会した。3年になったら生徒会長になるのだろうと学院から注目されていたが、きちんと3年かけて経験を積んできた人たちを押しのけて何かをするべきではないと考えたのだ。

 ラクリマンドは自身の経験のために入っただけだ。ここで令息たちと仲たがいする方が将来のためにならないだろうと判断し、やりたいことがあるので、というあいまいな理由で退会した。

 

 ちなみにその判断が生徒全員に好評で、ラクリマンドは卒業するまでの半年、生徒会長よりも人気者だった。

 その卒業は、たった一人でのものとなった。卒業式も記念の舞踏会も何もない、学院長室での卒業証書をうけとるだけのひっそりとした卒業だった。だが証書を受け取って学院長にさんざん大学へ進むようにとの懇願を受け、考えておきますわと部屋を出たら、在校生がずらりと集まっており、彼らの祝福を受けながら学院を出た。


 家で両親に褒められ、さすがの姉もこの日ばかりは王妃教育を切り上げて帰宅しており、久しぶりに全員で侯爵家のみの簡易的なパーティを開いてもらい、カンティレーナとも楽しく話をした。

 姉に『そんなことも知っているの? あの人とも知り合いなの? ラクリマンドは凄いわね』と何度も褒められ、お姉さまはご存じじゃあないの? と問い返すと、姉は微妙な笑顔で『そうね、知らなかったわ。それに私の友好範囲は狭いから』と返してきた。


 ラクリマンドは歓喜した。王妃教育を受けているカンティレーナよりも知識がある事に。これで姉の上を行けたのではないか。

 学院生活も無駄ではなかった。知り合いもたくさん出来たし、姉以上の知識を付けた。これで姉に並ぶことが出来た! いや、姉の上を行けた!


 嬉しくてカンティレーナの手を取ってダンスをした。驚いたカンティレーナだったが、すぐに男性パートを踊ってくれた。さすが姉だ、ラクリマンドは女性パートしか踊れないというのに。


「どうしてお姉さまは男性パートを踊れるの?」

「国でのパーティでは何があるかわからないから、一応踊れるように教わったの。上手くはないけれど」


 追い抜いたと思ったのに、すぐに差を付けられた。ラクリマンドは落胆したが、すぐに気が付いた。


 姉と目線が合わない。別にカンティレーナが足元を見ているわけではない。だが姉は他を見ているようで、微妙に視線が合わない。どこを見ているのかと視線を追ったが、特定の場所を見ているようには見えなかった。なにせ家には使用人達と両親しかいないのだ、見る所なんて他にないのに。


 ラクリマンドがじっとカンティレーナを見ていると、それに気が付いたカンティレーナが苦笑していった。


「ごめんなさい、男性パートは自信がなくて、お父様の動きをみていたの」

「そうでしたの。でもちょっと寂しかったわ」

「そうよね」


 そこからは目線を合わせてくれて、踊りながらいろいろ話をした。カンティレーナは学院でのラクリマンドの経験を楽しそうに聞いてくれた。


 ダンスが終わると使用人やインティモにお願いされて、ピアノを披露した。

 カンティレーナも誘ったが、ラクリマンドの方が上手だからとただ微笑んで聞いていた。


 後日、知り合いの令嬢たちを招いて、卒業祝いのパーティを開いた。初めて自分ですべてを取り仕切ったパーティだったが、生徒会での経験が役にたって、準備も手際ももちろん本番も良いものとなった。

 皇太子であるサメンテももちろんカンティレーナも出席してくれて、学院で知り合った令嬢たちもラクリマンドをほめたたえてくれて、とても良いパーティになった。


 ラクリマンドはその努力の結果、全ての令嬢たちに感心され、憧れられる存在になっていたのだ。


***


 17歳で高等学院を終えたラクリマンドは、同時にデビュタントを済ませ、社交界にデビューした。そこで年々華やかに、輝くばかりの笑顔を見せるようになっていた。

 しかし、カンティレーナは年々無口になり、表情も乏しくなっていった。


 思い返してみれば、王妃教育が始まった最初の頃、少しでも内容を教えてもらえないかと、帰宅した姉の部屋を何度も訪れたが、疲れているからと会う事すらできなかった。

 さらに家族一緒に取るのが当たり前だった朝食も夕食も、週に1度、一緒に取れればいい方だ。特に朝は、カンティレーナは食堂で食べることなく家を出て、王城までの馬車の中で食べているらしい。夕飯は家族が食べ終わった後に帰宅して、自室で食べていると侍女から聞いた。


 自分も大変な勉強をしているが、王妃教育とはそれ以上に大変なのかと最初は同情していたが、高等学院に入学する少し前のある日、少しだけ開いていたドアから中を見たら、姉はただベッドで寝ているだけだった。

 そんな日もあるか、と思ったが、インティモにそれを話したら、次の日には侍女たちに聞いた話を教えてくれた。


「カンティレーナ様は、ほぼ毎晩、帰宅してお食事、湯あみを済ませるとすぐにお休みになっているそうですよ」


 何と言う事だ。自分でさえ夜には講義の復習をしたり、楽器練習や読書に励んでいるというのに、帰宅して寝ているだけとは。そういえば姉は最近楽器の練習もしていない。それすらさぼって寝ているとは!


 ラクリマンドは憤慨し、マナーなど無視して部屋に乗り込んでいった。


「ちょっとお姉さま!」

「え、ラクリマンド?」


 ベッドの脇で腰に手を当てて大きな声を出してやれば、うつ伏せに倒れていた姉も、流石に飛び起きた。ポカンとした顔でこちらを見ているのがおかしいやら、だらしなく寝ていたのが気に入らないやらで、ラクリマンドは感情の赴くまま、大きな声を出し続けた。


「疲れているのかもしれませんけれど、そんな恰好でベッドに倒れているなんて、はしたないでしょう!」

「え、あの、何? どうしてラクリマンドが部屋の中にいるの?」

「そんなことはどうでもいいわ! まだ夕飯後の時間よ? こんな時間から寝ているなんて、気が抜けすぎじゃなくて?」

「そうかもしれないけれど、自室だし、今日は色々あって疲れたから」

「わたくしだって午前中は学校だし、午後はインティモの講義と、ダンスにピアノの練習に明け暮れているのよ?」

「そ、そうかもしれないけれど、わたくしも毎日王城で忙しくて」

「お姉さまは甘いわ! それに知っているのよ? こうして帰ってきて寝ているのは今日だけではないの事を。良いでしょう、これからは私が、監視してあげます」

「えっ!?」

「お姉さまがたるまないように、抜き打ちで部屋に来るわ」

「それはちょっと……」

「わたくしは、お姉さまに完璧なお妃さまになってもらいたいの! だから良いわよね?」

「少しもよくないんだけど」

「とりあえずそうね、ピアノの練習に行きましょう!」

「ちょっと、引っ張らないで? 歩くから、ちゃんと付いて行くから!」


 久しぶりに聞いたカンティレーナのピアノは散々だった。自分よりヘタクソなんてあり得ない! ラクリマンドは落胆し、これ以降、ことあるごとに練習室に引っ張り出した。


 さらにこの話をインティモにすると、彼女は意外なことを言い出した。


「カンティレーナ様は、王妃教育についていけていないのでは?」

「お姉さまに限ってそんな事はないわ」

「でもピアノの腕もなまっているほど、練習していないのでしょう?」

「それは……きっと忙しいから、ピアノにまで手が回らないのでしょう」

「それが付いていけていない、と言うのです。できる人は自分で時間を作り出しています。それが出来ないカンティレーナ様には婚約者の荷が重いのかもしれませんね」

「そんな……そんな事はないわ」

「わたくしはあまりカンティレーナ様にお会いする機会がないのですが、たまに見かけるカンティレーナ様は簡素なAラインドレスで、パニエも入れていないしコルセットもしていないでしょう?」

