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「ごめんくださいませ、ごめんくださいませ」
と、富子は声を忍ばせていうと、勝手口の戸障子に身を寄せて耳を澄ませましたが、家のなかはひっそりとしています。すこし離れてあたりを見まわし、また近づいて小さな声で、
「ちょいとお開けくださいまし、どうか、ちょいとお開けくださいまし」
家のなかはあいかわらず静かです。富子は黙ったまま、立ちつくしました。椎の葉や杉の枝はきらきらと夜露に光り、晴れた夜空には月が高く昇っています。草むらで鳴く虫たちの声が鐘の音とともに低くなり、山の手の夜は更けていきます。
こらえかねた富子は、戸を叩きました。あたりをはばかって、胸が高鳴ります。
「どうぞ、どうぞ、おねがいでございますから、ちょっとお開けになって。姉さん、さぞやうるさいとお思いでしょうけれど、もう一度申したいことがあって参りました。そんなことをいっては済みませんけど、さっきからうかがっていますと、まだお休みにはならないようす。こんなに申してもお聞こえにはなりませんか。ええっ、強情なお姉さま」
と、富子は泣き声をこらえながら、
「ちょっとはお察しくださって、どうぞもう一度、お顔を見せてくださいまし。さっきのお腹立ちは存じております。また門口に立つことも許していただけないでしょうが、私が押しつけがましい失礼なことをしでかしまして、それでお腹立ちなさったのなら、あれほど思いを寄せている兄さんにも済みませんが、私ももう一度申したいことがございますから、どうぞお会いになってください。お仙さん、姉さん」
と、ぴったり身を寄せて戸障子にすがりつき、顔を押しあてました。
「まだ聞いてはくださいませんか。恩に着せるわけではございませんが、このあいだ、あなたがひどく具合の悪かったとき、おうちには弟御様しかおられず、どんな御用事があるかもしれないと、看病をします覚悟で門口に立って下りましたのは、今夜ばかりではございません」
といいかけて、また二つ、三つ戸を叩き、顔を横にして耳をあてて聞きすましましたが、物音ひとつしないのです。
富子は月を仰ぎました。森のなかで鳥が鳴いています。
「ああ、私というものは」
ためいきをついてうなだれました。町のはてから足音がして、鈴を鳴らしながらこちらに近づいてくると、お仙の家の門口で立ち止まります。鈴の音は、早朝の新聞配達でした。裏口にぴったりと身を寄せる人影をいぶかしんでいるようで落ちつかず、富子が戸口を離れて井戸ばたに向かうと、足音はまた走りだして、四つ辻のあたりに遠のいていきます。
富子はそのまま、井戸ばたの流しのそばにたたずんでいました。森の梢にかかるように、空には白い雲がわいてむらむらと広がり、かすれていく雲の端は薄く月をおおいながら、そのまま下町の空にまでわたっています。また鐘が鳴りました。
張りつめていた気がゆるんだ富子は、横むきに倒れこむように膝を折って、肩をすぼめてしょんぼりとしながら、井げたに両手をついて、井戸の底をじっとのぞきこみました。高台にある井戸は深く、その静かさは限りなく思えるほどです。涼しい風がサッとふき、滑車にはね上がった釣瓶の縁からひとしずくの水が垂れて、冴えた音を響かせました。深い井戸の底からは、さらさらと水音が響き、チ、チ、チと雀がさえずります。富子はハッと心づくと、一歩退きました。
どんどんと時太鼓の音が聞こえて、しらじらと立ちこめた霧が富子の姿を包みこんだそのとき、松平家の勝手口の戸を開いてぬっとあらわれたのは、大あくびをしている秋でした。