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世の中、お金より結婚で解決することもある

作者: いしい

 1

 一台の車が、広々とした前庭のある豪邸に止まった。

 中から出てきたのは、バカンスで程よく日焼けした男ぶりのいい青年であった。彼は眩しそうに目を細め、出てきた使用人に「ミラは?」と聞いた。

「お庭にいらっしゃいます」

「庭? こんなに暑いのに?」

「木陰の方が涼しいとおっしゃいまして」

「絶対に涼しくない。どうにか室内に移動させられないか?」

「残念ながら無理だろうと思われます」

 青年は眉間にシワを寄せ、うんざりだというように肩を揺すって「室内にいると余計なものまで出すハメになるからだろ?」と言った。

 使用人はうんともすんとも答えずに、目でどうするのか聞いた。

「庭まで案内してくれ」

「かしこまりました」

 少し成金趣味のある調度品の置かれた廊下を通り、応接間から緑の眩しい庭に向かった。

 庭では、日焼けとは無縁の雪のようなお嬢さんが、汗ひとつかかずにアイスコーヒーを飲んでいる。その後ろに同い年の青年執事が日傘をさしかけ立っている。こちらは、うっすら汗をかいている。

 やってきた青年に気がついた青年執事が「アルバ様がきましたよ」とお嬢様に教えた。

「あら、そう」と興味がなさそうにアイスコーヒーを飲み、遠慮なく向かいの席に座ったアルバにコップを差し出した。

「今日帰ってきたんで、挨拶しにきた。母上が婚約者に帰ったら挨拶するように煩かったから」

「別にしなくたっていいって電報しなかった?」

「そんなの知らない。入れ違いになったんだろ」

 ミラは悔しそうに「損した」と顔を歪ませた。

「汽車に打てばよかったんだ」

「どれに乗ってるか分からないのに?」

 肩をすくめて「まあ、ちょっとした損だろ」と自分にもアイスコーヒーを淹れるよう、青年執事に頼んだ。

「申し訳ありませんが、お嬢様に日傘をさしておかねばならないので」

「なに?」

「私、日焼けしたくないの」

「じゃあ、中でお茶したら? 暑いし。なあ、暑いよな、アルベール」

「暑くはありますが、わざわざ片付けて中に入る方が、さらに暑くなると思いますので」

「なら、他の使用人を呼んでこない? ついでに日傘も持ってきてさ」

 アルベールは片眉をわずかにあげて「了承いたしかねます」と言った。

「なんで?」

「忙しいからよ、しつこい人ね。どうせ日焼けしてるんだから、今更どってことないでしょう。それに、手に帽子を持ってるじゃない」

 アルバはムッとした顔で帽子をかぶり、荒っぽくコップにアイスコーヒーを注いだ。

「生き返る心地がする」と二、三杯飲み干した。

「それで、バカンスはどうだったの?」

「いつも通りさ。親父は海に夢中だし、母上はウィンドーショッピングに夢中。弟はいたずら盛りで執事を困らせる。それで、俺は先に退散してきたってわけ」

「ふうん。で、お土産は? ないの?」

「ある」と懐から一枚の絵葉書を出して机においた。

 綺麗な海と町が書かれている。ミラはそれを摘まみ上げると一瞥でアルベールに「あげるわ」と渡した。アルバは、ひどいなあ、と言ったが、さして傷ついていなかった。いつものことだからだ。

 この婚約者嬢は、高い物が好きで守銭奴である。そして、アルバも守銭奴であるため、高いものなど買わずに安い物で済ませる。彼の両親はもっと高い物を、というが、買いたくないので「彼女は、安いものでいい。気を使うなと言っている」と答えて難をしのいでいる。

 実際、高い物を買うと、受け取ってもらえるが「こんな高いの買ったの? 少なくなっちゃうじゃないの。あなたが稼げる人だってなら別だけど、そうじゃないならおんぶに抱っこなんだから、自覚を持って」と釘を刺されるのだ。両親を一々説得させる方が、彼女に説教されるより、はるかにマシだ。

 アルバは帽子をつけたまま、汗をかきつつアイスコーヒーをガブガブ飲み「高い土産よりいいだろ?」と言った。

「そうね」

「それに、アルベールは絵葉書を集めてるらしいし」

「文字を書く場所が少ないんで楽なんですよ」

「それで集めてるの?」

「はい」

「絵葉書って高くないか?」

「高いからいただいております」

「ふん、なるほどね。俺の周りには、人間に興味のない守銭奴しかいない」

「類は友を呼ぶって言うわよ」

 アルバは不満げな顔をして「自覚してる」と答えた。

「本当はもっと人間に興味を持って親切に優しく、いろいろなことに問題意識を持つべきだと思うんだ」

 バカにしたような目つきで「それができるの?」と聞かれ「人間、性格というものがある」と偉そうに腕時計を見ながら言った。

「この後、予定でも?」

「ないが、家に帰って悠々自適に過ごす。素晴らしきは一人でいる身かな。弟に煩わされず、親父の釣りに連れて行かれて船酔いもせず、母上の恐ろしく時間のかかる買い物に付き合わずにすむ。ビバ一人!」

 と、浮かれて大笑いしている彼の元に「アルバ様、電報です」と紙がやってきた。

「どこから」

「イゾルテ様から」

「は? 母上になにかあったのか?」

「中身を見ておりませんので」

「そうか、下がっていいぞ」と手を振りながら、広げると、そこには『オトウト ソチラ ムカッテイル カダイ ワスレテイタ テツダウヨウニ』とあった。アルバは「クーッ!」と空をふり仰ぎ紙をぐしゃぐしゃに丸めた。

「アルベール、タバコ!」

「申し訳ありませんが、禁煙しております」

「クソ!」

「ねえ、なんだったの」

「エリックが家に帰ってくるんだ。わざわざバカンスから、課題を忘れたからって」

「で?」

「で?」となんてこいつはわかりきったことを聞くんだ、という顔をした。

「なに、その顔」

「ミラ、君はわかってない。いいか、最近ギャング映画に魅了されたあのバカは空気銃を持って、俺の尻を狙うんだ。その暴れん坊が親父も母上もいない家に帰ってくるっていうことは、物が壊され、俺が監督不行届で怒られるんだ。俺がだ! 悪くない、俺が、だ! 七歳の頃、二歳の弟がこぼしたミルクをふかされ、奴が扉を開け放したせいで逃げた鶏を捕まえて怒られ、ピクニック中に湖に落っこちた時にも見てないからだと散々に怒られた。これが、どういうことかわかるか? 世間は弟や妹の方が割りを食ってると思っているけどな、兄貴や姉貴の方が割りを食ってるんだ、本当は!」

「それで? 送り返すの?」

「できたらしてるし、課題を送る。だけど、母上の言うことは絶対だ。いつでもどこでも絶対だ。はっきり言うと、弟の課題の面倒を見たくないから、俺を生贄にしたんだ」と情けない涙に濡れた働き蜂のような顔をした。

 大方の人間なら、特に下を持っている兄や姉ならば、同情したことだろう。だが、ミラという人は、冷たく、ほとんどの良心を自分と幼馴染のような執事のアルベールに割り振っているものだから、一つも優しい言葉をかけず「あ、そう」と言っただけだった。

「それだけ?」

「それ以上、なにを言えと?」

「かわいそうだとか、手伝ってあげましょうかだとか、お母様を説得してあげましょうかだとか」

 ミラは、顔をしかめて、アイスコーヒーを飲んだ。

 彼の期待する言葉は出てこなかった。仕方がないので、アルベールの方を見た。

「おかわいそうに。お気持ち、お察しします」と同情心のかけらもない顔で言われ、アルバは頭を抱えた。

「頭が痛いなら帰ったらいかが?」

「ご親切にどうも」

 彼女はニコッとして、呼び鈴を鳴らして「送ってさしあげて」と使用人に帰らせるように促した。

「君は、なんて冷たいんだ。もう少し優しくしてみたらどう? なにか持たせるものとかない? 例えば、お菓子だとか、ちょっとした飲み物だとか、気持ちの落ち着くものだとか」

「ご冗談。甲斐性とか商才とかいうものを身につけてからおっしゃったらどうかしら」

「冷徹女め」

「さよなら、アルバ。お尻に穴があかないといいわね」

「ふん、あばよ、プディングちゃん!」

 ミラの笑い声を背中に受けながら、豪邸を後にした。

 車の中で「弟をここにけしかけてやる」と決心し、これからのことを考えて頭をかきむしった。


 汽車から出てきた弟は元気いっぱいだったが、お守りでついてきていた使用人は、顔を土気色にさせていた。唇なんか、汚い黄砂のようだった。人並みに哀れんだアルバは、使用人を別の車に入れてやった。