「……確かに、あれで王城に行っているの? と思うようなドレスが多いわね」

「髪型だってそうですわ。ラクリマンド様は綺麗に毎日結い上げているのに、カンティレーナ様は降ろしているだけ」


 言われてみればそうだ。ハーフアップにしている程度で、あのような姿は休日の部屋の中での姿であり、王城に行くのには全くふさわしくない。

 さすがに自分の卒業パーティでは令嬢らしく華やかだったが、自分に比べたら地味だった。


「イラリタが言っていましたわ。カンティレーナ様は最近は表情も作れていないですし、会話も聞いているのだかわからないと」


 イラリタは家庭教師の任を解かれたが、たまに遊びに来ている。


「お姉さま、どうなさってしまったのかしら」

「やっぱり、王妃教育に付いていけないのですわ。ですから身なりにも気を遣えなくなっているのですよ」

「心配だわ。わたしが手助けしてあげられれば良いのだけれど……」


 この会話がきっかけとなり、イラリタはラクリマンドの前でだけだが、ことあるごとにカンティレーナに対してダメ出しをするようになっていった。

 最初は姉を庇っていたラクリマンドも、次第に姉の行動に不信感を抱くようになっていった。


***


 そしてある日、姉妹揃って呼ばれた友人の侯爵家のお茶会で、カンティレーナはカップをソーサーに戻すときに音を立てるというミスを2回犯し、更には会話にも加わらずにぼーっとしている時があった。

 幸い周りにはバレていなかったようだが、ラクリマンドはそんな姉の姿に衝撃を受け、帰りの馬車の中で追及をすると、カンティレーナは疲れているのだと弱音を吐いた。


「誰もがうらやむ皇太子殿下の婚約者なのに、疲れているとか言っている場合!?」

「ごめんなさいラクリマンド、頭が痛いの。大きな声を出さないで」

「呆れた! お姉さまってもっとしっかりしていると思っていたのに!」


 腹を立てたラクリマンドは、それきり会話を切り上げ、二人は無言で馬車に揺られて帰宅した。


 インティモにこの話をすると、インティモは言ったのだ。


「やはりカンティレーナ様には、王妃の荷は重すぎるのです」

「でも、だったら、どうしたらお姉さまを助けてあげられるのかしら」

「ラクリマンド様が代わってさし上げたらよろしいのでは?」


「え?」


「ラクリマンド様はこのインティモが育て上げた、最高の淑女です。勉学だって今や貴族大学でも通用する内容ですわ。カンティレーナ様よりも、皇太子にふさわしいと思いませんか?」


 ラクリマンドは貴族大学には行かなかった。周りよりも早く大学に行くよりも、今は社交界にでて友好範囲を広げることを選んだのだ。大学に行くのはもう少ししてからでも良いからと。


「お姉さまはサメンテ様に選ばれたのよ?」

「選ばれた時には、カンティレーナ様の方がラクリマンド様の先を行っていたからでしょう。でも今はどうなのでしょうか。王妃教育に付いていけないカンティレーナ様と、同等の教育をしっかりとこなしているラクリマンド様。もう一度機会があったら、どちらが選ばれると思います?」


 普通だったら不敬だとインティモを解雇する場面だったが、ラクリマンドは自分を育て上げてくれたインティモを完全に信頼していた。その彼女が言うのだから間違いない。


「お姉さまよりも、私の方がふさわしい……?」

「ええ。わたくしが断言いたしますわ」


 キラリと眼鏡を光らせてインティモが言い切る。


「でも、もう選び直しの機会なんてないわ」

「作ればよろしいのです」

「どうやって?」


 そこでインティモに提案されたのが、サメンテ待ち伏せ作戦だった。

 昼休憩やお茶休憩時間を狙って、サメンテの部屋付近をうろつく。運よく会えれば、カンティレーナの妹をないがしろにすることはないだろう。一緒に食事や話をするようになれば、ラクリマンドの優秀さがわかる。そうすればあんな能面状態のカンティレーナよりも、ラクリマンドの方がふさわしいと判断されると。


「不敬じゃないかしら……」

「ありません。あなたはカンティレーナ様の妹君ですから、姉を慕って王城に付いてきていたって不思議はありません。今までも何度か図書館に付いて行ったことがありますよね?」

「そうだけど、あの時はお姉さまが一緒にいらしたし」

「今回はカンティレーナ様はご用事で部屋に行かれてしまい、不慣れな王城で迷っているうちに、サメンテ殿下に偶然お会いした、のならば何の不敬がありますかしら」

「……ないのかしら」

「ありません」


 『突撃姉の部屋』も回数を増すごとに、姉はますます能面になるし、ピアノも全く上達しない。姉を救うためにも自分が頑張らなければ。ラクリマンドは次第にそう思うようになり、インティモの案を実行に移した。

 そしてそれは上手くいった。サメンテは短時間でもお茶に付き合ってくれたし、会話も出来た。

 内容は自然とカンティレーナの話になったが、そこで姉とサメンテは週1~10日に1回のお茶の時間しか会う事がなく、その時の会話もほとんど交わしていないことが分かった。サメンテはそれに不満を持っていないようだが、婚約者にも無口というのは致命的ではないだろうか。サメンテは互いに忙しいからね、と姉を庇っているものの、その顔には諦めが見える。


 こんな婚約、どちらもしあわせになれないのではないだろうか。


 姉が幸せならばまだいい。だが今の姉は全く幸せそうには見えない。家でもサメンテの話などほとんど出ない。たまに夕飯を家族一緒に摂った時に、両親に聞かれて『お元気ですよ』と無表情で答える程度。それが本当に婚約者だろうか。


 少なくとも自分は、婚約者に会うのなら出来るだけのおしゃれをしてくるだろう。だが姉がドレスを新調したのはいつの事か。

 朝早くからシンプルすぎるドレスに簡易な髪型で屋敷を出て、夕飯が終わる頃に疲れ果てて戻ってくる。時たまラクリマンドが練習室に引っ張り出す以外は、今でもベッドで行き倒れているらしい。


 そんな生活の、何が楽しいのか。


 そしてサメンテも、そんな状態の姉の話をしても、姉の心配もしていないようだ。それに何度かこっそりと姉とサメンテの茶会を覗き見したが、二人共茶を飲んでいるだけで、碌に会話も交わしていないし、笑ってもいない。


 これが本当に、長年の婚約者なのか?


 ラクリマンドは決意した。姉を王妃教育から救い出し、幸せな未来を送ってもらうため、婚約を破棄してもらおうと。


 しかし姉に直接そんな事を言っても了承するわけがない。今は疲れてボロボロだが、プライドの高い人だ。婚約者にはふさわしくないなどと言ったら、意地になってしがみついてしまうに違いない。

 それならばサメンテから婚約を破棄させるしかない。だがそれでは侯爵家はどうなる。


 下手な理由、例えば姉が浮気をしているとか、能力がないとか言って別れさせたとして、それを公言されたら侯爵家の評判も地に落ちる。浮気は嘘の理由でも絶対にダメだ。ヘタをしたら不敬罪で姉が殺されてしまう。


 やはり能力か。だがそれでは姉と家の評判が心配だ。


 そこでインティモに相談した。すると彼女から提案されたのは、ラクリマンドが婚約者になる事だった。

 今や貴族令嬢の中でも最高の淑女と呼ばれているラクリマンドが婚約者になれば、姉は体調を崩したとかの言い訳で済む。実際に貴族間では兄弟姉妹が入れ替わっての結婚など珍しくない。

 しかもラクリマンドは王妃教育にも十分太刀打ちできる学力も持っている。周りの評判もいい。

 幸いサメンテもラクリマンドの事を憎からず思っているはずだ。律儀にお茶に誘ってくれるくらいなのだから。


 そうインティモに言われ、ラクリマンドは決意した。

 姉を救うためにも、自分がサメンテの婚約者になろう。それが最善だ。姉には嫌われるかもしれないけれど、その姉のなら嫌な女にもなってみせる。


 それからラクリマンドはサメンテに、自分をお妃にしてくれないかと申し出た。

 最初は全く相手にされなかったが、それでも一緒にお茶をすることを拒否されなかったので、そのたびに申し出続けた。自分の長所をこれでもかとぶつけたし、流行の本の内容も暗唱して見せたし、刺繍をしたハンカチを渡したりもした。自分の方が優秀だと、人望も人気もあると必死に訴えた。


