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秋は思いだしたように、ばたばたと屋敷へ駆けもどりました。
「お兄さまは、お暑いでしょうに」
と、その屋敷の縁側に立って空の色を仰ぎ見ていたのは、この家の主、松平龍太郎中尉の妹で、秋がお仕えしている富子様です。足音を立てて戻ってきた秋にふり返ったその姿は、細面に高島田を結い、露のしたたりそうな黒目がちの目、口もとは愛くるしく、すらりとした立ち姿。鼠色縮の単衣に、お太鼓結びに締めた帯の端のほうからは、帯揚げの緋縮緬がすこしのぞいていて、帯どめまできちんとかけています。この暑いのに自宅できちんと身だしなみを整えるそのたしなみから、人柄は知れるというものです。
「秋や。はあはあ息を切らして。また蛇が出たのかい」
「まさかですよ。そうそう毎日のように蛇が出てたまるもんですか」
「それだけれど、雀が蛇を怖がって、井戸のなかに巣を作ったくらいだって、そんなこといってたじゃないの」
「ええ、そりゃもうほんとうでございますとも、お嬢さま。いまだっていきなり雀が飛びだしてきたものですから、牛乳屋の娘がどんなに驚いたことかって」
「あの井戸のところで?」
「はい。お仙さんのお手伝いをするっていって、井戸水を汲もうとしていたところだったんですよ」
富子はうなずいて、
「それで、ご病気はどんなだね」
「いえ、もう今朝は起きていらっしゃいました。そういたしますとお嬢さま、あの弟御様が怒りまして、けんかをするようにして寝かせましたようでございました。金さんも姉思いでいらっしゃいますよねえ」
富子はまたうなずきました。
「それはもう」
「あんな弟御をもった人は幸せでございますね」
「あんな姉さんをお持ちになった方も幸せだよ」
「けれどもまた、うちのお兄様のような方もめったにはおられませんよ」
「あそこのお姉さまのような方はいはしないよ」
秋は富子の顔を見て、
「たいそうご感心あそばしますのね」
「あの弟御も感心だよ」
「ええ、そりゃもう私も感心をいたしております。普通ならあのお年頃では親のいうことだって聞くもんじゃございませんのに、まあなんでも姉さまのいうことをいちいち『はいはい』ってうなずいていらっしゃいますが、お嬢さま、そう見えてときどきわんぱくなことをなさっては叱られて、困ってどうにもならなくなることもあるんです。そんなときは、あの牛乳屋の娘が間に入って、あやまるんでございますよ。
男の子というものは物心がつきますと、親のいうこと、それも女親のいうことなんて、そうそう聞きはしないものなのに、あの子はどうしてあんなに素直なんでしょう」
「そりゃお前、そうじゃないか。だいいちあのお宅は、お姉さまが雇われ仕事かなにかをなさって、それで暮らしていらっしゃるから。学費とかなんとか、みんなお姉さまのお世話になって」
「はい」
「尊敬できるうえに優しくって、そんな方にかわいがってもらえればね、秋」
「はい。そのうえなんでございますね。物知りで」
「ええ」
「お裁縫がお上手で」
「ええ」
「ご親切で」
「ええ」
「琴、三味線の芸を身につけて、お花とお茶もおたしなみで」
「ええ」
「まるでお嬢さま、あなたのようでございますね」
「あら、秋。お前はそんな皮肉をいって」
と、富子はくやしがります。