「にいちゃん!」

「兄さんと言いなさい。もしくは、兄上だ」

「なんだい、偉そぶってよ」

 目頭を押さえながら「紳士というものはな」と説教し始めようとした。だが「バン!」という一言と空気銃で説教は飛び去った。アルバは太ももをおさえて「クソガキ!」と唸り、小憎たらしい笑みを浮かべる弟を涙目で睨んだ。

「誰でもいいから、こいつから空気銃を奪ってくれ!」

「にいちゃん、頼むよ! ねえ、おねがぁい!」

 そう頼まれて、一回折れない兄はいない。アルバも例外なく「人に向かって撃つなよ」と注意して、車に乗せた。

「それにしてもお母さんもひどいよ。課題くらい、一日でできるのにさ」

「そう言って、できたことあったか?」

「できてたでしょ?」

「全員で手伝ったからだ! 忘れたのか? 俺たちが徹夜で意味のわからない野鳥観察を図鑑で調べ上げて、詳しい使用人に金を払って手伝わせて」

「あーあーあー、はいはい、そうだったね」

「ウーッ! 少しは反省してくれ」

「悪いと思ってるから帰ってきたんじゃないか」と外を見て、突然、窓を開けた。

「おい、まて、エリックなんで窓を開けたんだ?」

「空気を入れ替えようと思って」

 そう言った目には、なにかしてやろうというものが見て取れた。今まで弟のイタズラや失敗のおかげで、散々割りを食ってきた兄はピンときた。慌てて窓を閉めようと弟を押しのけたが、遅かった。哀れにも、サイクリングするカップルの男の頭に弾が当たり、バランスを崩した自転車は派手に転倒した。

 アルバは素早く前を向き「なにもなかった。走り去るんだ」と弟から空気銃を奪い取った。

 車の中で説教されたエリックは泣きべそをかきながら家に帰ってきた。待っていた使用人は一瞬アルバを非難する目つきをしたが、彼が疲れ切った顔で「どこでもいいからアレの手の届かないところにしまってくれ」と空気銃をさしだしたので、その目はエリックに向かった。

 悪ガキはほんの少しの時間で、精神的に回復したらしく「帰ってきた日くらいはやらなくていいでしょう、兄さん」と上目遣いで言った。

 兄としても、これ以上疲れるのは嫌だったし、使用人もかわいそうだったので「そうしろよ」と言った。

「にいちゃん、大好き! やっぱり、親父やお袋より、兄貴だぜ」

「言葉遣い!」

「へへ、あばよ、兄貴!」

「このクソガキ……!」とアルバはぶつくさ「最近の子供ってやつは言葉遣いがなってない! ギャング映画みたいなクソはさっさとなくなってしまえ、教育に悪い!」と頑固親父のようなことを言った。

 それから、ふと「ここにこのままいたら、妙な遊びに引きずり込まれるぞ」と思い至った。

 彼はすぐさま「ミラ嬢のところに行く」と言い残して、弟の世話から逃げ出した。

 車の中で「弟も、もう十三歳だし、自分でやるってことを覚えるべきだろ?」と運転手に話しかけた。

「その通りで」

「いつまでも兄貴を頼っていてはいけない。いずれ離れ離れになる。それが人生ってもんだ。そうだろう?」

「さようですな」

「弟もきっと学習してくれるだろうし、課題がもしバカンス中に終わらなくても、母上は俺を叱らないはずだ。なんせ、もう十三だ。俺がその頃には、自分でちゃんとやっていた」

「さようですか?」

「なんだ、その言い方は。なにか意見でも?」

「失礼ながら、その年の時、私は坊ちゃんの課題のお手伝いをした記憶がございます」

「十二じゃない?」

「残念ながら、十三です。車の仕組みについてでした」

「あー、うん、そうだったかな? まあ、どっちでもいいさ。俺は弟のお手伝いをしたくない」

「さようですか」

「だから、俺は逃げるわけだ。明日もミラの家にお邪魔する。もしも、弟がついてきたとしても、道連れは多い方がいい。それに、俺だってバカンスなんだ。末っ子王子の面倒をみなくてすむし、羽を伸ばしたい。どうして、俺は世話役なんて面倒を引き受けちゃったんだろう……」

「それは、バカンスでたまたまお遊びになって、たまたま同じ学校に通われているからでは?」

「偶然ってもっといいものだと思ってたよ」

「坊ちゃん、悲しいことですが、そうそう人生にいいことなんていうものは現れません。気持ち次第では、そうなるでしょうが」

「含蓄のある言葉をありがとう、ホーテンス」

 運転手はにっこりとして車を走らせ続けた。

 邸宅に着くと、アルベールが出てきた。アルバは驚いた顔で「いっつもミラの後ろをついて回ってなかったっけ?」と聞いた。

「お嬢様はお着替え中です」

「なんで?」

「泳いでいらっしゃいましたので」

「なるほど」

「で、ご用事は?」

「弟からの避難」

「さようで」

「夕食までの間、いさしてもらうよ。悪いかな?」

「判断いたしかねます」

「ふん、まあ、とにかく、君たちの非難の目よりも、俺は弟の意味のわからない遊びに巻き込まれる方が我慢しかねるんでな。アイスコーヒーある?」

「すぐお持ちいたします」

「いつもの部屋でいい?」

「もちろんです」とアルベールは行ってしまった。

 勝手知ったる人の家なものだから、脇目もふらずにいつもの応接間に向かった。他人の家ではあるが、好き勝手したところで怒られない。応接間は、絵が夏らしく変わっているくらいで、これといった変化はない。成金趣味的な妙にピカピカした小さな花瓶にバラが入っている。

 くんくん臭っていると、髪を湿らせたミラがアルベールと一緒に入ってきた。

「急だこと」

「弟のわけのわからない遊びに巻き込まれるくらいなら、君の話を聞く方がはるかにマシだと思ったわけだ」

「私は、あなたに特にしゃべることはないけれど」

「ないなら、本でも読んでなさい。俺は、とにかく安全な場所にいたいだけなんだ」

「ハン」と冷たく一瞥して「もしかして、明日もくるなんていわないでしょうね?」と聞いた。

「俺のブルーベリージャムちゃんは優しいから、きっと了承してくれると思うんだ。そうは思わないか、アルベール」

「さようで。しかし、ブルーベリージャムちゃんは、少し、なんというますか、寒気が来る言い方ですね」

「ブルーベリージャム嫌い?」

「マーマレードの方が好みです」

「あ、そう。で、明日もくるけど、もちろん、君は優しいから了承してくれるよね?」

「相手をしなくてもいいなら、いらっしゃればよろしいんじゃありません?」

「ヤッホー! それなら、明日もくるよ。ありがとう。君は本当に優しく美しい貴婦人だよ」

 ミラは顔をしかめ「もしも、弟さんがこっちにきても、私はお世話なんてしないから」と言った。

「弟はこっちに来ないさ」と大笑いしていると、部屋の外から恐ろしい足音がした。

 子供の軽くて騒がしい足音だ。後ろからなんて「走ってはいけません!」という声がしている。サッと顔を青くしたアルバは「死なば諸共だ。未来の義弟との交流というものも大事じゃないかな?」とミラを見た。

 彼女も顔を白くさせて「まだ、義弟とは決まってないと思うの」と言った。

 その場にいる三人は、さっさと逃げ出したかったが、悲しいことに撤退できるドアがなかった。袋の鼠状態の彼らはやむなく、悪戯小僧を迎え入れることになった。

「にいちゃん、ずるいよ!」と入るなり手にあろうことかバッタを持っている弟が叫んだ。

 ミラも叫びたかったが、ぐっとこらえて、己の執事の後ろに回った。

「空気銃を取り上げたくせに、一人だけで遊びに行っちゃうなんて!」

「悪かった。でも、これは、紳士の義務なのだ」

「紳士! にいちゃんが紳士なら、世の中にいるバカってのは、みんな紳士だぜ?」

「エリック、言葉を慎みなさい。ここにご令嬢がいらっしゃるのがわからないかね?」

 エリックはうんざりした顔で「ご令嬢っていうのはさ、もっと優しくてあったかい人だと思うんだよね」と言った。

「エリック! それ以上、なにか言うつもりなら、容赦しないぞ」

「じゃあ、僕の空気銃返してよ」

「それはできない」

「世の中、冷たい人間ばっかりだ! 兄貴もその彼女もお金にしか興味がない守銭奴で、かわいい弟に優しさのかけらも見せてくれやしない。これじゃ、僕がグレるのも時間の問題だな。課題をしなかったり、イタズラしなくちゃいけない。青少年特有の反抗期ってやつだ」

「なにが言いたい?」

「弟の尻拭いは、兄貴がするってことだから、いつもみたいにお母さんに怒られるのは、兄貴ってことさ」

 アルバはサッと顔色を変え「エリック、なにをして欲しいんだ? このクソガキ」と震える声で言った。

「僕の空気銃返して?」

「そ、それは」と苦悶の表情を見せた。

 もしも、空気銃を返したら、至るところでぶっぱなされ、使用人一同が怪我を負い、挙げ句の果てには大事にしているツボが割られ、親父の大切な家畜が傷物になり、母自慢の庭が台無しになる。アルバの目には、悲しい顔をする全員の顔が、ありありと見えた。