 そうして先日、30回目の逆プロポーズに、ようやくサメンテが乗ってくれ、冒頭のシーンになる。


***


 ラクリマンドはカンティレーナに連れられて、彼女が教育を受けている部屋で、宮廷家庭教師のグラーチレとの初対面をした。カンティレーナはラクリマンドを紹介すると、そのまま部屋を出て行ってしまった。


 グラーチレは絵にかいたような女性家庭教師だった。背は高めで、黒い黒髪は一つにまとめて結い上げ、黒い眼鏡を着用し、カンティレーナ以上に無表情だった。

 にこやかにカーテシーをするラクリマンドを、紺色のシンプルラインのドレスのグラーチレは無表情で見つめた。


「お話は殿下から聞いております。明日からあなたに王妃教育を体験させるようにと」

「はい、どうぞよろしくお願いいたします」

「明日の授業は9時からです。まずは算術と文学、歴史です。初回はラクリマンド様の理解度を図るために試験形式になります。講義で使う本はこれらです。予習をしておいてください。それと午後はお茶会の作法と刺繍を見せていただきます」

「はい!」


 分厚い本が近くの机に3冊、乗せられていた。従者に言って家まで持っていってもらわなくては。


「今日の本はそれだけですが、また明日以降必要な教科書を渡します。時間のある時に予習をしておいてください」

「分かりました」

「では明朝9時に」


 そう言うとグラーチレは薄いほほえみを浮かべ、見事なカーテシーを披露し、部屋を出て行った。


 ラクリマンドは部屋の隅に控えていた従者を呼んで、本を持ってもらい、部屋の外で待っていてくれたカンティレーナと共に馬車で帰宅した。

 はしゃいであれこれと話しかけるラクリマンドに、カンティレーナはほとんど無反応だった。仕方がないだろう、長年の婚約者に振られたのだから。

 そう思い至ったラクリマンドは、口を閉じ、窓の外を眺めた。


 馬車は静かに侯爵邸までの道のりを進んでいった。


 ***


 翌朝、ラクリマンドは約束の時間の15分前に昨日教わった部屋に入った。15分前なら十分だろう。貴族の常識で言えば、時間ピッタリか遅刻が普通なのだ。間に合うだけでなく余裕を持った時間に入るなんて、きっと初回から褒められちゃうわ、と思いながらドアを開けると、そこには既にグラーチレが居り、ギロリとラクリマンドを睨みつけた。


「おはよう、グラーチレ。今日からよろしくね」

「おはようございます、ラクリマンド様。よろしくお願いいたします。が、今何時だと思っていらっしゃるのですか?」

「え? 約束の9時の、15分前ですよね?」

「カンティレーナ様に助言を仰がなかったのですか?」


 聞くわけがない。あんな負け女に、勝った自分が何を聞くことがあるというのか。大体あの女は家に着くなりさっさと部屋に閉じこもったし、今朝だって起きてこなかった。まあ振られたのだから仕方がないだろうけれど。


「で、でも9時からなのでしょう? 15分前なら十分に早いでしょう?」

「いいですか!?」


 グラーチレは低い声ではっきりと言った。


「当日の予定は前の晩に伝えてはいますが、それが変更になることも多々あります。ですから毎朝、必ず予定のすり合わせを行います。伝達事項があることもあります。またそれぞれの先生がいらっしゃるまでに、今日の授業の用意をして、先生を出迎えるのです。15分で足りるとでも?」

「え? グラーチレが教えてくれるのではないの?」

「わたくしは主に、立ち居振る舞いとダンス、お茶会のマナーをお教えします。それぞれの講義は専門の先生がいらっしゃいます」

「そ、そうだったの、知らなかったわ。お姉さまったら、今まで何も教えてくださらないんだもの」

「お妃教育の内容をべらべらとしゃべられては困ります。ラクリマンド様も、カンティレーナ様以外にはお話になりませんよう」

「わ、分かったわ」

「ここでのすべての会話、授業内容には守秘義務が生じます。今日は算術を習った程度ならば許されますが、その内容や教師の名を漏らすことは許されません」

「え、そうなの?」

 

 グラーチレの眼鏡がギロリと光る。


「授業内容のノートも絶対に人に見せないようにしてください。教科書と共に予習復習は必ず家でしてください」

「は、はい」

「それとその服装!」


 今日のラクリマンドは気合を入れて着飾ってきた。プリンセスラインのドレスはいつもの事だが、パニエをいつもより膨らませたし、レースもふんだんに使っている。髪もいつも以上に時間を掛けて結ってもらった。勉強だからアクセサリは控えめで、シンプルなイヤリングとネックレスだけだ。

 姉のカンティレーナはいつも質素なドレスで、髪もいい所がハーフアップだ。アクセサリなどほとんど身に着けていなかった。そんな服装でよくも王太子の婚約者だと名乗れるものだと思っていたから、華やかで、かつ勉強の邪魔はしない服装をしてきたつもりだが、もっと派手でよかったのだろうか。


「そんな恰好で授業が受けられるとお思いですか!」

「……はい?」

「髪もそんな風に結い上げて! そんな時間があるのなら、予習に掛けなさい!」

「ちゃんと読みました! それにこのドレスは授業の邪魔になるとは思えません!」


 そう反論すると、グラーチレは深いため息をつき、呆れたように頭を振った。

 何なのこの人! とラクリマンドが腹を立てていると、グラーチレはきっぱりと言った。


「もう時間です。少なくとも今日は初回なんですから、もっと早く来るべきでした。そろそろ算術の先生がいらっしゃいます。ダメ出しはあとにして、授業の用意を」


 いやあんたがぐちぐち言うから時間が無くなっているんだろうが、と心の中で憤慨しながらも、ラクリマンドは自信満々に教科書を広げた。


**


「……もうだめ……」

「情けない、まだ1日目が終わっただけですよ!」


 3つの講義は、それぞれ1時間ずつだった。挨拶もそこそこにすぐに実力試しのテストから入り、30分の制限時間でテストを目の前で採点され、説明を受けた。

 だがレベルが違った。本を読んで予習はしたがわからない事だらけで、でも教えてもらえるのだからいいかと軽く考えていた。それにテストの内容などほとんどわからなかった。算術も最初の方しか解けなかった。解説もしてくれたが、難しくて半分も分からなかった。それぞれの講師はラクリマンドを呆れた目で見て、頭を振りながら部屋を出て行った。

 ぐったりしながら昼食を頂き、休憩時間の後にピアノの演奏をし、そのあとにグラーチレと共にお茶を頂き、休憩をはさんでハンカチに刺繍を差した。それだけで立てないほどに疲労していた。

 ドレスの下のコルセットがきつかった。同じ姿勢で長時間座っているなんて、想定していなかった。お腹がきつすぎて段々と頭も回らなくなる。なるほど姉が楽なドレスを着ていたわけだと納得した。

 髪の毛も、あちこち止めてあるピンが痛い。頭が重い。姿勢を保つだけでも一苦労だ。


「だって、授業中だってグラーチレが姿勢だとか座り方だとか、注意してくるし、ご飯だって一口食べるごとに注意してくるし!!」

「当然です。講義中に姿勢を崩すことなど許されません! 刺繍だってなんですかあの出来は! 子供の方がもっと上手に刺しますよ!」

「うう……!」


 自分では自信満々だった刺繍。グラーチレが出した「花を刺す」というお題で一緒に刺し始めた。だがラクリマンドがハンカチの角に小さな花を1つ刺すうちに、グラーチレはそれは見事な薔薇をハンカチ一面に刺し終わっていた。それと比べたら、自分の小さな花の出来栄えは比べ物にならないくらいにみすぼらしく。


