1.出会い
「……なんだ、ここ」
王宮内を人目を忍んでうろついているうちに、俺は小さな庭園を見つけた。王宮正面にある薔薇の迷路みたいなでっかくて立派なやつじゃなくて、城の奥の方にひっそりと構えられた、かわいらしいやつ。咲いているのも赤い薔薇じゃなくて、ピンクとか黄色とかで、豪華絢爛な王宮内とはずいぶん雰囲気が違う。
まるで秘密の庭といった、人知れず手入れされたその区画に、俺は良くない欲が掻き立てられる。バレたら大変だと制止する理性を無視して、俺は好奇心から足を踏み入れた。努めて静かにに石畳の道を進もうと一歩踏み出したとき、
パキッ
……足元から不用心な音が鳴った。どうやら小枝を踏んづけたらしい。マズイ!と体が固まる。勝手に王宮の、多分あんまり入んない方がいいところにいるので。誰もいないことを願って、そうっと周りを見渡す。……居ないかな?良かった誰も聞いてな
「誰??」
「ヒュッ」
心臓が止まるかと思った。茂みだと思っていた方から声がする。子供というには凛とした、大人というには幼い声だった。恐る恐るそちらに視線を向けると、茂みの裏に道があったようで、そこから声の通りの少女が顔を出した。仕立てのよさそうなドレスと下ろした金髪で、使用人ではないことは一目瞭然。訝しげに俺をみる目の色は、金。王族は瞳と髪が金色なんだって、昔父が言ってたような……なんて思い出がどこか他人事のように頭に浮かぶ。
やべえ、終わった。
今更湧いてきた後悔や焦りを嘲笑うかのように、カラフルな蝶たちが俺達の周りをひらひら舞っていた。
なんで貴族でもない俺が王宮にいるのかといえば、父の補佐に他ならない。
俺の父は商人だった。海外との貿易を主としており、それなりに大規模な商売をしている。それで今日は、外国から仕入れた骨董品やら美術品を国王に売りつけに来たのだ。国王がそういったものに造詣が深いのは、このバーニアの国内では有名な話である。その手伝いとして、父は次男の俺を使ったというわけだ。兄は家業を継ぐための勉強で忙しく、姉は既に嫁ぎに出ている。
「余計なことはするなよ」
と父には耳にタコができるほど言われた。信用がなさすぎる。まあ普段の行いが悪いんだけどね。
俺は家業にはこれっぽっちも興味がなく、家ではずっと絵を描いてばかりだったから。
俺の夢は画家になることだった。きっかけは、これも父の商売についていったときのことだった。取引先の屋敷に飾られていた一枚の肖像画に俺の目は釘付けになったのだ。
一見すると、なんてことはないよくある肖像画だった。しかし俺は父の長話の間暇を持て余しキョロキョロ応接室を物色していたところ、その肖像画の魅力に気づいたのであった。
うまく言い表せないが、とても愛に満ちた絵だと思ったのだ。その絵の貴婦人は、肖像画らしい澄ました顔をしていなかった。髪もきちんと纏められているわけではなくて、ラフな出で立ちであった。豪奢に着飾るようなことはせず、あくまで自然体といったような。彼女は髪を耳に掛けながら、笑って、こちらに話しかけているようだった。よく見れば目尻が少しうるんでいた。
談笑している一瞬を切り取ったかのようで、その絵を見ているだけで俺は彼女と話している気がした。聞いたこともない彼女の声が聞こえてくるかのようだった。
きっとこの絵はこの貴婦人と近しい間柄の人が描いたんだろうな、と思った。それがどんな関係なのかまでは、分からなかったけど。
以来その絵を見ることも、似たような感情を感じることもなかったが、その日のことがずっと俺の中に残っていた。そして次第にその感情は、俺もそんな絵を描いてみたいという憧れに変わり、気が付けば画家を目指していたのだった。
で、そんな俺が宮廷に入れるってことで、内心はしゃいでいた。現国王がかなりのコレクターだってことを知っていたからね。もしかしたらあの時の絵みたいな美術品もあるかもしれないなんて、ウキウキでスケッチブックを隠し持って準備していたのだ。父の言いつけを守るつもりはこれっぽっちもなかった。
仕事の途中でこっそり抜け出して、人目につかないところに隠れる。広い宮廷は細部まで意匠を凝らした煌びやかな造りになっていたが、絵画の類は案外少ない。
そりゃそうか、美術品用の倉庫的な部屋にしまってんのかなあ。