 これは、本当に苦渋の決断だった。自分のために空気銃を渡すか、他人の幸せのために返さないか。

 無論、紳士というものは他人に優しくするものである。いつ何時でも、正義を取るべきである。

 アルバは紳士である。

 すなわち、他人の幸せをとったということだ。

「ちっくしょう!」とエリックはバッタを床に叩きつけ、ポッケにもしまっていたのだろう二、三匹も放った。

 ついにミラが叫んだ。部屋の隅っこに走り去り「どうにかして! 早く!」とキンキン声で叫んだ。

 アルベールが慌てて捕まえようとするが、バッタは素早い。また人間の生ぬるい手に掴まったり、ポケットにぎゅうぎゅう詰めにされたくなかったのだ。

 逃げるバッタを青年二人は必死に取ろうとする。弟を追いかけてきていた使用人は疲れ果てて、取る振りをして座り込んでいた。

「にいちゃん、これをどうにかして欲しい?」

「して欲しいね! そっちに行ったぞ、アルベール!」

「机の上に乗せないで!」

「ねえ、にいちゃん」

「黙ってろよ!」

「もしも、バッタをとったらお願い聞いてくれる?」

「空気銃なら返さないぞ! 皆の幸せのためだ!」

「アルバぼっちゃん……!」

「俺は紳士なのだよ。くそ! 逃した!」

「空気銃じゃなくてさ」

「なんだよ!」

「課題、代わりにやってくれる?」

「なに?」

「そしたら、バッタくらい捕まえて放り出してあげるからさ」

「課題を? 代わりに? なに言ってるんだ、お前は」

「そんなこと言っていいの? まだ数匹入ってるけど」

「アルバ! 課題くらい私も手伝うから、さっさとその気持ち悪い虫を片付けて!」

「いや、でも、俺たちがやったら意味がないし」

「そんなことはどうでもいいのよ! 課題一つで将来なんか決まらないわよ。いいから、早く!!」と悲鳴に近い声を出した。

 エリックは、イタズラ小僧らしい嫌味な笑顔で「で、どうするの、にいちゃん」と聞いてきた。

「クソ、言いつけてやるからな」

「いいの? そしたら、ミラさんに迷惑かかっちゃうけど。手伝ってくれるんでしょ、ねえ、ミラさん!」

「手伝うから、早く、その虫を捕まえて!」

 エリックはにっこりと「で、どうするの?」と再度聞いた。

 兄は弟に負けるものである。常に上を取れると思っていると、案外とれなかったりする。

「さっさと海に帰っちまえ!」

「ヤリー! 持つべきものは、優しい兄と賢い兄貴の彼女だね! じゃあ、よろしく! 僕の課題は机の上だから。意地悪で僕がしてないってわかるようなことしないでよね。さあ、バートラムくん、数日、別の場所に泊まってからまた楽しいバカンスと洒落込もう! あ、お金はにいちゃんのから借りるね」

「は?」

「クラブのヘンテコな賭けで勝ったんでしょ?」と手を差し出した。

 アルバは震える手で勝った金を渡した。ここで素直に渡さなければ、飛び跳ねる緑色のモンスターを解き放つことだろう。その程度、長年、兄をしている人間ならば、考えなくてもわかることだ。

 エリックは、ミラが失神するか鼓膜を突き破るほどの悲鳴を出す前に、バッタを回収した。

 お札をひらひらと振りながら「それじゃ、よろしくね」とずる賢い悪ガキは去っていった。

 アルバもミラも叫びはしなかったが「一ヶ月は帰ってくるな!」と思った。


 2

 バカンス明けの学校で、アルバとミラのする話は、どこに行ってなにをしたかだとか、なにを買ったか冒険をしたかではなく、全てエリックという小賢しい猿のような子供に押し付けられた課題についてだった。

 ミラは弟がいなくなった途端に、協力ということはなかったことにしようとした。だが、アルバは、それを阻止した。一人で惨めったらしくやることはごめんだったし、そもそも、彼女が叫ばなければ、自分たちだけでバッタを捕まえて、清く正しい人間とするための教育ができたのだ。そう考えれば、ミラを金でつってでもさせる必要があった。

 そうして、彼らは解放されたはずの課題を黙々とこなし、日焼けしてさっぱりした顔で、なんなら一夏のロマンスさえあったエリックにうまいところをかっさらわれた。実に不愉快極まりなかったが、そのようなことを報告することは、二人の誇りが許さなかった。そのため、エリックはまんまとうまい具合に課題を、誰にも怒られることなくクリアしてみせた。

「おい、アルバ」と友人が「隣に転校生だってよ」と腕を引っ張った。

「金持ってるかな」

「そんなもん知るかよ」

「女子らしいな」

「本当に?」

「そういう情報ってどこから漏れてくるんだろうな?」

「ほら、田舎の村とかあるじゃないか。ああいうところで一つ噂ができると全部に広まる、みたいなもんさ」

「学校は小社会だもんな」

「最低な村社会さ」

「んなもんは、どっちでもいい。俺たちにとって大事なことは、かわいいかどうかって話さ。そうだろう、諸君」

「そうとも!」と紳士たちは声を揃えた。

「優しく優雅で気品があり、美人」

「ついでに金持ちだともっといい」

 その言葉に「いえてるなあ!」と全員がドッと笑った。

 しかし、件の転校生は別に金持ちではなかった。アルバのよく読むような資産保有率ランキングなんてものには出てこない。平均よりもちょっとお金を持っていて、土地代金だのアパートの賃料、その他祖父の印税、両親の月給という安定したものがあるくらいなものだ。

 とはいえ、そんなものは学校において、わりあい関係のないことである。

「きた!」とクラスの一人が「割といい」と顔の周りをくるくる指差した。

 紳士諸氏は、にっこりとした。特殊な性癖がなければ、綺麗な方が嬉しいものらしい。アルバは特ににっこりせずに「靴は綺麗か、爪は綺麗か、服にシワがどの程度ついていたか」という方を気にした。

「守銭奴め」と顔をしかめられたが、すまして「世の中は金なのだよ、諸君」と言った。

「いいかね、金というものは、人間と違って劣化というものを知らない。たとえ、暴落したところで金は金。あればあるだけいい。その点、容姿なんていうものを考えてみろ。お前らの理想としてるものなんてのは、いずれシワができ、シミが出て、いたるところが垂れてくる。理想は儚く散る。そして、お前らは嘆き悲しみ、女性諸氏も悲嘆にくれ、一生懸命にシワを伸ばそうとしてみたりする。まったくの無駄なのにだ。愛情なんていうものも年月とともに薄れ、使い古したタオルのようになっていく。しかし、金はしわくちゃだろうが擦れていようが、金は金で一定の価値しかない。すなわち! 金さえあれば、なにも問題はないのだ!」

 その場にいた紳士淑女は「なに言ってんだ?」という顔をした。

「金こそが世の中なのだ」

 アルバは、満足した顔で「そういうことだ、諸君」と自分の席に座った。

 守銭奴の言っていることはよくわからないが、転校生に湧いた人々は、冷静になり、そろそろ授業時間ではないか、と席につき始めた。


 昼食の時間になれば、アルバはいつもありがたいことに末っ子王子と一緒に食事を取ることになっていた。名誉なことだとわかっているが、彼は基本的に一人で食べたい派だったため、この昼休みの時間は常に憂鬱だった。もしも、両親や両陛下から「よろしく」と言われなければ、彼はきっぱり「俺は一人で食べたい派なんだ」と断っていたことだろう。

 嫌だなあ、一人で食べたいなあ、と思っていると、その末っ子がやってきた。しかも、人……さらに言うなら、女性を伴ってやってきた。アルバの表情は凍った。

 女性というものは、食事に集中したくても、妙な質問でそれを邪魔してくる。彼にとって、食事中の会話というものは、楽しむものというよりも、できる限り避けたいものであるから、苦痛でしかない。よく一緒に食事をするミラ嬢は、人間に興味が薄いため、基本的になんの質問もしないし、会話をする努力もしない。