「それだって、いちいち背中が曲がっているとか、頭が下がっているとか、グラーチレがうるさいから!」

「私があなたのような姿勢で刺していましたか?」

「そ、それは……」

「すべての始まりは姿勢から! あなたは基本が出来ていません!」

「そ、そんなあ……!」


***


 次の日から本格的に始まった王妃教育は、予想以上に難しいものだった。インティモと高等学院で受けた授業内容以上のもので、算術ならば計算問題は解けたのだが、見たこともない文章問題とか、表とか、兄を追いかける弟とかさっぱりわからない。

 サインコサイン?なんですと? 微分積分チンプンカンプン。聞いたことも見たこともない。


 地理は30の領地と山や川は覚えていたけれど、市の名前なんて知らなかった。それぞれの領地の特産品とは何ぞや。その土地の産業とは一体。


 歴史も自国は学んでいたけれど、それに隣国の歴史が絡んでくるなど知らなかった。言われてみればそうかもしれないけれど、考えたこともなかった。


 講師たちはテスト結果に顔をしかめたが、全員が「カンティレーナ様が講義を受け始めた当初の内容から始めましょう」と言った。


 ラクリマンドは衝撃を受けた。姉が講義を受け始めた当初? 10年前のレベルという事か。姉はそんなに先を行っていたのか。衝撃で口を利けない間に、無情にも講義が始まり、ラクリマンドは必死にノートを取り続けた。


 しかし講義中に急いで書けば、字が汚い、姿勢が悪いとグラーチレの指導が入る。廊下を歩くだけで足音を立てない、それなのにもっと早く歩けと指導が入る。昼食でスプーンを持っただけで指導が入る。食べ方にも、食べる速さにまで全て指導が入った。

 ダンスではただ踊るのではなく、そこが外交の場なのだと教わった。ダンスの相手と話をしながら踊らなければならないが、見た目で話し合っているとわかってはいけない。表情を崩すことなく、口元もできるだけ動かさないように、話をしていることが分からないようにしながら、上品かつ優雅に踊らなければならない。

 ステップ一つを踏むごとに、顔と手の場所のチェックを受け、目線の動かし方まで全て意味があるのだと教わった。こんな事をやっていたら、それは優雅に踊るなんて無理だ。ただただ楽しく踊っていた自分とは違うのだ、とかつての姉の動きを思い出した。


 文学は、古典文学を裏の意味まで考えながら、外交の場で使えるように、フレーズと作者と作品名を覚えさせられた。ただ覚えればよいのではなかった。どのような意味を持つのか、それが必要だったのだ。


 算術はよくわからない数式に当てはめて計算したり、表を書いたりさせられた。正解した時の喜びは大きいが、覚える数式が多すぎる!

 なぜ弟は兄が出かけた10分後に家を出るのか。一緒に家を出てくれればどの時点で追いつくなんて、計算しなくて済むのに!

 そう零したら、講師が教えてくれた。


「例えば公務で出かける時、国王と王妃が一緒に出るという事は防犯上ありません。しかし到着時間が大幅に遅れてもいけません。また目的地までどのくらい時間がかかるのか。いちいち侍従に聞かなければわからないようではいけません」

「どうして? 聞けばすぐにわかるわ」

「国内ならば問題ないかもしれませんが、他国で他国の者が伝えてくる時間が正確だと、どうしてわかるのでしょう。おおよその距離と馬車の速度が分かれば、その場で自分で計算ができる。道のりもごまかされていないか判断できれば、相手に騙されずに済みます。もちろん同行者がすぐに教えてくれるでしょう。それでもご自身でも判断できるのと、人から聞かなければわからないのでは、どちらが有利ですか?」


 確かに移動時間の計算は屋敷から城までの移動に役立った。寝坊してもこの時間なら、馬に非常に頑張ってもらえば何とか到着する、という時間の割り出しでギリギリまで寝ていられるようになったのだから。


 朝8時には城に入って、帰りは夜の6時に帰れれば早い方だった。確かに5時にはすべての教育時間が終わっているのだが、そこから次の日のスケジュールを聞いたり、グラーチレのダメ出しを半泣きでメモさせられて、勉強に使う本を図書館で探したら、軽く6時を超える。

 ようやく帰宅して残しておいて貰った食事を何とか詰め込んで、夜中までかかって復習と予習をして、ベッドに倒れ込んだと思ったら、もう朝だ。

 姉が髪も結わないし、楽なドレスを着ているなんて笑っていたが、髪を結う時間が有ったら寝ていたい。ドレスを着るのにコルセットを着ける時間がもったいない。そもそもコルセットなどしたら、腹がきつくて勉強に集中出来ない。化粧している時間があったら、教科書が少しでも読める。

 

 乗馬訓練で叱責され、その後に足がガクガクでも筋肉痛でも高いヒールで優雅に歩かないと、グラーチレの叱責が飛ぶ。


 お茶の時間すら地獄だった。ただ茶を飲むだけでも叱責だらけなのに、その際にグラーチレから出されるお題に素早く答えなければならない。時事問題から文学だけでなく、国内貴族のすべての名前と階級、役職まで。ランダムにでるそれに茶の味どころではないのに、茶の品種と生産地と特徴を聞かれる。


 さらに講義中も無慈悲に姿勢やペンの持ち方などの指導が入る。茶の時間すら、カップの持ち方も全て直させられた。しかしその指導に従うと、確かに優雅さが増すのだ。そういえば姉はこう持っていたと今さら気が付き、慣れない不安定な持ち方でカップが揺れるとすぐさまに叱責が飛ぶ。顔の表情が作れていないと指摘される。口角の上りが足りないと叱咤される。


 ドレスで歩くとき、ハイヒールの音が少しでも鳴ったら睨まれる。座った姿勢を崩したら背中に定規が飛んでくる。


 1日の指導が終わって家に帰った時、ラクリマンドはベッドに倒れ込んだ。そして分かった。


 姉が無表情なのは、王妃教育で笑顔を貼り付けた反動だったのだと。今まさに自分が無表情のままうつぶせに倒れ込んでいるのだから。家でまで笑っていたくない。


 こんな大変な教育を、姉は10年も耐えてきたのだ。短期間で辛いなどと言えようか。


 ラクリマンドは両手でなんとか起き上がった。寝ているヒマなどない。10年の差を縮めなくてはいけないのだから。


 ヨロヨロとした足取りで、何とか机に向かい、教科書とノートを広げ、思い出せる範囲のテスト問題を思い出し教科書から該当ページを探す。


 兄と弟問題は説明と問題集で10ページにわたっていた。速さと時間と道のりを公式とやらに当てはめるらしい。インティモには暇をだしてしまったから、教えてもらえる人は姉しかしない。しかし姉に教わるのはプライドが許さなかった。


 ラクリマンドは自力で問題を解き始めた。


 ラクリマンドが講師陣から褒められたのはピアノの演奏だけだった。自信のあったダンスすら、基本しかできていないと言われてしまった。


 ラクリマンドの自信は王妃教育が始まると同時に崩れ去った。木っ端みじんにされたが落ち込む暇はなかった。何としてでも姉に追いつかなければ自分が婚約者になった意味がない。ラクリマンドは講師陣も目を見張るほどの努力で、毎日の講義にしがみついてきた。


 最初はラクリマンドの事を前評判ばかりだと思っていた講師陣も、分かるまで質問を繰り返してくるラクリマンドの熱意を認め、苦手問題には追記問題を出し、何度でも時間をかけてわかるまで説明をしてくれた。グラーチレもその時ばかりは姿勢の注意は控えめにしてくれた。


 時には寝不足で講義中に意識が飛びかけた。そうすると講師は無慈悲にも席を立ってしまうのだが、ラクリマンドが土下座せんばかりに詫びると、気を付けるようにと言って講義に戻ってくれた。


 しかしこれはあとでグラーチレにひどく叱られた。これがもし、他国の大使や大臣相手だったらどういう事になるか考えろと。大切な場でうたた寝などしたら、国際問題にも発展しかねない。しかも簡単に土下座などするなと。その上で眠くても眠いように見せるなと不可能なことを言われたが、ラクリマンドは努力しますと答えた。



