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 明治二十八年×月×日。雪暗き満州での戦いに、三軍が吶喊(とっかん)を叫んだときであった。

 各隊がみな敵塁(てきるい)に接近し、砲烟の立ち籠める最前線に乗り入れたにもかかわらず、冷ややかに進軍をとどめているのを、ああ、弾丸の恐ろしさに立ちすくむのかと苦言を呈する年若き士官がいた。ここに至るまでも彼は、土着民の小屋を楯に取りつつ一隊を率い、陣頭に立って剣を抜いてきたのだった。

 脱兎のごとく躍り出て、三反(さんたん)ほど歩みを進めると周囲をキッと見まわし、配下の兵士を顧みると空高く剣を()って、

「進め!」

 おおっ、と(とき)の声があがる。軍馬一団が上げ潮のようにサッと敵前に進むと見るや、

「伏せよ!」

 と一声叫んだ。一隊はただちに障壁に身を伏せる。

 青年士官はただ一人で身をそびえ立たせ、雨霰(あめあられ)と降りしきる弾丸にも目を逸らさず、しばし敵塁を見つめていたが、再び単身で敵陣に向かい、稲妻のごとく眼を配って、

「進め!」

 おおっ、とあがる鬨の声がひたひたと寄せてくるのを、(おのれ)の背後に引きつけて、

「伏せよ!」

 とさらに令を発する。一隊は言下に地に伏せる。

 士官は屹然(きつぜん)と立ったまま身動きもせず、ただ独り剣を構えて平然としていたが、韋駄天のようにサッと駆けだすと振り返りざま、天を擦るかのように切っ先を振りかざして、配下を差し招いた。

「進め!」

 おおっ、と鬨の声があがり、疾風のごとく一隊は素速く進み、次の障壁に達するやいなや、

「伏せよ!」

 と高らかに叫ぶ。一隊は三たび姿を消した。

 迅速に歩みを進めた士官は、五十(けん)の進軍を遂げたのである。

 砲声、銃声が轟々(ごうごう)と響き、ひとしきり天地を渦巻く吹雪の勢いも凄まじく、暗い(うな)りをあげる広野のなかを、一直線に横切って、銃弾のなかをくぐり抜けつつ、一騎の伝令が走り来る。

 青年士官の目前まで駒を進めた勢いをサッと乗り戻して(とど)まると、騎乗のまま威儀を正して、

「中将相良師団長より、伝令!」

 馬の(かしら)を立て直して、

「中尉、貴官の名は?」

 と、朗らかに呼ばわった。

 声に応じて剣を捧げ、士官はおのれの名を名乗る。

「松平龍太郎」

「うむ。中将より、『見事』と申せと」

 そのとき、剣光が(ひらめ)いた。

「進め!」

 おう、おうと鬨の声があがる。

 引きつけては兵を伏せ、現状を見てはまた進め、ただ一人危険に身を(さら)しながら、機をうかがいつつ三(たび)、四度、五度、六度と前進する。

 こうして敵弾に射すくめられることなく、部下の一人としてかすり傷も受けることなく中尉の一軍は敵陣に詰め寄り、やすやすと陣中に乗り入れた。


 めでたく戦果を上げたその夜のことである。相良中将は酒宴を開いて諸将を(ねぎら)った。

 杯が一巡し、松平中尉が前に進んだとき、相良中将はその肩を手で()って微笑して、

「好男子よ。報いずばなるまい。なにか望むものがあるか?」

 だれのために戦ったのか。国のために責任を(にな)う身でありながら、彼とともに死すという望みを果たせなかった中尉は、憂いをたたえつつ、

「自殺を望みます、閣下」

 とだけいった。

 中将は広い額をわずかにしかめ、星のように(きら)めかせていた(まなこ)を一筋の暗雲で曇らせたが、美しいハンカチにビールの瓶を持ちそえ、莞爾(にっこり)として、

「まあ、飲め、飲め」



(了)


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