残念、がくりと肩を落とし、さすがにそろそろ持ち場に戻ろうと、再び隠密行動を開始しようとしていた時だった。静まり返っていた廊下の奥から、微かに話し声と足音が聞こえてくるではないか。しかも帰り道の方からだ。段々近づいてくるそれに、俺は咄嗟に奥に進むことを選んだ。とにかく今はバレてはいけない。
声の主が立ち去るまで人がこなそうなところでやり過ごそう、とどんどん人通りの少なそうな方に進んでいった結果、俺は秘密の庭園を見つけたのだった。
そこからは先述の通り、無事やらかして見つかり、今に至るというわけだ。
「誰、なの? 名を名乗りなさい!」
少女は固く握った拳を胸に当てて、警戒心をあらわにしている。対する俺は、小枝を踏みつけたへっぴり腰のまま硬直。なんて答えればよいのか、ひとまず彼女の警戒を解かねば、このままだと人を呼ばれかねない。
「えっと、……あ、怪しいものじゃなくて」
「そんなの皆言うに決まってる!」
まったくもってその通りだ。眉の皺を更に深く刻み、大きな目でこちらを睨みつけ一歩後ずさる彼女。下手にはぐらかしては逆効果に違いない、と俺はあきらめてすべて白状することにした。
「俺はオリバー、オリバー・チャップマン、えっと、商人のチャップマン一家っていう……今日は商談に来ただけで」
「信じられる証拠は? それになんで商談に来た人がここにいるのよ!」
ごもっとも過ぎる彼女の正論にぐうの音も出ない。どうしてここにって、出来心でつい、興味があってだなんて言って警戒心の強い彼女が信じてくれるわけがない。でも、身分を証明するものどころか、今の俺が持っているものといえば、一冊のスケッチブックと鉛筆だけ。
本格的に詰んできた展開に、ええいままよ!と俺は持っているものをすべて取り出し、ついでに上着も脱ぎ、正座して両手を挙げて必死に無害であることをアピールした。
「こ、これしかもってないから! ホントに怪しくないの! 俺は、ただ美術品が見てみたかっただけで……」
べそをかきながら俺はそう訴える。我ながら、本当に滑稽だと思う。けど俺は何としてでも父親にバレずに帰らなくてはならなかった。どうにかして彼女の誤解を解き、このことを内密にしてもらわなくてはいけない。
すると彼女は、警戒しつつもじりじりと俺に近づき、やがて並べた荷物の前まで来ると、スケッチブックを手に取った。
ぺらり、ぺらり
慎重にページをめくる彼女の顔を恐る恐る覗き込む。すると、俺が目にしたのは、先ほどの眉根を寄せた訝し気な表情ではなく、わずかに眉を上げ、目を見開いた驚きの表情だった。え、なに、下手すぎてビックリってかんじ?
「これを、すべて、あなたが?」
「え、はい、一応」
彼女がスケッチブックから俺に視線をずらす。彼女の態度は、警戒が完全に解け切ったわけではないが、さっきより随分落ち着いたものになっていた。シロウト過ぎて興が冷めて逆に冷静になっちゃったのかな。
「……美術品を見に来たって、こんな庭にあるわけないじゃない」
「えっと、それは、人の気配がして逃げてきたらここに迷い込んじゃったって感じで」
「やっぱり侵入者じゃないの!」
「ち、違う! いや、そうなんだけど悪いことしようとしてたわけじゃなくて!」
「……ふっ」
正座のまま身振りでどうにか身の潔白を証明しようとする俺が哀れでおかしかったのか、彼女はクスクス笑い始めた。
「わかったわ、こんな間抜けな間者いないもの」
「間抜け……その通りなんだけどさ」
しょぼくれる俺に彼女はまた笑う。案外ツボが浅いのかもしれない。先ほどと打って変わって年相応な姿を見せる彼女に、俺はひとまず安堵した。
「それで、こんな間抜けな侵入者を見逃してはくれませんかね? 俺そろそろ持ち場に戻らないといけなくて」
「駄目よ、あなたがこの絵を描いたって証拠がないわ」
「その証明居る?」
「勿論! 本当に美術品目的だったのか確かめないと」
どうやらまだ俺は解放されていないらしい。
「じゃあ、証明するにはどうしたら?」
俺がそう問うと、彼女はスケッチブックと鉛筆を俺に差し出して、小さな声でこう答えた。
「私を、描いてみて」
え、と思わず声が出た。それを聞き取れなかったのだと捉えた彼女は、今度ははっきり同じ言葉を繰り返す。
「え、いや、聞こえてるけど……」
俺のこと下手くそ画家気取りだと思ってたんじゃないの。そんな人間に自分を描かせるとか、正気?普通ヤじゃね?