 ともかく、彼は食事中は会話というものをしたくない人間であった。

 しかし、そんなことに、気づいていない王子は「待たせたね!」とさも当然のように、その女生徒と一緒に目の前に立った。

「誰?」

 と、まさか、三人とかいう微妙な人数で食事するわけじゃないだろうな? という目をした。

 王子は、ただにっこりとした。

「彼女はソフィア。今日、転校してきたんだ。仲良くしてやってくれ。彼はアルバ。僕の友達」

「はじめまして」と出される手を呆然とつかんで、握手した。

 この時、ソフィアの顔がぽっと赤らんだ。よくある話である。

 王子はそれに気がつかずに「一緒に昼食をとろうと思って」とラブラドールレトリバーのような笑顔を見せた。アルバは犬好きなため、その笑顔に弱かった。

「食堂?」

「うん。あ、転校祝いに奢るよ。な、アルバ」

「え、俺も?」

 笑顔で頷かれた途端、急に腹を抑え「あ、あいたたた、きゅ、急に腹が! 昨日、食べた肉が生焼けだったからかもしれない!」と言い出した。

「嘘はいけない」

「う、嘘じゃないぜ、カスバート。俺は、本当に痛いんだ」

「もしも、僕が全て出すと言ったら?」

「ましになってきた気がするな、薬を飲んでおいたのがよかったかな」と腹をさすった。

 それにクスクスとソフィアが笑った。

 アルバは、そのクスクス笑いに恐怖した。女の子らしいかわいらしいクスクスっぷりを見ていると、彼の嫌悪してやまないドラマチックで傷心的な恋愛要素たっぷりの小説を思い出すからだ。彼は断然ハードボイルド派である。卵もしかりである。

 カスバートはニコニコしながら、このクスクス笑いのできる愛らしい女の子を連れて、アルバを食堂へ引きずっていった。

 食堂は賑わっていた。その中にミラもいるし、アルベールもいる。基本、二人は一緒にいることが多い。

「さあ、どれにする? なんでもいいよ」と言うのに、遠慮しつつ、ソフィアは食べたいものを選んだ。

 アルバは、一番安くて量の多いものを選んだ。どれだけ他の美味しそうなものに気を引かれようと、彼はいつでも安くて多くてそれなりにうまい物を選ぶ。

 カスバートが、空いている席を探している間、ソフィアが色々と質問をしてきた。

「アルバさんのクラスって誰が担任なの?」

「テッド・バクスター先生」

「その先生ってなにを教えてるの?」

「歴史かな、たしか」

「たしかってなあに」とクスクス笑い、また質問を始めた。

 どうしてこんなに他人に興味を持てるんだ? 俺はまったく興味が出ないぞ。だから、質問もできないし、他人との会話も膨らませられないんだろうな、まあ、どうでもいいんだが。いや、それにしても、質問をこれ以上されても困る。疲れるから困る。

 と、思いながらも律儀に答え続けていた。

 今日は、久しぶりだからか、人が多く、席がなかなか空いていない。カスバートは、ないなあ、なんて言いながらキョロキョロし続けた。

 ありがたいことに、ミラたちの食事する席の近くで、立ち止まって探し始めた。

 しめた、と思って、彼はミラの方を見た。助けてほしいという思いが伝わったのか、彼女の方もこちらを見た。

 口パクで「助けて!」と言ったが、彼女はすまし顔でプイッと反らせて、食事を続けた。完全なる無視である。彼女も一人で食べたい派なので仕方がないことだ。アルベールが一緒に座っているのは、兄弟みたいなものだから、ノーカンなのだ。

 無理やり話しかけようとしたところで、タイミング悪く席を見つけてしまったらしいカスバートに「早く、早く」と手を引っ張られ、無駄に終わった。

「いやあ、とれてよかった!」と言うのに、同意しながら、後ろを振り返って「この冷徹女」と目だけで訴えた。それに対する彼女の答えは「ファック」であった。

「いつもは、二人でとってるんだけど、人が増えると増えるで楽しいね」

「そうだな」

「これから、私も加わっていいの?」

「加わりたかったら加わったらいいと思うよ、ね、アルバ」

「もちろんだとも」

「わあ、嬉しい! じゃあ、これからお邪魔しようかな」

「うんうん、しなよ」

「ははは、好きにするのが、一番いいと思う」

 アルバは心の中で「ぐう!」と唸った。

 本心では「頼む、一緒に食事なんてとろうと思わないでくれ。できれば、他の女子とかととってくれ。あと、本当なら俺もひとりで食事をしたい」と思っていたが、今まで培われてきた紳士的態度によって、逆のことを言ってしまっていた。

 彼は無論後悔していたが、顔に出さなかった。それこそが紳士なのである。いつでも、自分の本心を隠すから面倒になる。

 アルバは微笑みを携えながら、食事をした。

 カスバートは、その態度を見て、嫌らしいぞ、ということがわかったが無視をした。この男はもう少し他人に興味を持ち、世界を広める必要があると思っているからだ。

 食事が終わる頃には、アルバは疲れ果てていた。質問責めと無理やりにでも会話をしなければいけない雰囲気を、カスバートが作っていたからである。会話を放り投げてくるので、いちいちフォーク、もしくはスプーンを置いて喋らなければならなかった。

 疲労困憊のまま、彼はクラスに戻った。

 この時、ソフィアに「あ、隣のクラスだ」と言われ「いつでも遊びに来たらいいよ」なんて言ってしまったこともあって、ふて寝をした。もちろん、授業の間は起きていた。


 アルバは、食堂のことを抗議すべく、帰り際に、ミラを捕まえて「あの時、なんで助けなかったんだ」と小声で聞いた。

「いやだから」

「君は優しさを持った方がいいと思う。嫌だからっていう理由で、複数人での食事が苦手な人間を無視するなんていうのは、情がなさすぎると思う。非道の行いだ」

「でも、嫌なものは嫌」

「この冷徹女め。アルベール、君も助けてやろうと思わなかったのか」

「まったくもって思いませんでした」

「見てたでしょ?」

「申し訳ありません、食事に夢中でしたので」

「おいしいもんな、しょうがない」

「それより、もう行っていい?」

「待て。もしも、これからカスバートのやつが彼女を連れて来たら、また質問責めにあう」

「で?」

「俺と一緒に帰るという選択をすべきだと思う」

 ミラはかわいそうなものを見る目で「申し訳ないけど、時間がないの。やることがあるの」と断った。

「やることって?」

「やることはやることです。さよなら」

「嘘だろ! アルベール!」

「すみません、お嬢様についていなければいけないので。本当ですとも。さようなら、遠いところから応援しています」

「近くで応援しようぜ、な、アルベール」とすがりつくアルバにやんわりと「申し訳ありませんが、後方で応援していたい質なので」とすげなく帰ってしまった。

 見ていたのだろうカスバートが笑いながら「ふられたのか!」とソフィアと共にやってきた。

「振られたわけじゃない。ちょっとしたじゃれあいの延長だ」

「うんうん、そうだね」

「その目を止めるんだ。俺は間違ったことは言っていない」

「うんうん」

「やめろってば!」とじゃれる二人に、おずおずとソフィアが「あのう、先の女の子って?」と聞いた。

 アルバはキョトンとして「女の子?」となんの話だ、と友人に助力を求めた。

「ミラのことだね」

「あ、あれ」

「あれっていい方はいかがなものかと思う」

「いいんだ。あれはあれで。あれは、そう、なにをトチ狂ったのかできてしまった、男の人生においていつでも汚点となりうる墓標のようなものだ。恐ろしいことだ。なぜ、人生というものはこうもままならないのか。待ち受けているのはバラ色の黄金ではなく灰色の黄金。黄金は黄金で変わりはないが、できれば、独身のまま、黄金を愛でたい。ドラゴンだって、一匹で黄金を愛でてるじゃないか。そういう感じがよかった。だが、悲しいことに富が分配されれば、俺は箱にちょっとしか入っていない黄金しか愛でられなくなるのだ……。それがどんなに悲しいことかわかるか?」

「ようするに、婚約していらっしゃる方ということだ」

「言わないでくれ、悲しくなる」

「それは、好きではないのにってことだから?」

 アルバは憂鬱げに微笑んだ。

「別に好きとかそういうのではなく、そもそもそういうこと自体が嫌だからだ」とは言えなかったので、微笑むしかなかったのだ。

 そして、そうやって笑うものだから、ソフィアは勘違いをした。

 ほんの少しぽうっとなっている女子からすれば、まごうことなきチャンスである。だが、彼女は真っ当な感覚を持っていたため「だとしてもそのチャンスにすがるのはいけない」とぐっと気持ちを押し込めた。

「それって辛くない?」と聞くと、また微笑みを浮かべる。

 押し込めようとしていたものの、そういう顔をされると難しいものである。

「まあ、俺の話はいいじゃないか。別の話にしよう。な、カスバート」 

「露骨に変えたね。まあ、いいけど。あ、最近、中庭に猫がよく来てるらしいよ」

「ふうん」

「かわいいらしい」

「触りたいのか? 猫って引っ掻くぞ」

「かわいいじゃないか」

「理解ができない」

 なんてことを連中が言っている間、ぐるぐるとソフィアは考えていた。

 今時、そんな辛い思いをしてまでするっておかしくない? と。

 確かにそうなのである。普通ならば、そんなことはしない。だが、アルバは「彼女は金を持っている上に、ベタベタしてこないし、人に興味を持ってない。これしかなくないか!」とやってしまったのだ。

