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「きゃっ」
とびっくりして飛びのいた少女は、不意を突かれてぼんやり顔。
「それ見たことか。人のいうことをきかないから、びっくりしたろう。ははは、なんでもない、井戸の途中に雀が巣を作ってるんだよ」
少年は井げたの縁に手をついて、釣瓶縄を片手に持ったまま、背伸びをして井戸のなかをのぞき込みます。
「どうしてこんなところにね」
と少年と並んで井戸の底をさしのぞきました。そのとき不意に耳もとで、
「ほほほ」
という高笑いが響きました。
夢中で見ていたふたりは、ついうっかりと気づきませんでしたが、はっと顔を上げると、いつの間にか、向かいのお屋敷で働く秋というのんき者の女中が、すぐそばに立ってふたりの様子をじっくりと見ていたのです。少女は思わず気おくれして、横を向いてしまいました。少年もまた、少女と反対の方を向いてそしらぬふりをしましたが、決まりが悪そうです。
「ほほほ。そんなことをなさってらっしゃたら、きりがありませんよ。どれどれ、中を取って私が水を汲んであげましょう。あなたたちったらもう、さっきからじっと順番を待ってましたが、つまらないことをいがみあっていらっしゃるんだもの、おほほ」
と、また笑いました。
少女は斜めに少年のほうを見て、
「だから金さんに……」
「もう! 金さんもなにもありません。この娘ったらもう、どうしたことやら。旦那さまはさっきお出かけになりましたし、お嬢様もごはんが済んだ時分なのに、まだ牛乳をお届けじゃないのね。よし、まだつまらない言い訳をするようだったら、この秋が……」
と、怖い声で言いました。
すると、横から少年が、
「でもね女中さん、ミルクってものはね、食後に飲むほうがいいんだってよ」
「あつかましい。あなたが言い訳をおっしゃるの……」
といいかけて、秋は少女のほうをふり返ってニタリと笑い、
「ああ、だから金さんに、なのね!」
「ふん、秋、覚えておいで」
少女は優しくキッとにらんで、カゴの柄に手をかけるやいなや、小走りに木戸を出ていきました。
そんな少女の姿を秋は目で追っていましたが、すぐに仰向くと井戸縄を滑車にかけて、
「ほんとに罪のない娘ですね。さあ、水をどうぞ。いえいえ、どういたしまして。ついでにうかがいたいんですが、あの、お姉さまのご病気はいかがでいらっしゃいます」
「ありがとう。なに、大したことはないそうだけど」
そういいかけた少年が後ろを向くと、姉は勝手口の陰にたたずんで、こちらに視線を投げかけています。
秋はその姿を見て、ちょっと頭を下げました。
姉はていねいに、
「どうもお世話になりました。おそれいります」
「いいえ、なんでもない、水を汲むのも私の仕事ですから。それで、もうお起きになってよろしいのでございますか?」
「いけないんだよ、いけないんだよ。いけないっていうのに、姉さんは」
と、少年は手桶をさげて走りこみ、いきなり姉の胸のところを押しました。重い頭を抱えていた姉は、ふらふらとよろけて、台所の床に腰をついてしまいました。
「乱暴だねえ」
「ごめんよ、ごめんなさい。でもね、まだ起きちゃだめなのに、困るなあ。いけないよ、姉さんは」
「今朝はすこし具合がよかったもの」
「すこしよくったって、無理して悪くなったら、なおいけないじゃないか。まだなにも食べないくせに、姉さんのほうが乱暴だよ。困るじゃないか。寝ておいでよ。さあ、寝ておいでよ」
肩に手をかけ、両手を取って連れていこうとする弟からは、手荒いようですが、飾りけのない親切心がにじみだしています。そんな弟に、姉は嬉しくひきたてられて、
「はいはい、わかったよ」
といいながら、奥のほうに連れていかれました。
井戸ばたに立ってぼんやりとながめていた秋は、ことばをかけることもできずに所在なく、
「おだいじに」
と、かける相手もいない独り言をつぶやきました。