**


 ラクリマンドは2か月、がむしゃらに頑張った。その頃にはペースも掴めてきて、家に帰ると気が付くとベッドで寝ているけれど、最初よりは余裕が出来てきた。とはいえサメンテとの茶会では、何もしゃべれないほどに疲弊していたが。


 そしてさらに2週間を過ぎて、グラーチレが茶会の場にカンティレーナを連れてきた。ただでさえ凝り始めている背中に力を入れて背筋を正すが、カンティレーナはそんな無理をせずとも美しい姿勢を保ち続けている。


 こんなに差があるとは思わなかった。令嬢たちのお茶会でもラクリマンドほど優雅に振る舞える令嬢はいなかったが、カンティレーナとの差は歴然としていた。

 自分が無理をしている優雅さなら、姉は自然体なのだから。そして家では無表情だったが、淡い微笑を浮かべ続けている。自分は頬が吊りそうになっているというのに、姉のそれはひたすら美しい。


 10年。これが本物の王妃教育を受けてきたものの振る舞いか。

 その10年の差を、たった2か月で縮められるわけがない。だが自分だってある程度以上のレベルにはいたはずだ。それに今まで一緒にお茶を飲んでいても、確かに姉は優雅だとは思っていたけれど、それがこんな努力の上に成り立っていた優雅さだとは思いもよらなかった。

 カンティレーナの自然な優雅さを目の当たりにして、ラクリマンドは自然と涙が流れてしまった。


「ラクリマンド、どうしたの?」

「な、なんでもありません。目にゴミが」

「大丈夫?」

「はい」


 カンティレーナの優しい声が胸に痛い。敵わない。この優雅さには敵わない。ここまで到達するのに10年はかからないだろうけれど、1年程度では無理だ。


 さらにグラーチレがさりげなく地理問題をカンティレーナに出している。姉は言いよどむ事もなく、全ての質問に答えた。そしてそれが合っていることは、グラーチレの反応を見ればわかる。そういえば初回の試験問題にも出ていたはずだ。あの時は全く分からなかったし、今も分からないが。


「ご当地の当主とお話をしている時に、『おたくの名産、え~とあれはなんだったかしら』などと言ったら最後です。まだ国内の貴族ならばごまかしも効きますが、他国だったらその場で交渉は終わりと心得なさい」


 地理の講師の言葉が、ラクリマンドにのしかかる。そうだ。姉は紅茶を飲みながらいとも簡単に答えて見せた。自分が領主だったら、王妃が自分の領地の名産や市をすらすらと言ったら名誉に思うだろう。これらは覚えれば良いのだから、何とかなるかもしれない。だがすぐには無理だ。しかも姿勢も笑顔も指先も揺るがさずに答えるなんて。

 さらに計算問題が出た。寝坊した弟が10分先にでた兄に追いつくには、どのくらいの速さでどの地点かというあの嫌な問題だ。しかしさんざん勉強してきたラクリマンドはすぐに公式を思いつき、頭の中で計算を始めた。

 しかしカンティレーナは問題が出終えた瞬間に答えたのだ。思わず茫然と姉を見る。

グラーチレがラクリマンドにだけ聞こえる小声で『暗算です』と教えてくれた。自分もだいぶ暗算できるようになったが、この速さは一体。そしてその答えはもちろんあっているのだ。

 

 2か月かかって少しだけ復活してきたプライドは、姉の姿を見てまたボッキリと折られてしまった。


 これが、王妃教育というものか。


 これが、皇太子の婚約者というものなのか。


 サメンテとデートなんて出来る時間があるわけがなかった。今になれば、サメンテが自分と一緒にお茶を飲んでくれたのは、婚約者の身内だからの超、特別対応だったとわかる。まあサメンテも息抜きをしたかったのだろうけれど。

 

 今までにサメンテとは3回ほどお茶の時間を共にしたが、会話らしい会話など出来なかった。

 疲れすぎていた。サメンテとの茶会にはグラーチレが同席しないので、気を抜いてお茶を飲める。それなのに、頭を使う会話をしたくなんてない。

 結果、30分ほどのお茶の時間、二人はただ黙々と茶を飲み、軽食を食べるだけだった。


 何と言う事はない、姉の時よりも酷いお茶会だった。


 それでもラクリマンドは頑張った。もう少しで3か月になろうというところまで頑張った。絶対に姉には負けたくない、その一心で頑張った。

 姉は10年耐えた。私はまだ3か月だ。まだまだ頑張れる! 動く点P兄弟も旅人算も図形上を動く点Pも暗算できるまでになった。サインコサインなんですとはまだ出てこなかったが。30の領地の市と特産品も覚えた。他の講師陣にもよく頑張っていると褒められた。


 グラーチレの叱責も少しずつだが減ってきた。茶の飲み方と姿勢には褒められることも出てきた。


 そして王妃のお茶会の席に呼ばれたのだ。


***


 初めてお会いする王妃は眩しかった。笑顔も極めて自然で、上品な笑みだった。もうそこにいるだけで後光が差しているようだ。

 姉が女神だとすると、王妃はそれ以上の女神だった。彼女たちを目の前にしたら、自分とは全く次元の違う存在だと分かってしまった。彼女らと比べたら、自分の全ての動作が下品すぎる。付け焼刃のマナーなど、全く太刀打ちできるわけがない。


 だから貴族は、子供のうちからマナーと立ち居振る舞いを叩き込まされるのだ。こればかりは一朝一夕で身に付くものではないから。そして厳しくチェックされ続けて、これが普通の動きになるまで叩き込まされる。特に高位貴族はその中でも厳しい立ち居振る舞いを叩き込まれるが、それでは王妃教育には足りないことは今までで分かっていた。だが。


 無理だ。10年かければここまで到達するかもしれないが、それでは遅すぎる。そしてどうやっても短期間で身に付くものではない。


 姉はこれに近いものを身に付けている。あと足りないとすれば余裕と貫禄か。それこそ王妃と同じ歳になれば自然と身に付いているだろう。だが自分は? 足元にも及ばないその品格は、どうやっても無理だ。


 二人ともレベルが違いすぎた。ヒビだらけでも何とか耐えていたプライドが完璧に折れた。折れただけではなくバラバラの粉砕骨折状態になってしまった。


 王妃と対面している間は堪えた涙だったが、家に着いて窓辺で優雅に茶を飲んでいる姉を見た途端に、感情と涙腺が崩壊した。


 ***


「お、お姉さま、ごめんなさいぃぃぃぃ。私にはサメンテ様の婚約者は無理ですぅぅぅぅぅ!!」

「あらあ、まだ婚約解消の手続きも済んでいないのに、もう諦めるの?」



 城から帰ってきたラクリマンドが、屋敷のカンティレーナの部屋を泣きながら飛び込んできた時、カンティレーナは、血色の良い頬で、部屋の窓際で優雅にお茶をしていた。

 カンティレーナに縋りついて泣くラクリマンドに驚いた顔を見せる姉に、ああ、表情が戻ってきているのね、と妙な安堵をしながら、ラクリマンドは流れ落ちる涙を止めることはできなかった。


「なんなの、あの王妃教育。無理すぎるでしょ!!」

「そうかしら」

「無理よ、難しすぎる! 本当にごめんなさい。私が無知でした」

「そんな事を言わずに、もう少し頑張ってごらんなさい。勉強は頑張っていると聞いているわよ。それにもう少しでわたくしとサメンテ様の婚約解消の手続きが終わるわ。そうしたら、あなたが正式に婚約者になれるのだから」

