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[登場人物とその関係]
・牛乳屋の娘、お蝶(満年齢で14~16歳)
・お仙(お姉さま)、金之助(満年齢で16、7歳)……姉弟二人の家
・松平龍太郎中尉、富子お嬢さま……兄妹二人のお屋敷、女中の秋
・相良中将
家々の裏口や庭や庭園の垣根がまばらにつづく高台には、朝霧が濃くたちこめています。軒端や棟、森の梢などは、すでに夜明けの空にしらじらと照らされ、うす紫や紅色の朝顔がいっせいに咲きほこって、そよ風に吹かれては、葉っぱを二枚、三枚と裏返しています。
やがて霧は低いところから晴れていき、高いところで濃さをましていきました。一面の霧のなかから、倒れ伏した黍殻と、暗い濡れ色をした土が姿を現しはじめます。垣と垣との小路をつたって、十六、七ほどであろう色白の少女が、足早にやってきました。
少女は髪を引っ詰めた銀杏返しに結って、ちいさな菊の花のかんざしを挿しています。おしゃれといえばそれだけで、化粧っ気もなく、紺の半纏と腹掛けに共地の股引をはいたおきゃんな服装。半纏の背中のところには、赤い丸に一文字が大きく染め抜かれています。少女は、牛乳を配達しているのです。手に提げたカゴには、牛乳瓶がいくつか入っています。
小路を進みきった少女は、やや広い通りにさしかかりました。曲がり角にある、若い士官の家の垣根に立って、裏木戸に蔓をのばして咲いている朝顔をながめていましたが、ふと振り向くと、その家の士官が見えました。会釈をすると、
「早いな」
と、ひとこと声をかけただけで、士官は立ち去りました。
少女は脇目もふらずに小走りになって道を急ぎ、たどり着いた家の、とある裏庭に入りました。そして、つきあたりの井戸のそばにある勝手口をあけながら、
「おはよう」
と、戸の内をのぞきこんで、やさしい声でいいました。
「あら、もう起きていらっしゃったの?」
少女の声にふり返ったのは、竈の前にしゃがんでいた、美しい女でした。
その女は、寝乱れた髪を鉢巻で留めて、襟を深く掻き合わせた下締めの寝衣姿で、絹糸織の半纏をひっかけた肩をすぼめて、鉄火箸を土間に突いて身体を支えながら片膝立ちになり、頭を重たげにうつむかせて、釜の下の薪を焚きつけていたのでした。
「おや、ご苦労さま」
「もう、起きてよろしいの?」
少女は、勝手口から半分ほど顔を出して、美しい女に問いかけました。
「ありがとう。だんだんよくなってるから」
と、気休めをいうように答えるのを少女は見守って、
「でも、顔色が悪いのね。無理をしちゃあいけませんよ。ちょっと、あの、わたしが朝食を作ってあげましょう。休んでなさいよ、ね」
女はにっこりと笑いかけて、
「そういうお前さんも、そんな気楽なことをいってていいの?」
「なぜ、え? なぜ?」
「だって、まあ、仕事の途中じゃないか。まだちっとも配ってないようで、カゴのなかはいっぱいじゃないの」
「そうね」
と少女は、カゴを見るとほほえんで、
「それはね、そうだけど。だって、病気の上に風邪をひいたりなんかしたらたいへんよ」
といって、顔をしかめました。りりしい眉をして、すこし切れ上がった目をした少女ですが、ものをいうとき小首をかしげるところに、愛嬌がにじんでいます。
「なあに、もうそんなに心配してくれなくてもいいから」
と、その女が、釜のふたにかけた白い手を、アツツと胸もとに引きよせた、そのときです。不意に頭を上向かせ、目を細め、キリリと歯ぎしりをすると、手を離れた火箸がパタリと倒れました。