02 襲われる少女
「お、落ち着いて……こんな時のために、毎日魔法の特訓をしてきたんでしょ? 追い払うなんて、なんてことないんだから……」
少女は、目の前の獰猛な肉食獣を刺激しないようにそっと立ち上がり、横目でリュックの方を見ながら左手に持った杖を相手に向け、右手で何かを探している。
肉食獣はしきりに辺りの匂いを嗅ぎながら、少女の周りを回っていた。恐らく他に仲間がいないか、もしくは自分以外に目の前の獲物を狙っている者がいないかを探っているのだろう。
お互いに警戒し合いながらしばらくこう着状態が続くと、少女はお目当ての物を見つけたのか、おもむろにリュックから右手を引っ張り出した。
彼女が持っていたのは分厚く、薄汚れて焦げ茶色になっている一冊の本だった。文字や図形が幾重にも表紙に描かれているそれは、魔導書と呼ばれる本だろう。
少女はやっとの思いでその本を開くと、小声でぶつぶつと呪文を唱える。
すると、僅かに魔導書の周辺の空気が振動したかと思えば、今度はひとりでにページが捲り上がり途中でピタリと止まった。
一触即発の危うい雰囲気の中で、空気がピリピリとひりつく。
額から止めどなく溢れる汗を拭いもせず少女は瞬きすらやめ、朱色の瞳で目の前の脅威を睨みつける。
緊迫とした状況の中、一秒一秒を知らせるが如く、頬を伝って流れ落ちた汗が一滴ずつ衣服を濡らしていった。
しばらく、周辺の様子を伺っていた肉食獣は邪魔者が現れないと確信したのか、姿勢を低くして今にも襲いかかりそうな体勢をとる。
少女は迫り来る恐怖に耐えるために奥歯をぐっと噛み締め、襲い来る猛獣に反撃するかのように杖を正面に向けながら、今度はよりはっきりとした声で呪文を唱えた。
「エルム!」
杖の先が光出すと同時に、開いた本のページに描かれた文字も淡く輝き始める。
杖の先の光がより一層輝きを増すと、弾けたような音がするのと同時に何かが杖の先から飛び出した。
勢いよく飛び出したそれは、肉食獣の灰色の頑強な皮膚を掠めて儚く消えてしまったが、その正体はマッチほどの大きさの火で、およそ目の前の獰猛な化け物を追い払えるような代物では無かった。
「うそっ!? どうして? 火の魔法……練習の時は上手くいってたのに……!」
少女は青ざめた表情で口元を歪ませる。よろよろと後退り、とっさに周りに誰かいないか目を配った。しかしいくら目を凝らしてみても、ここには目の前の猛獣と自分以外誰もいない。
大声で助けを呼ぼうかと考えてはみたものの、声が誰かに届く前に化け物に襲われる、そんな考えが頭をよぎった。
もう一度目の前の化け物に杖の先を向け、襲い来る猛獣を追い払うための呪文を唱えようとしたが、口が震えて舌が回らない。ガチガチと奥歯が鳴り、目に涙が浮かんだ。
肉食獣はググッと後ろ足に力を入れる。
恐らくもうすぐ自分は襲われる、次の瞬間には喉元を噛みつかれ、奴のお昼ご飯になるのだろうと少女は想像した。未来予知など使うまでもなく、数分後の未来が少女には見えたような気がした。
少女は恐怖で足がすくみ、その場にへたり込む。
心の中で『助けて!』と何度も叫ぶものの、助けが来ることは無く、無常にも肉食獣は彼女目掛けて襲いかかってきた。
とっさに少女は、右側の上着のポケットから木の実程の大きさの、灰色がかった白っぽい丸い玉を二個取り出すと、肉食獣目掛けて右手を大きく振りかぶりそれを投げた。
それは見事に肉食獣の顔に当たり、今にも少女の首元目掛けて噛みつこうとした化け物は、思わず反射的に顔を仰け反らせた。
次の瞬間、軽い破裂音の後煙幕が肉食獣を中心に広がっていく。
辺りが白い煙に包まれていく中、少女はその隙に何とか立ち上がり、乱暴に本をリュックに詰めると肩に担ぐ暇も無く引きずりながら走り出した。
その時、走り出した勢いでフードが脱げて少女の顔が露わになる。
ショートボブの毛先が少しカールしている赤い髪が走るたびに揺れ、白い肌は興奮しているせいか紅潮していた。
薄い桜色の唇を目一杯開けて息を吸い込みながら、朱色の瞳に涙が浮かべる。
長く尖った耳が印象的な少女は、整った小顔がまだ十代くらいの幼い印象を与えた。
彼女は、必死の形相で何とか逃げ切ろうと街道の真ん中をひた走る。
この街道の先、恐らくそう遠く無い所に人の住む町がある。
何とかそこまで逃げ切れれば、あるいは町の人に声が届く範囲まで近づければ、誰かが助けてくれるかもしれない。
一縷の望みをかけて少女は煙幕が晴れる前に背後の肉食獣から逃げようと、無我夢中で街道を突き進んでいった。
息を切らしながら街道の先に意識を集中すると、町の建物らしき黒い影の様な物が小さく見えてきた。
僅かに希望が見えてきた少女は、頬を緩ませる。
逃げ切れるかもしれないと、心の何処かに安堵感の様なものを微かに感じながら、少女は足を早めた。
背後からはまだ、肉食獣が追いかけてくるような足音は聞こえない。
このまま逃げ切れる、少女がそう確信しようとした時、何かが彼女の目の前を横切った。
勢いよく飛び出してきた黒い影は、どうやら街道の脇の森からやってきたようだった。
咄嗟の出来事に少女は足を止める。
考えうる限り、最悪の状況が少女を待ち受けていた。
最初に襲ってきた肉食獣と同じ化け物が正面に二体、べルルへと繋がる道を塞ぐように現れた。
仲間か、あるいは獲物を横取りしにきたのかは分からないが、少女に残された最後の希望が跡形もなく砕け散る。
さらに最悪なことに、背後から煙幕を振り切った肉食獣が、少女に向かって今まさに走ってきていた。
息も絶え絶え、今更もう一度魔導書を引っ張り出して魔法で反撃する気力も無く、暑さと息苦しさと絶望感に打ちひしがれながら少女は膝から崩れ落ちた。
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