「勘弁してくださいいいいいい!!」


 ラクリマンドはカンティレーナの前にうずくまった。


「もう無理! 絶対無理! あんなの無理!!」

「大丈夫よ、わたくしが出来たのだから」

「お姉さまが凄すぎるのよ! 私には無理!」

「もう少ししたら、きっと慣れるわ」

「慣れる前に死ぬわ!」

「安心なさい、人間、そんなに簡単に死なないから」

「むりぃぃぃぃぃ! 本当にごめんなさい! 許してください!!」


 ラクリマンドはうずくまったまま、号泣し始めた。カンティレーナは困ったように微笑んでいる。


 微笑みは令嬢の嗜みとしてインティモにも叩き込まれた。しかしグラーチレに教わったそれは、今までの微笑みなどニヤ付いているだけの笑いだと思えるほどに違っていた。

 今、カンティレーナが浮かべている上品に柔らかい、神のごとき笑顔。これを今から習得するのには、時間が必要だろう。


 もしかしたら10年前、姉ではなく自分が選ばれていれば。

 10年かけて学んでいれば、もしかしたら姉に近い到達点までは来られたかもしれない。

 だが10年前にこの厳しい教育を受けたら、自分は1週間と耐えられなかっただろう。

 

 10年間、カンティレーナはラクリマンドが起きるよりも早く家を出て、ラクリマンドが夕食後にのんびりしている時間にようやく戻っていた。登城は週に6日だが、開いている1日も復習に費やしていたから、自分と遊んだことなどほとんどない。

 その間自分は友達の貴族の家でお茶会をし、今となっては気楽すぎる会話をしていたのだ。


 自分の無知さに泣けてくる。


 ラクリマンドがうずくまったままわんわん泣いていると、カンティレーナがそっと肩に手を置き、起こしてくれた。


「もういいの? 頑張らないの?」

「頑張れない。もう無理。私には無理! ごめんなさいお姉さま、私の幼稚な考えで、殿下との婚約を破棄させてしまって! どう謝っていいか分からないけれど、本当にごめんなさい!」

「何がどう無理だったか、教えてもらえるかしら?」


 えぐえぐと泣きながら、上半身を起こして座り込んだラクリマンドは、子供っぽく流れる涙を手で拭いながら言った。


「講義があんなに難しい内容だとは思わなかったの。基本的なレベルが全く違っていたわ」

「先日、あなたへの講義内容を少し見せてもらったけれど、私が始めた頃より難しかったわよ?」

「それは私は高等学院を終えているからです。だから頑張ればいつかはお姉さまのレベルに到達するって。でも、それじゃあいつまで経ってもお姉さまに追いつけないじゃない! 追い越せないじゃない!」

「そうね。でも追いつけなくても越せなくてもいいじゃない。サメンテ様を支えることが出来ればいいのだから」

「無理よ! こんな知識じゃお支えするのも無理だし、こんなに自由のない生活なんて、無理! 3か月、まったく休めない生活だったし、これを今後もするなんて、無理よぉぉぉぉおおお!」


 うわーんと泣くラクリマンドに、カンティレーナは苦笑するしかなかった。


 そう、ラクリマンドが一番堪えたのは、自由のなさだった。侯爵令嬢には自由などないと思っていたが、今と比べれば自由だった。自由な時間が本当に一切ない。自室以外で一人になれることもない。感情を出せることもない。それらが何より辛かった。


 泣きながらラクリマンドはつづけた。


「王妃様の1日のスケジュールを聞いたわ。王妃教育が終われば講義はなくなるものの、その時間に今度は仕事が入ってくるって。外交にも出かけるし、あちこち訪問もするし、そのための知識を蓄えるための講義も入ってくるって。結局自由時間なんて全くないのよ! そんなの、私には無理だわ!」

「そう無理無理言わないで、私は今までずっとやってきたのよ?」

「今さらお姉さまの凄さに気が付いたわ! 簡単にやっているように見えただけで、本当はものすごい事をなさっていたんだって。それを簡単に考えすぎていて、お姉さまの邪魔をするような事をして、本当にごめんなさい!! 私には荷が重すぎました!」

「それは、ラクリマンドはもうサメンテ様と婚約をしたくない、という事かしら」

「はいぃ!!」


 心の底から、自分の軽率な行動を後悔した。10年間、こんなに頑張っていた姉の努力を、自分の思い上がりで無に帰させてしまったのだ。


 そして今更気が付いた。


 どんな理由であろうと、皇太子との縁談を解消された、しかも妹にとってかわられた姉に、侯爵家にふさわしい相手との新しい婚姻が結べるわけがない。

 婚姻を結ばなくても養子をとるという手段はあるが、カンティレーナが社交界で肩身の狭い思いをするのは避けられない。

 自分はまだ、正式に婚約をしていないから婚約を取りやめても何とかなるが、そうしたら姉が皇太子の婚約者から降り、妹もその立場に立てない侯爵家はどうなるのだ。


 皇太子との婚姻などラクリマンドにはもう無理だ。自分の実力をわかってしまった。心が折れた今、もう無理だ。だけど自分から望んでおきながら、やっぱりやめますとも言えない。いえないが、これ以上王妃教育に耐えられない。


 詰んだ。自分の人生、詰んだ。


 自死でもするしかないが、そんな事をしたら今度はサメンテが悪く思われてしまう。悪いのはラクリマンドなのに、サメンテ、ひいては王家に迷惑をかけるわけにはいかない。

 自死も出来ない。このまま婚約も出来ない。したところで足手まといにしかならないのが分かっている。周りが許すわけがないし、周りに許されたとしても自分で自分が許せない。


 詰んだ。

 姉を幸せにするどころか、全員が不幸にしかならない。

 詰んだ。


 だいたいどうして自分が婚約者になれば姉を救えるなどと思ったのか。一番の悪手ではないか。

 姉が本当に体調を崩していたとか、姉にほかに好きな人がいるとか、そう、姉がサメンテとの婚約を嫌がっていたのなら、自分が変わる事で姉を救えただろうが、姉は一度でもそんなことを言ったか?


 いいや。10年間頑張り続けた姉を、勝手に不幸だと決めつけただけだ。

 そして自分には姉と変われるだけの能力がなかった。


 八方ふさがりの現実に、ラクリマンドは、ただ泣くしかなかった。泣いても後悔してももうどうしようもないが、せめて、この反省の気持ちだけは姉に伝えたかった。

 許してもらえなくて当然だが、自分が反省したことだけは。

 そのラクリマンドの頭に、カンティレーナの手が優しく乗せられて撫でられた。ラクリマンドは涙でぼやけるカンティレーナを仰ぎ見た。


「それならもう、サメンテ様に近付こうとはしないわね?」

「申し訳なくて出来ません」

「デートもしないのかしら?」

「申し訳なくて、できません!」

「それなら、もうサメンテ様と私を引き裂こうとかしないわよね?」

「もちろんです! くだらない嫉妬心で、許されない事をしました……」

「そう、分かってくれたのね」


  カンティレーナは、ハンカチでラクリマンドの頬をぬぐった。

 泣きすぎて目が腫れぼったいが、そのハンカチの見事な刺繍がラクリマンドの目に入る。

 グラーチレよりも繊細かつ素晴らしい出来のハンカチが。


 ああ、こんな所でも姉には敵わなかったんだ。ラクリマンドの目にまた涙が溜まる。


「それならいいわ。それが分かってくれたなら、教えてあげる」

「……なにをですか?」


 ラクリマンドは座ったままのカンティレーナを見上げた。

 カンティレーナはにこりとほほ笑んだ。


「私はいまも、サメンテ様の婚約者よ」

「……え?」

「婚約解消なんて、していないの」

「え、と、どういうこと……?」


 ***


 ラクリマンドの逆プロポーズにおどろいたサメンテは、カンティレーナに早々に相談していた。そのうえ面白がっているだけだろう、相手にしなければそのうちに諦めると思っていた逆プロポーズは、しかし次第にひどくなってきていた。

 もちろんカンティレーナは家でそれとなくラクリマンドを諫めていたし、両親も注意をしたが、ラクリマンドは全く聞く耳を持たなかった。


 そんな折、ちょうどカンティレーナの王妃教育が終了した。これ以上講義を受ける必要が無くなった。代わりに実務が始まるのだが、その切り替えには多少時間もかかるし、今まで休みなく頑張った分、長期の休みが用意されていた。