 彼の人生の中での最大の汚点だろうし、ミラにとってもそうである。なぜ、こんな将来性の薄いやつとしてしまったのだろうとさえ思っている。なにが二人をそうさせたのかと言えば、一言で言うなら「金」に尽きる。

 無論、世間から見て、歪んでいると言われることも十分に承知している。承知しているので、笑ってごまかすしかないのである。

 そのごまかしで、ソフィアも勘違いしてしまったのである。

 彼女は、真っ当な感覚で「それなら別れた方がいいのでは?」と思い始めた。

「どうして婚約してるの?」と急に聞いたので、アルバはうっかり「お金」と答えてしまった。

「お金?」

「いや、違う。友情……、そう! 友情で!」とごまかそうとしたが、無駄である。ソフィアは疑いの眼差しで彼を見つめた。

 嫌な汗が流れ「あ、お、俺、用事があるんでした。じゃあ、さよなら」と早口でまくし立てて、二人から離れていった。

 彼女はそれを見送りながら、カスバートに「あれって嘘じゃない?」と聞いた。

 カスバートはにっこり「友情はあるよ」と答えた。

 唸りながらも納得して、帰路についた。


 3

 アルバはソフィアが妙な勘違いからくる行動をとっていることに気がついた。

 ミラとアルバのことをよく知らない人がする勘違いであることは、今までの経験から、わかっていた。その際に、一番簡単な方法は、お金を渡して、それっぽい振りをすることだ。

 二人とも、お金を渡されれば、割合すんなりと言うことを聞いてくれる。

 アルバはミラの家に赴き、ソフィアという女の子から、いつものよくある勘違いをされていることを説明した。何回か、無償で協力して欲しいことをほのめかしてみたが、それについては、一つも触れずに「かわいそうに」と言われただけだった。

「それで?」とミラは雑誌を開きながら「どうして欲しいっていうの?」と聞いた。

「巷によくいる鬱陶しい景観を汚すようなカップルの真似をして欲しい」

「私、景観保護に対して興味を持っているの。おわかり?」

「いくらだ?」

「なにが?」

「いくらで、景観を汚す協力をする?」

「汚す? 汚すよりも保護に対しての協力をしたいわね」

「言い方が悪かったかな」

「そうね、悪かったと思うわ」

「でも、実際、お互いしか見えてないような連中は景観を汚してるとは思わないか? いたるところで家にでもいるみたいな振る舞いをして。なあ、アルベール!」

「さようですな」

「だろうとも! そういや、お前っていたっけ?」

「残念ながら、春に双方の認識の相違により別々の道を取ることにいたしました」

「なるほど。ところで、ミラは知ってたのか?」

「恐れながら、そこまでプレイベートに踏み込むのは、たとえ兄弟のような間柄だとしてもいたさないことだと思われますが。アルバ様は、エリック様がお付き合いなさっているとして、話されるとお思いになられますか?」

「まったく」と少し想像して「断じて弟は俺に言わないだろう」ときっぱりと答えた。

 それに頷き、アルベールはにっこりとした。冷たい笑みである。

 アルバは、一つ咳をして「まあ、とにかく、俺は困っているわけだ」と本題に戻した。

「あ、そう」

 その冷たさに頭を抱えて唸り始めた。アルベールは、そっとチョコを目の前においた。

 チョコを口に含みながら、訴えかけるような目つきでミラを見つめ始めた。

 彼女には、便秘気味にも関わらず食事に来てしまい、急に腹痛が襲ってきた顔にしか見えなかった。

「わからないかな、君は」とため息を吐かれ、ムッとして「その気持ち悪い見つめ方じゃ便秘気味っぽそうなことしかわからないわね」と返した。

「ご心配に感謝するが、俺はいつでも健康だ。いいたかったのは、面倒になる前に、どうにかして勘違いをなくしたい、ということだ」

「はいはい」

「君も、困ることになるんだぞ!」

「例えば?」

「たとえば? 例えば、その、見栄っ張りだから、おごってしまってお金を使ってしまうとか?」

「なるほど。それは、困るわね。でも、私、今まで仕方がなくそういう協力をしてきたけど、はっきり言って、やりたくないのよね。アルベール、あなた、やる?」

「は、なにを?」

 ミラはにっこりと「この紳士の恋人のふり」と言い放った。

「申し訳ありませんが、お断りします。自分にも好みというものがあります」

「残念ねえ。それじゃあ、以上、話、終わり」

「終わり?! 終わりだって? 冗談じゃない。こんなに困っているのに、見捨てるっていうのか!」

 彼女は申し訳なさそうに「その言い方は、不適切ね。見捨てるんじゃなくて、ひとりでどうにかできるように成長して欲しいのよ。お分り?」と言った。

「もしかして、弟の課題で怒ってる?」

「まったく」

「嘘だ、怒ってるんだ!」

「そんな、まさか」と笑ってみせた。

 実際は、怒っている。

「とにかく、成長するチャンスだと思うの。私、応援してる」

「応援じゃなくて、協力をして欲しい」

「さ、アルベール、このお坊ちゃんをお外にお連れして。少年よ、大志をいだいて大海へ出よ! さよなら!」

「待て! 待つんだ、ミラ! アルベール言ってやれ。お前は俺の味方だろう? なあ!」

 腕を引っ張られながら、嘘くさい申し訳なさそうな笑みで「大変申し訳ないのですが、大方の場合、お嬢様の味方をしております」と言った。

 アルバは、眉間にシワを思い切り寄せ、鼻先にまで広がった顔で「いつもじゃないか」と言った。

「雇われているものですから。さあ、お車までお連れいたしましょう」

 いやだ! と叫んだところで、なんの意味もなさなず、アルバは車に放り込まれた。

「おかえりなさいまし、坊っちゃま」

「ただいま。ホーテンス、無駄だった。あの冷徹女め」

「さようで」

「人生はままならぬな。仕方がないからクラブの方に行ってくれ」

「かしこまりました」とホーテンスはハンドルを回した。


 彼のよく行くクラブには、すでに人がいて、昼寝をしていたりカードゲームをしていたり、この世にはなんの憂いもないような顔をしている。

「ようアルバ、浮かない顔してるな」

「そうだろうとも、聞いてくれるか?」と目の前の友人が頷く前に、自分の苦境とミラの冷たい対応を長々と話し始めた。

 始めはちゃんと聞いていた友人ではあったが、途中から飽きてきたのかマティーニをちびちびやりながら、適当に頷くようになっていた。

「そんなわけでだ、俺は大いに困っているのだ」

 なるほど、と友人は頷き「最初からお金を見せてみたらどうだ?」と言った。別に話しをきちんと聞かずとも、ミラとの間のあれそれは大抵の場合、金銭、もしくはそれ相等の物で解決できることだと知っていた。

 アルバはハッとした。

「俺は、どうしてそれに気がつかなかったんだ!」

「本当にな」と二、三度ばかり相談に乗ったことのある友人は深く頷いた。

「ありがとう友よ。だが、今日行くのは体裁が悪い気がするので、後日にする。……ところで、いくらくらいいると思う?」

「そんなの知らん。今までので考えればいいじゃないか。それより、聞いたか、フレディが振られたって話」

「またか! 今回はどうして振られたんだ? 面白い話か?」

「特に面白くはないな。だが、同情には値する。やつが熱をあげてたのが、昆虫学者だか保護団体だか、そういうのだったのは知ってるか?」

「流れでふわっとは聞いてる」

 うん、と友人は頷いて、フレディがなぜ振られたのか話してやった。実に哀れな話であった。具体的にどこがどうとは言えないが、いつでも振られる話というのは、同情を誘うものなのだ。

「そうして、やつは振られたんだ」

「なんてかわいそう……」とアルバは同情した。それから、二階にいるという話を聞いて、フレディにチョコレートをひとかけあげた。

 フレディは「そこはほんの少しでもいいから、お金では?」と言ったが、きっぱりと「そういうものは、金銭では癒されないのだ。チョコだのの甘いものか、もしくは辛いもので癒される。今日は甘いものでもたっぷり買って、ベッドで食って寝るといい」と断った。

 かわいそうなフレディは、それが確かに一番だと、さっさと家に帰った。

 アルバもしばらくの間、クラブに滞在して、家に帰った。

 そして、後日、金銭とそれ相等に当たるものを持って、ミラを訪ねた。

「これが目に入らぬか!」と挨拶もせずに頭上にお金を掲げた。

 ミラは目を輝かせて「入るわ」と言った。

「それじゃあ、俺のお願いを聞いてくれるね?」

「うーん、話によるわね」と目はずっとお金に向かっている。

「どこにいても家の中にいるみたいにしている頭上はいつでも春まっさかりの分別のない奴らのような真似をして欲しい。面倒はごめんだ。妙な勘違いをなくすために、協力をお願いしたい」