「や、やっぱりいい!」
「いや描くよ描きます描かせてください!」
彼女が引っ込めようとしたスケッチブックと鉛筆を急いで受け取り、俺は勢いよく立ち上がる。
「さあさあ座って!」
丁度いいところに置いてあったベンチに彼女を誘導し、俺もそこから三、四歩離れた辺りの芝生に腰を下ろした。
「……本当にいいの?」
「俺が断れる立場だと?」
「そういうのなら、描かなくていい!」
「いや、俺も自分以外の絵って描いたことなかったから。むしろいいの?って感じ」
これは本当。ずっと一人で絵を描いてきた俺にとって、生身の人間と対面して絵を描くこと自体初めてだった。それどころか、絵を見せることすら稀である。父も兄も、俺が画家を目指していることをよく思っていないので。風景画に人が混じりこむことはあっても、はっきり細部まで描くことはなかった。
「確かに、さっきの絵、あなたか風景しかなかった」
「師匠とか仲間が居ればいいんだけど、独学なもので」
そう溢すと彼女は目を見開いた。
「ひとりで、そんなに上手なの?」
「え上手!? 俺のことへたっぴだと思ってたんじゃないの!?」
「思ってないわよ! そんなこと一言も言ってないじゃない!」
あんぐり口を開けて、お互い目を見合わせる。どうやら思い違いをしていたようだ。その状況がおかしくて、俺は思わず噴き出した。
「俺、絵褒められたの初めてだわ、ありがと」
「うそ! そんなに上手なのに!」
彼女が「信じられない」と口元を手で覆う姿が迫真で、それがまた面白くて笑ってしまう。
「お世辞でもうれしいよ、はりきっちゃおっかな、えっと……」
「アンナよ、オリバー?」
彼女、アンナがニコッと微笑んだ。その姿に、俺は昔に見た貴婦人の肖像画が頭に浮かぶ。目の色も、髪の色も、服も、年齢も違う。それにあの絵は室内で、ここは昼の庭園。だけど、始めよりずっと気を許したアンナの表情が、あの絵にそっくりだった。
「え! 今の表情! もっかいやって!」
「今の表情って……どれのことよ」
「さっきの笑顔!」
「そんなの、自然と笑ったんだから、意識してなんて無理よ」
アンナがもう一度笑ってくれるが、今度は余所行きの上品な微笑み、という感じだ。これはこれで綺麗なのだが、俺が見たかったものではない。
「そっか、そうだよな……」
渋々スケッチブックの、まだ白紙のページを開く。少しずつアンナをかたどりながら、俺は彼女を観察した。
見たところ、十三、四才といったところだろうか、やはり彼女は金色の瞳と、ゆるくウェーブした明るいゴールドの髪をしている。水色のドレスは、飾り気は少ないが上質な生地であることが見て取れた。アクセサリーも身に着けておらず、それがかえって彼女本来の良さを引き出していて、仕事柄度々目にするただただ派手な令嬢たちよりずっと良いと思った。
大きくて若干吊り上がり気味の目と通った鼻筋は、聡明な印象を与えた。でもその相貌を崩し、眉を八の字にして笑ったとき、彼女ははっと息をのむような輝きを見せるのだった。
描いている合間は基本無言だったが、たまにぽつぽつと、二、三言交わし、また静寂に戻るときがあった。そこで俺が知ったのは、この庭園を彼女一人が管理していること、花が好きなこと、ピンクが好きで、赤はあまり好きでないこと、紅茶が好きなことで、逆に俺は、画家を目指していること、花というか、自然が好きなこと、空色が好きなこと、紅茶よりクッキーの方が好きなことを話した。お互いそれ以上の詮索はしなかった。
三十分程度で描き終え、ページを切り取ってアンナに渡した。
「すごい、私だ」
「そら、アンナを見て描いたからね」
彼女が丁寧に紙を扱っているのを見て、こそばゆい気持ちになった。
「じゃあ、もう戻るね」
「あ……うん」
スケッチブックと鉛筆をしまい立ち上がる。許されたのかな?と彼女の顔を覗くと、なんだか神妙な面持ちである。
「ねえ、また会える?」
アンナは絵に折り目が付かないように胸に抱えて、俺を見上げた。うっすら目尻に涙が浮かんでいる。俺は返答に困って、どうしたものかと頬を掻く。
正直、会える見込みは薄いだろう。今日は仕事で王宮に来たが、王族を相手に商売することなど滅多にないことだった。あったとしても、それはいつになることやら。
でも、これは勘でしかないのだが、俺はまた彼女と会えるような気がしていた。肖像画の貴婦人と同じ雰囲気を纏った彼女とここで出会えたのはきっと運命だと。彼女とならまた運命的に巡り合えるのではないかと、ただの予感だが、そんな気がした。
「うん、会えるよ」
傍から見たら実に無責任な返答だが、俺は本気でそう答えた。あの肖像画を見たときと同じ、自分の中に確かな何かが生まれる感覚があった。
ひらひら手を振れば、アンナは絵を片手で抱きしめ、もう一方の手を振り返してくれた。その姿に、まあよくもこんな短時間で仲良くなれたものだ、と感心する。実際彼女と出会ってから、一時間もたっていないのだ。
くるりと踵を返して前を向く。手を振ったまま、先ほど目に焼き付けた彼女の姿を思い浮かべた。
うっすらとうるんだ瞳のお別れの笑みは、やっぱりあの絵にそっくりだった。