 だからその間、ラクリマンドに王妃教育を体験してもらったらどうだろう。そうサメンテが提案してきたのだ。

 未来の王妃という立場だけに憧れているのなら、1週間と持たないはずだ。万一にも半年以上教育に付いて来るようなら、カンティレーナの補佐にしてもいい。

 少しでもあの王妃教育を受ければ、カンティレーナの大変さを実感できるはずだろうと。


「まあまず無理だろうね。もっても3か月じゃないかな」

「3か月という根拠はなんですの?」

「私にアプローチしてきたのが半年だから、その半分くらいは持つんじゃないかなって」

「なるほど」


 ふふふ、と二人は笑いあった。


 サメンテも大変な帝王教育を受けてきている。時間に余裕がないのは サメンテも一緒だ。

 だが帝王教育さえ終われば、少なくとも夕方からは自由時間だし、週に1~2日は休みが取れる。年に3回の長期休暇も。

 二人は10年間、一緒に頑張ろうと励まし合って乗り越えてきた。その絆は他人が考えるよりもずっと強い。

 多少の邪魔が入ろうとも、惑わされることなどないほどに。


 婚約解消騒ぎは、あまりにうるさいラクリマンドを排除するための手段であり、今後も一切邪魔をさせず、なおかつ少しは役立つようになるだろうと、意趣返しも込めて、二人が考え出した逆襲だった。


「でも本当に3か月、耐えるとは思いませんでしたわ」

「予想以上に根性があったよね。あの根性があれば良い部下になりそうなんだけどな」

「ダメですわよ、うちの跡取りとして頑張ってもらうのですから」

「そうだったね。レガート侯爵は優秀な姉妹がいて羨ましいよ。でも僕が愛しているのは、カンティレーナ、あなただけだからね」

「……私もですわ、サメンテ様」


 ふふふ、とほほ笑みながらお茶を飲む。

 ラクリマンドの可愛さに全く動じず、実際は近くに来られるのも億劫だったと苦笑するサメンテは、そっとカンティレーナの手を握って、その指先に唇を寄せた。


 もともと婚約など解消していないから、ラクリマンドが身動きできない間に、二人は時間を見付けて今までできなかったデートをしていた。


 二人とも他人の前では微笑みの表情を崩さないようにしていた。まだ正式に跡継ぎと決まっているわけでもない不安定な身分もあり、誰にも弱みを見せてはいけない状態だった。だから気を抜いてもいい自宅では、思う存分無表情でいたのだ。

 しかし教育の終わった今は時間に余裕も出来たし、ラクリマンドの騒動のお陰もあって、共通の楽しみもみつけ、その表情も解れてきていた。


 なにせカンティレーナは10年ぶりに寝たいだけ寝られたのだ。最近は疲れ切って家に帰っているのにちょくちょくラクリマンドが邪魔をしてきたが、それも一切ない。

 快適な3か月だった。

 婚約解消自体がお芝居だから、誰もこれで傷が付く事はない。レガート侯爵夫妻には話してあるが、他はだれも知らない。ちなみに夫妻は話を聞いてラクリマンドに対して激怒しかけたが、カンティレーナの説得でただ見守ってくれていた。この報告をしたらきっと安堵してくれるに違いない。

王と王妃には内緒であったが、王妃教育で協力してくれた者たちにも、これは期間限定でラクリマンドに体験させるだけだと説明してある。

 ただし本気でついてこられるようなら、カンティレーナの補佐にしたいから、本気で教えて欲しいとも頼んであった。

だから途中で投げ出しても、最悪失笑されるだけで、ラクリマンドにも影響はない。


 カンティレーナは正直言ってラクリマンドに憤慨していたのだ。何を考えたのか、サメンテに接近して婚約を迫るとは。

 しかしラクリマンドは可愛い妹だ。学院での評判もいいと聞く。自慢の妹が、なぜかおかしなことをしでかし始めた。しかも自分とサメンテを引き裂こうとするなど。それだけは許せなかった。

 許せないが、切り捨てることはできない。だったら自分がどんな思いでこの日々を頑張ってきたのかを分かってほしいと思った。

 サメンテへの想いがなければ続かない日々。それをわかってほしかった。

 

 カンティレーナには自分が誰にも負けない自信もあったから、意地悪な心もあって、ラクリマンドへの仕返しを考えたのだ。


 もちろんそんなことは、誰にも悟らせないけれど。


**


 もうだめだと思って泣きついたが、二人は婚約を解消などしていなかったと聞かされた。姉もサメンテも、ラクリマンドの事を考えて、誰にも公表せずに、ただ王妃教育を体験していたという逃げ道を用意しておいてくれていた。


 しかも姉はすでに王妃教育を終えていたという。同じようにサメンテも帝王学を終えて、二人はラクリマンドに内緒で何度もお茶していたのだという。


「あの厳しい教育は、一体なんなの!? 微分積分って何なの! 王妃様に聞いたら、王妃様はお姉さまみたいな教育は受けていないって!」

「そうでしょうね。私が受けていたのは、一般大学レベルだもの」

「……はい?」


 10歳で王妃教育を始めたカンティレーナは、サメンテから彼の受けている講義内容を聞いて、国王に直訴したそうだ。


「王妃教育は、うちで受けていた教育とあまり変わらなかったの。もちろんレベルは上がっているけれどね。それでサメンテ様に聞いてみたら、サメンテ様の方が内容が難しかったわ。女は基本を知っていて、あとはマナーと対話術だとか言われたけれど、私はそれじゃあ満足できなくてね、サメンテ様と同じ学問を学びたいと訴えたの」

「……どうして?」

「だって、そうじゃなきゃ、サメンテ様の隣に並んで支える事なんて出来ないでしょう? 私は一歩後ろから支えるんじゃなくて、一緒に並び立ちたいの。もちろん男女で負担を分けるべきところもあるわ。それがお茶会であり、社交界だわ」

「そ、そうね」

「でも問題を一緒に考えることが出来れば、サメンテ様の負担を減らすことができる。一緒に視察に行ければ、分野を分けて話をすることができる」

「でも、宰相や侍従だっているわ」

「もちろんよ。私たち二人で全てを把握している必要はないの。でも知らないよりも知っていた方が良い。計算だって、全く分からないよりも暗算で目の前で確かめられた方がいい」


 ラクリマンドもひたすら繰り返した計算のお陰で、3か月前に比べたら、比べ物にならないほど早く計算できるようになっていた。家の帳簿を見て計算間違いをすぐに見つけられるほどに。


「私が国の事をサメンテ様ほどではなくとも知っていれば、二人で考えることが出来るわ。そこに大臣たちとの多くの知恵が集まれば、より良い方向に物事を運ぶことも出来るでしょう?」


 そこまで考えて、姉は学問を学ぶことにしたのだ。

 ラクリマンドが出た貴族用高等学院は、基本的に貴族令嬢と、中級貴族以下の令息が通う学校だった。

上級貴族と違い、家庭教師のレベルにばらつきのある貴族と、基本的な教育しか受けない令嬢は、この学院でその基本レベルを上げることが出来、貴族用大学への進学の道ができる。ラクリマンドの家庭教師のインティモもこのコースを辿った一人だ。

 それとは別に、一般市民の通う高等学校と一般の大学も存在する。こちらは家庭教師など付けられない庶民が学ぶ場ではあるのだが、その中でも優秀なものは難しい大学に進学し、国を支えるための知識を手に入れて、文官としての王城勤務を目指している。この国の発展はそうした庶民によって支えられているのだ。

 もちろん役職付になるだろう上級貴族の跡取り、特に令息たちは得意分野を生かすために、一流の家庭教師から高等学部までの知識を教わり、難関大学を目指している。

 サメンテとカンティレーナは、難関まではいかなくても、貴族用よりは難しい一般大学への進学レベルを目指して、それぞれの帝王学、王妃教育と同時にこれらの教育を受け続けていたのだ。