「うーん」とじっと黄金色のものを見つめて唸り始めた。

「ちなみにこれ以上出せと言われたら、協力してもらうのは諦めるよ」

 その言葉で、ミラは微笑んで「協力をしないなんて、そんなわけないじゃないの」と黄金色を持っている手を握った。

「ありがとう! さすが、優しいね」

「そんなことないわ」といいながら、黄金色を掴んでいる手をどうにか引き剥がそうとした。

 アルバもアルバで守銭奴なものだから、なかなか気持ちに反して手を外すことができない。二人はにこやかに醜い争いをした。

 十数分の争いの末、やっとミラの手元に渡り、二人は協定を決め、握手をした。

 少しお茶をしてから車に戻ってきたアルバは「ホーテンス! やったぞ、俺はあの女に協力させることに成功したのだ! ああ、偉大なるかな、黄金色のブツ」とにこやかに言った。

「ようございました」

「実にな。手放してしまったのは惜しいが、どうせ墓場に行ってしまえば俺のものになるのだ。なにも惜しむことはない。だろう、ホーテンス」

「さようで」

「そうだろう、そうだろう。気分がいいから、ゆっくりと帰ってくれ」

「かしこまりました」

「ホーテンス、今日の夕焼けは実に美しいな。いつもこうだったっけ?」

「はい、しかし、今日はひときわ美しいようで」

「ううむ、天候まで俺を祝福しているな、ふふ」

「さようで」

 アルバは終始、気持ちの悪い笑い声を出しながら過ごした。


 4

 世の中はままならないことが多い。

 悲しいことに、彼の思い虚しくソフィアは一緒に食事をとり続け、無論おしゃべりもたんまりとした。この間、ミラに賄賂を渡したので、どうにかなるだろう、とたかをくくっていたが、予想以上になにもしようとはしない。

 やはり、信頼できるのは金銭と男の友情だ、と思い、それとなくカスバートに一緒に食事をとることが、そろそろきつくなってきたぞ、ということを言ってみたが、それも無駄に終わった。

 それも仕方がない話だ。世間一般から見て、ソフィアのおしゃべりは、常識の範囲内でとどまっているのだから。

 アルバはうんうん唸って、いつもならば行きたくもないし、行く必要もないミラのクラスに、しぶしぶ向かった。この現状をどうにか打破して、まだ少しは安寧の残る食事をしたかったのだ。おしゃべりで常に口が疲れ果て、表情筋がなにもないのにピクピクと痙攣するようになってきた今、いやだとか、そういうことは言っていられない。

 彼はまずアルベールを呼び出し、ミラをクラスの外に出すことに成功した。

「おい、例の件はどうなっている」

「例の件?」

「あれだよ、あれ! 外もお家作戦」

「なにそれ。わかる、アルベール?」

「この間おっしゃっていた、勘違い云々の話かと」

「ああ、あれ。それがどうしたの?」

 アルバは、思わず髪をかきむしった。

「限界だ、限界なんだ。俺は一人で食べたい派なんだ。カスバートはもういい。やつとの食事には、もう慣れた。だが、ありがたくも厄介な感情を持っておしゃべりをされるご令嬢との食事は、胃がキツキツするんだ、わかるか、わかってくれ」

「それで?」

「俺、お前に賄賂を贈った。だろう?」

「賄賂という言い方は語弊があると思うわ。協力金じゃないかしら」

「そんなものはどっちでもいい。とにかく、その協力金を渡したんだから、その金額分は俺のために働いてくれ」

「はいはい」

「働いてくれるんだよな?」

「もちろんよ。明日から、しょうがないからやってあげるわよ。まったく、一人で対処できるようにしたらどうなの?」

「今、君の嫌味を聞く余裕はないんだ。あばよ、マーマレードちゃん」

 ミラは後ろ姿を怪訝な目で見ながら、自分のクラスに戻っていった。


 翌日から、お金をもらったからにはきっちり仕事をするミラは、アルバが望んだ通り、景観を汚しにかかってくるカップルのように振る舞い始めた。アルバもありがたがって、それに乗っかった。

 だが、本心では、二人とも嘔吐寸前であったし、もし、顔色に出ていたなら、緑色にでもなっていただろう。人がいなくなった瞬間に、お互いに顔を背け、なんて嫌なことをし始めてしまったんだ、と後悔の渦に度々捕まることも少なくなかった。

 ありがたいことに、その作戦はうまくいき始めていた。アルバは友人から「なんと言っても、結局、お前は面食いなんだ。ミラ嬢と仲良くな」と肩を叩かれ、ミラはごく少ない友人から「頭でもうったって言われたら納得できるわ。人間、顔じゃないっていうのを、正気になったら思い出してね」と言われた。

 このようにうまくいっていたのだが、ソフィアも含めた五人で食事をした際に、カスバートというあまり他人のことを考えないバカ野郎が「君たち、そんなに仲が良かった? 前は冷めた関係じゃなかった?」と言ったのだ。

 慌てて、言い訳をしたのだが「それだけで、こんな風になるとは思えない。気持ち悪いぞ。なんかに頭いじられた? それともぶつけた?」と怪訝な顔で二人を見つめた。 

「カスバート、よく聞け。人は時にどうしようもない感情が溢れ出す時がある。人類の神秘というやつだ。わかるか? それによって、今までの人類は繁栄してきた、そうだろう?」

「今更?」

「時間や過去は関係ない。今だ、友よ」

「まあ、そういうなら、一応納得はしておくけど……。念のために聞いておくけど、君、アルバ?」

「当たり前だろ。俺はどこからどこまでもアルバというお前の友人他ならない」

「で、君がミラ嬢?」

「それ以外になにに見えるの。ねえ、アルベール」

「さようで」

 カスバートは、訳のわからない、といった表情で首を傾げ「本当に、そうだっていうなら、まあ、別にあれこれ言わないけど……」と言った。

 このやりとりのおかげで、ソフィアは二人の仲というものを疑い始めた。

 そもそも、婚約に関して後悔しているとさえ発言していたのであるから、疑うのも当然のことである。

 カスバートの発言によって、いよいよ彼女は「別に好き合っているわけでもないのにそういうフリをしているのでは?」と考えるようになった。

 女性は時に探偵のようになる。しかも、一番厄介なことに、小説に描かれる天才無敵な探偵よりも、素晴らしい直感と抜け目なさによって事件を暴いてしまう。

 ソフィアも、二人の真相にたどり着いてしまったのだ。

 脇の甘い、犯行というものに対して才能のひとかけらもない哀れなアルバは、全くもってバカなことに、廊下で金銭の受け渡しをしていた。ミラは「こんなところでしようっていうのは、あんまりにもバカじゃないのか」と思っていたが、ソフィアとどうこうなることは恐らくありえないだろう、とその場で黙ってポケットにねじ入れた。

 ソフィアは、その場面と、ミラの不愉快そうな芋虫を見つめるような冷たい表情を見て、これはお金を使って振りをしているぞ、ということにたどり着いた。彼女はすぐさまクラスに戻って、これからどうするべきか考え始めた。

 その間も、二人は不毛な話をダラダラと廊下でしていた。

「いいか、ミラ」

「なによ」

「この金でもう一ヶ月は粘れ」

「はいはい」

「俺には、お前が必要なんだ。だからこその投資だ、わかるな?」

「はいはい」

「明日からも俺とお前は景観保護とは正反対の蛮勇なる男女だ」

「最悪」

「そう言ってくれるな。全ては俺のためなのだ。そして、ひいては君のためになる。そうだろう?」

「そうは思わないけど。あのね、ありがたいから、言わないでおいたけど、さすがに鬱陶しいから言わせてもらうわ。自分で断れば?」

「は?」と怪訝そうな顔でミラを見つめた。

「俺に、断れと?」

「そう」

「なんの気持ちも伝えられていないのにか?」

「もしかしてだけど、とかそういう枕詞使って、自分から行きなさいよ」

 ありえない! という表情をし、腕を振り上げ「勘違いだったら恥ずかしいじゃないか!」と言った。

 その一言で、彼女は芋虫を見る目ではなく、つぶれた道端のミミズでも見るような目をした。

「あなたって、本当に最悪最低のクズ野郎だわ。資産額以外にいいところが一つもない、最低の間抜けよ」

「一つ訂正させてもらっていいか?」

「どうぞ」

「顔も悪くない」

「私には、魅力のかけらもないけど、世間一般を鑑みれば、そうかもしれませんわね。ところで、本当にご自分で解決するという方法はないのかしら? できそうなものよね、ねえ、アルベール?」

「ごもっともなことで」

「じゃあ、君は自分で解決ができると?」

「できますね」

「どうやってするんだ?」

 アルベールは、明確にバカにする表情をした。

「友人に、気持ちを聞き出してもらい、確実にそうだとわかれば、自分からその気はないとほのめかしますし、それでダメであれば、きちんと言葉にして、自分で断ります。失礼ながら、アルバ様のようにわざわざ金銭で誰かに頼むような真似をすることではないかと」