 それは大変に決まっている。それを姉は10年、耐えたのだ。


「サメンテ様も同じ内容を学んでいらしたから、お茶の時は二人であれが分からないこれが分からない、って愚痴を言ったり、励まし合っていたのよ。あとアドバイスをお互いにしたりね」

「……そんな話をしているようには、全く見えなかったわ」

「あら、覗いていたの? 二人共見えないように口元を隠して話し合っているからね。外交の場で口を動かしていて、読唇術で何を話し合っているのか他国にバレたら大変でしょう?」


 自分が疲れすぎて、全く会話が出来ないのと同じではなかった。二人はきちんと話をしていたのだ。


「サメンテ様もあなたの事を褒めていたわよ。あの教育に3か月近く耐えて、しかもついてきたことに」

「勉強は凄くためになったわ。おかげでうちの帳簿もつけられそうよ」

「あらそれは心強いわね!」

「お父様の書類も少し見せていただいたけれど、前はさっぱりわからなかった内容も、少しは分かるようになったわ」

「それならよかった」

「お姉さまも分かるのでしょう? それにしてもこんな長い間、あんなに大変な教育に、よく耐えられたわね?」

「あなたも耐えたじゃない?」

「私はお姉さまに追いつきたい一心だったの。でも追いつくどころかお姉さまたちが考えてくれなかったら、足を引っ張るだけだったわ」

「でも頑張っていたわ」


 優しい笑顔に、ラクリマンドはまた涙が浮かんできた。


「わたくし、お姉さまがあまりに大変そうだったから、何とかしてさしあげたかったの。いつの間にかやり方を間違えてしまったけれど、それだけは本当よ。疲れ切って能面みたいになっていたお姉さまを、何とか助けたかったの」

「ええ、分かっているわ」


 結局ラクリマンドはインティモにそそのかされてしまったのだ。インティモはイラリタが育てたカンティレーナが婚約者になったのが悔しかった。ラクリマンドが努力家で、最高の淑女に育てられたのもあって、イラリタとカンティレーナを超えたかった。そのためにはラクリマンドが皇太子の婚約者になってくれるしかなかった。


 インティモは後日、この件で侯爵家から追放されたけれど、ラクリマンドを立派な淑女に育て上げたのは事実だったので、対外的には教育を修了したからの解雇という形になっている。

 もうしばらくの間は皇太子の嫁探しはないし、おごらなければ一流の令嬢、ラクリマンドを育て上げた家庭教師として、今後も引く手あまただろう。


 ちなみにカンティレーナがピアノが下手だったのにも理由があった。


「だってわたし、ピアノではなくてバイオリンだったのだもの」

「え? でもおうちではピアノ弾いていたじゃない?」

「幼少期だけよ。貴女の方が上手になっちゃったの。だからわたしはバイオリンに変えたのよ」

「練習しているのを聞いた事がないわ!」

「ええ、お城で練習していたから」


 毎日、全ての教育が終わったあとに1時間ほど練習していたのだと言う。


「左手は動くのだけど、右手が動きにくいし、なによりヘ音記号読むのが遅くなってしまって」

「じゃ、じゃあ私が家で弾かせた時って……」

「ええ、すごく久しぶりだったわ」


 苦笑するカンティレーナに、ラクリマンドは唖然とした。何年も弾いていなかった状態だったのかと。

 自分もあの教育を受けて、あの後練習時間を確保するなど、物凄い精神力がないと出来ない事だと理解した。なのに毎日1時間だと?


「サメンテ様もバイオリンなの。だから一緒に練習していたのよ」


 その練習時間が、二人の実質的なデート時間だった。演奏家を挟んでいたが、二人は音で会話をし、微笑みあっていた。練習が終わって楽器を片付ける間、その日の出来事を報告しあう時間だった。サメンテはそこから王城の入り口まで手を繋いでカンティレーナと歩き、見送ってくれていた。

 それを思い出しながら、カンティレーナは輝くばかりの笑顔でラクリマンドに言った。 


「今度サメンテ様と3人で演奏しましょうね」

「え、あ、はい!」


 後日、お城の練習室で、三人(護衛つき)で演奏したが、2人のプロ並みの演奏に、やはり姉は女神だったとラクリマンドはこっそり拝み、護衛達は素晴らしい演奏だったと感涙していた。


***


 カンティレーナは自分の膝で泣き崩れているラクリマンドの頭を撫でた。


 ラクリマンドが嘆いていた、数学の三角関数と微分積分などは、サメンテは数学が得意で笑顔でスラスラ解いているが、カンティレーナは講師に説明してもらいながらなら解ける、レベルでしかない。

 代わりにカンティレーナは文系と歴史が得意なので、そちらはサメンテよりも知っていると自負している。

 一般大学を目指せる勉学をしてきたが、今まで教育の仕上げと同時に裏方業務と公務を始めていたため、まったく時間的余裕がなかった。ようやくすべての帝王・王妃教育を正式に終了となったので、大学への編入を現在検討、調整中だ。

 二人とも完璧な必要などない。そして完璧でもない。だが今後も苦手分野は二人で補っていけばよいのだからそれにこだわる事はないと、二人で励ましあっていた。


 それに対し、ラクリマンドは高等学院での教育でカンティレーナよりも基礎ができていたから、あと半年も頑張れば勉学はカンティレーナ同様に到達したかもしれない。なにしろ一般大学は無理でも、貴族大学への入学レベルはすでにあったのだから。

 さらにラクリマンドの作法も一流だった。あとラクリマンドに足りないのは、自信と経験だった。

 王城という特殊な雰囲気の場で、王と王妃という最高の立場の人と同席してもカンティレーナが後れを取らないでいられるのは、小さいころから何度もお会いしているし、場にも慣れているからだ。

 その経験を経れば、ラクリマンドも雰囲気に飲まれずに済んだはずだ。


 自由な時間などは確かにない。これはカンティレーナが疑問もなく受け入れられる10歳という歳でこの教育を自ら望んで過ごしていたから、それを苦に思ったことはない。サメンテなどは生まれた時から自由がないから、二人とも「自由がない」ことへの不満などない。

 この点においてラクリマンドは、学院生活も送っているし、多少なりとも自由に動く気楽さを味わってしまっていたから、窮屈に感じたのだろう。これに耐えられるかはラクリマンド次第だ。


 それでもラクリマンドが3か月教育に食らいついてきたので、カンティレーナは実は焦り始めていた。彼女が本当に半年頑張ってもサメンテを渡すことなどは決してないが、このままでは面倒なことになる。

 

 いくらラクリマンドが優秀でも、10年の時間差は埋められない。それを手っ取り早く見せつけるために、自分や王妃とのお茶会を設けるよう、グラーチレに頼んだのだ。そしてそれは、カンティレーナの思惑通りに事が運んだ。


 だけど、それらは教えてあげない。愛する人を渡すようなことは絶対にしない。


 カンティレーナはその完璧な微笑みの下で思っていた。


***


 泣くだけ泣いて、自分の愚かさを恥じて、人生詰んだ、絶望だと思ったが、それをカンティレーナに見事にひっくり返されて、ラクリマンドは今度は安堵の涙を流しながら、姉を見上げた。


「お姉さま、私はお姉さまが大好きで、大変そうなお姉さまを何とかしてあげたかったから頑張ったのだけど、お姉さまはどうして頑張れたの?」


 ラクリマンドのその言葉に、カンティレーナは微笑んだ。あまりに美しいその笑みに、ラクリマンドは見惚れた。


「だってわたし、サメンテ様の事が初めてお会いした時から大好きだから、お役に立ちたいの」

「……そんなに、好きなの?」

「ええ。大好きなの」

「……お姉さま、今、幸せ?」


 カンティレーナは口元を隠すこともせず、満面の笑みを浮かべた。


「ええ、幸せよ」

最後までお読みいただきありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
"ヒロインから婚約者を奪った側の視点、というところに興味を惹かれました。 婚約破棄のシーンでの王子があまりにも思わせぶりだったので、その裏に何があるのかと期待しながら読み進めました。 ラクリマンドが姉…
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