「ぐうっ!」と顔を覆い「その手があったか、クソ、金を無駄にした」と唸った。

「あなたって本当に救いようのないバカね。私、自分の将来が心配だわ。ねえ、アルベール?」

「さようで。しかし、財布の紐の固さという点では、お眼鏡にかなっているかと」

 ハン! と鼻で笑うと「それだけよ」と言い放った。

「とにかく、この金額はもらいましたから、一ヶ月はちゃんとフリをしてあげる」

「クソ……。だが、まあ、最初から面倒を回避することができると考えると妥当だ。俺は断って、わざわざ女性の気持ちを傷つけたくはないのだ、紳士だからな。そういうことだから、まあ、その金は手元において、今まで通り蛮勇なるカップルのフリを続けてくれたまえ。俺は、校内を散歩して気分転換をする」

「本当にあの人ってバカだと思うわ」

 そのつぶやきに、そっとアルベールは頷いた。

 校内をぶらぶらと散歩するアルバは、ミラに差し出したお金を考えて悲しい気持ちになっていた。

 だが、彼はアルベールのように自ら進んでお断りをするような、一般男性的勇気を持ち合わせてはいなかった。金銭面においては、黄金時代の海賊や荒くれ者に真正面からぶつかっていけるような情熱的な勇気を持ち合わせていたが、それ以外に対しては虫以下のものしかない。

 それを考えると、あの金銭は確かに妥当なものだと言えよう。

 彼は憂いながら、人のほとんどいない裏庭の雑草の少し生えている花壇に腰を落ち着けた。

「アルバさん」

 突然の声に、彼は飛び上がって、そちらを見た。

 いたのは、ソフィアであった。

「あ、ああ、君か」

 彼女は、強い意志を持った足取りで近づき、ぐっと彼を見据えた。アルバは、澄ました表情をしていたが、内心はビクビクしていた。

「私、みちゃったの」

「え?」

「ミラさんにお金を渡しているところ」

「あ、ああ、あれ。あれ、あれね、さっき、確かに、そう、渡したけど、それが?」

「いけないと思うの」

「え? なにが?」とごまかそうと笑ってみたが、まったくの無意味であった。

「お金を渡してフリをしてもらうっていうのは」

 アルバは固まって言葉を発せなかった。ただ、口を半開きにして気持ちの悪い笑みを浮かべるしかできなかった。

「ミラさんの顔、とても嫌そうだった。ああいうのをするってことは、お互いにそういう気持ちがないってことでしょう? それに、以前、あなた自身が嫌がっていたと思うの。婚約っていうものは、家族間のこともあるだろうけど、一番大事なのは本人の気持ちじゃないかしら」

「あ、ああ、うん」

「たぶん、私に断りを入れるためだと思うんだけど」

「そ、そうなんだ、そう……」

 ソフィアは悲しそうな笑顔をして「確かに、そういう意味合いで好きよ」と言った。

「あ、ああ、うん、ありがとう。それで?」

「それで、まあ、私の気持ちはさておき、ミラさんとの関係よ。お互いに気持ちがないのにっていうのは、とても歪だと思うの。まだ、私たちは若いし、十分に考える時間があるわけでしょう? こういう関係を続けるのは、もうちょっと考えてみた方がいいんじゃない?」

「いや、たしかに、そうかもしれないけど、そのー……、ほら、親がね、見栄があるというか、やっぱり心配があるとかで、その、いた方がいいと、そう考えているんだ。だから、そう簡単には、その、できないわけだ、わかってもらえる?」

 なるほど、と彼女は深く頷いた。それを見て、ほっと胸をなでおろしたのもつかの間「それじゃあ、私は?」と言われ、アルバは笑顔で固まった。

「失礼、なんだって?」

「ご両親が、そういう心配をするんだったら、私は? さっき言ったように、私はあなたのことが好きだし、一方しかないわけだけど、今の関係よりも健全なんじゃないかしら」

 その場できっぱりと断れればいいのだが、そのようなことは期待できない。金銭以外のことでは立ち向かうことが些か苦手なのだ。それになにより、目の前にいるのはうら若き乙女であって、その気持ちを傷つけるような真似は紳士としてできかねることであった。

 ソフィアは、はつらつとした希望あふれる笑顔で「どうかしら」と言った。

 行動派で不撓不屈の精神を持ち合わせている彼女は、断られた程度で落ち込みはしない。

「あー、それは、その……」とちらっと顔を見て「持ち帰って検討させていただきたく思う」と言った。

 実に最悪な返答である。

 ソフィアは微笑んで「それじゃあ、待ってます。でも、本当に金銭だけの関係って良くないと思うわ」と去っていった。

 アルバは呆然と空を見上げた。それから、ブルリと震え「どうしよう」とつぶやいた。

 全ては、本人の最悪な返答のせいである。あそこできっぱりと、今の所、その気は皆無である、と告げればよかったのだ。

 彼は自分を抱きしめ「今日は、もうふけよう」とふらふら学校から出て行った。もちろん、アルベールに、後で自分のカバンを持ってきてもらうことを頼むのは忘れなかった。


 5

 ソフィアの提案に対して震え上がったアルバは、ミラに相談しに行った。

 本当のところは、相談するまでもなく、己で「申し訳ないが、提案は飲めない」とさえ言えばいい話だ。

 彼は沈痛な面持ちで、ミラの向かいに座り、しばらく黙っていた。

 これは、運転手のホーテンスからのアドバイスである。

「思い悩んで黙っているように見せれば、少し同情されますし、話すべきか話さないべきかとても迷っているというのは、話を聞きたくなりますし、自分への気遣いを感じさせて、多少、ハードルを下げさせますよ」 

 アルバは、感激に打ち震えながら、礼を言った。

 しかし、その作戦はまったくもって意味をなさなかった。なぜなら、彼女はそういう気遣いとか気持ちとかにかけらの興味もなかったからだ。悩む間があるならさっさと話せばいいし、その内容でどうするかすぐに決められるし、無駄に時間を浪費するなんて真似は嫌いだった。

「ミラ……」と憂鬱な表情で顔を上げ、子犬のような目で見つめた。

 彼女には、蜜を奪われてジタバタする虫のような顔にしか見えなかった。

「なに」

「そう冷たい対応をしてくれるな、心に傷を負う」

「あ、そう。で、なに? さっきから黙り込んで気持ち悪いわね、さっさと言ったら?」

「お前、本当にそういうところだぞ。だから友達が少ないんだ」

「で? なんなの? なにか仕返したいと思っているなら、そういう方法は無駄よ。私、友人の少なさに引け目を感じたこともないし、多さで決めつけてくるような人間は大嫌いなの。知ってるでしょうけど」

「知ってるし、俺も少ない」

「じゃあ、なんなのよ。はっきりして」

「俺の完璧な作戦は無駄に終わった」

「完璧だと思ってたの? あれが?」とアルベールの方を見て「ありえる?」という表情をした。アルベールは、静かに首を振った。

「金銭でフリをしていることがわかられてしまったんだ。なぜわかられたのか、不思議だが……、まあ、バレたものを後からあれこれ言ってもしょうがない。ともかくだ、ミラ、恐ろしいことに彼女は「そういう関係はいけない」と言ったんだ」

「当たり前ね。ねえ、アルベール?」

「そうですね。普通ならば、金銭でそういうフリをするような関係は、問題があるように思われます」

 アルバは、深いため息をついて顔を覆い「確かにそうかもしれないが、俺たちの関係性を鑑みると……、いや、それだとさらに問題があるように」とブツブツ言い出した。

「アルバ、それで、いけないって言われてなに?」

「それで? そこからが恐ろしいんだ!」と震え上がって、己をかき抱き「彼女、そんな不健全な関係はやめて、自分とはどうだって言ったんだ!」と叫んだ。

「断ったんでしょ?」

「その前に、君への気持ちはないって言ってあるんだ」

「で? だから、断ったんでしょ、その提案を」

 力なく横に振るのを見て、ミラとアルベールは同時にため息を吐いた。

「馬鹿ね、本当に最悪なくらいに馬鹿よ。普通断るでしょ。申し訳ないけど、それはできないとかって」

「俺は紳士だ。紳士はそんな風にきっぱりと断らない。うら若き女性の気持ちを傷つけたりはしないのだ。なあ、アルベール!」

「さようで。しかし、時には毅然とした態度も必要かと。そういう時にあやふやな態度をとることは人間としてどうかと」

 同じ男であるアルベールからの拒否に「乙女だぞ!」と驚き、目を見張った。

「いいですか、乙女も女性です。我々のよく知るお強い女性も昔は乙女なのです」

「どういうこと?」

「きっぱり断っても、なんの問題もないということです」

 アルベールは、微笑み、このどうしようもない青年を哀れむように「問題はまったくもってないのです」と再度言った。

「よく理解できた、ありがとう」

 男たちの会話が終わるのを待っていたミラが「断れずにどうしようって言いにきたの?」と親切に聞いた。

「そう! それで、俺は考えたわけだ。断ろうにも彼女の目は意志が強そうで、気持ちが砕かれそうになるので、君に申し訳ないが断ってもらおうと」

 今度こそ呆れた、という表情をして、彼女はなにも言わずに立ち上がった。従者もさっとドアを開けた。

 この程度のことは、アルバでも予想はできていた。そのため、彼は遺憾ながら、最終兵器である弟をつれてきていた。

 ドアが開いた瞬間、エリックが「こんにちは、ミラさん!」と元気に言った。

「あらまあ……」とこの小賢しい子どもが苦手なミラは二、三歩ドアから下がった。

「この間は課題を手伝ってくれてありがとう。無事に提出できたよ」

「そ、よかったわね」

「ところで、話を聞いたと思うけど、うちの兄貴が困ってるみたいなんだ」

「そうみたいね」

「それは僕じゃ解決できないことでしょう?」

「そうね」

 エリックはにっこりと「未来の夫を助けるっていうのは、将来、家庭を、例えば兄貴とじゃなかったとしても、持つときに役立つと思うんだ。違う?」と聞いた。

「そうかもね」

「じゃあ、ミラさん、元の席に戻ってもらえる?」

 彼女は冷たい笑顔で「自分で解決するっていう方法があると思うの。どいてもらえるかしら?」と一歩進んだ。

「話は変わるんだけど、最近、猿を買ったんだ。猿って言ってもでっかくなるやつじゃなくて小さいまんまのペットとして飼える猿ね。今、車の中にいるんだけど、帰るときに、もしかしたらうっかりお屋敷の方に離しちゃうかもしれないな。なにせ猿だからね、イタズラしちゃうんじゃないかな、どうしようもないやつ」

 まぶたをピクピクと痙攣させながら「少し喉が乾いたわ」とミラは席に戻った。

 エリックは「僕もかわいちゃったな」と入り込んだ。おかげでまぶただけではなく、口元も細かく痙攣した。

 アルバは勝ち誇った顔で「猿、見るか? かわいいぞ」と言った。

「結構よ」と鬼のような鋭さで言い放った。

「そう? 残念だな」

「で、なんなの? 何して欲しいって?」

「ソフィアに断って欲しい。あと、諦めさせてほしいんだよ。わかる? 彼女は、諦めない性格してると思うんだ。俺から断っても、希望を持ち続けちゃいそうな、そんな感じ。これから、先、自分が金銭以外に興味を抱ける気がしないし、もし、彼女が希望を持ち続けるとしたら、酷い仕打ちだと思うんだ。だから、君に頼みたいわけだ。なにも、俺に意気地がないから頼んでいるわけじゃない。はっきりと、そうすべき理由があるからお願いしてるんだ。誓って本当だ」

「話しを聞く限り、そういう諦めなさそうな雰囲気してるから、にいちゃんの言ってることは妥当だと思うよ」

 エリックはちらっと兄を見て「それに、考えてみてよ、この押しに弱そうな顔。諦めるものも諦められないよ」と付け加えた。

「たしかに、そうかもしれないわね」

 すかさず「そうだろう? そうだろうとも! もちろん、こういう面倒なことを頼むんだから、それ相応のものは用意してある」とお金を机の上に出した。

「これで、頼めるよな」

 本来ならば、もう少し上げたいところではあったが、彼の横にいる弟の存在を鑑みて、彼女は頷いた。猿を家に解き放たれてしまえば、しっちゃかめっちゃかにされる可能性が大いにある。さらに言えば、未だにギャング映画の影響下にあるらしい少年のポケットに空気銃が入っていた。悪く行けば、猿だけでなく、この小さなギャングが大暴れする。それだけは避けたかった。

 怒りと悔しさで眉を吊り上げながら「もちろんよ。むしろ、そんな気遣いをいただいて、ありがたいぐらい」と受け取った。

 アルバはにっこりと「そうかい、金銭は逆に失礼だったか、申し訳ない。ともかく、受けていただけて大変嬉しいよ、ありがとう。それでは、いい結果報告を待っている」と弟の手を引きながら部屋から出ていった。

 彼女は思わず閉まったドアに向かって靴をぶつけ「アルベール! あのクソ忌々しい兄弟が、ちゃんと家から出て行くかどうか見送ってきて! もし、出ていかないようなら実力行使に出てしまっても構わないわ!」と怒鳴った。

 一礼して出て行こうとする背中に向かって「猿と空気銃を絶対に出させないでよ!」と付け加えた。

 見送りに出たアルベールは、きちんと仕事をした。

 狙いやすそうな使用人を見つけて、空気銃を取り出そうとするのを「失礼ながら、無差別に攻撃するというものは如何なものかと。もしも、されるおつもりであるならば、こちらもそれなりの反撃にでなければなりませんが?」と阻止をし、面白くなさそうな顔をするエリックに「ギャングスターというものは、意外と礼儀をわきまえているものですよ」と諭して微笑んだ。

 エリックは、このとき、はっきりと「この執事はあの三人の中で一番まともだぞ」というのがわかった。

 平和に兄弟と可愛い猿を見送ったアルベールは、肩を回して、今頃怒り狂っているであろう主人の気をなだめに向かった。


 後日、ミラはさっそくソフィアを、人のいない裏庭に呼び出した。

「はい、これ」と彼女はアルバから渡された金銭の一部をソフィアに差し出した。

「え?」

「これで、諦めてもらえない?」

「なにを?」

「アルバよ」

「受け取れない」と押し返して「そういうのはどうかと思う」と言った。

「それに、気持ちって買えるものじゃないと思うの。もし、買えたとしても、きっと最後には耐えきれなくなってしまって、意味をなさないんじゃないかしら?」

「そうかもね」

「だから、受け取れないわ。それに、私、困ってないし」

 ミラは彼女の手を掴んで、その上にしっかりと金銭を置き「困ってようが困ってなかろうがどうだっていいの。このお金は、双方同意したって意味のお金だから、買うのとはちょっと違うのよ、おわかり?」と高慢そうな眉をわずかに上げた。

 非難の目つきでソフィアは彼女を見つめ、手を離そうともがいた。だが、案外力の強い彼女から手を外せそうになかった。ミラは涼しい顔で目の前の少し赤い顔を見つめた。

「アルバから話は聞いたわ。私たちの関係はいけないんですってね? 自分でもそう思うわ。本来なら、ベタついたロマンスを経てするものなんでしょうけど、残念ながら、私も彼もそういうものに対しての興味と関心がゼロなの。金銭以外へ持てないの。本当なら、こうやって断りを入れるのも、あのバカの仕事だけど、あのクソ軟弱男は私に頼んだわけ。まあ、はっきり言えば、正気に戻った方がいい。あれはまごうことなき結婚してはいけないタイプの男よ」

「だとしても、それは今現在の話でしょ」

「ソフィア……、現実を見て。あれが二、三年で変われるとでも? 絶対にないわ。断言する、ない」

「じゃあ、どうして婚約なんかしてるの?」

「お金」

 ソフィアは目頭を押さえた。

「彼に将来くっついてくるだろう、金銭と邸宅と土地が欲しいの」

「うん、なるほど」

「それで、あなたに諦めてほしい。そのために用意したお金を受け取って、お互い良いお友達でいましょうってことで終わりたいの」

 ミラは抵抗する力がなくなったのを感じて、手を離した。

 手に置かれた金銭を見て「やっぱりこれって倫理的に正しくないと思うんだけど」と言った。

「そうかもね」

「うけとったら諦めるってことでしょう?」

「そう」

「いけないことだと思うんだけど」

「私も、常識っていうものはわかってるわ」

「それに諦め切れるかどうかって別だと思うわ」

「そうね」

「結婚とか婚約とかって金銭だけの話じゃないと思うし、絶対に破綻すると思う」

「そうね、私もそう思うわ。だから、将来的には別居という形をとっておこうと思ってるの。一応、計画は練ってあるから心配ご無用よ。まあ、彼以上に資産をお持ちになっている方が年齢を鑑みていらっしゃれば話は別だけど。でも、今のところ、いい関係性を築いていると思うし、破棄はしないと思うわ」

 お金と冷たい美貌を交互に見ながら「とりあえず、受け取っておく」と言った。

「それなら、結構。ところで、印税ってどれぐらい入ってくるの? 私、ずっと聞いておきたかったのよ」

 ソフィアは苦笑して「あなたが男性じゃなくてよかったと思うわ」と言った。

「どうして?」

「そしたら、私、多分、あなたのことを好きになってたと思う」

 ミラはにっこりとして「でしょうね。商才を発揮して大金持ちになって、生涯独身で楽しく暮らしていたと思うわ。でも、女だからって起業しちゃいけないなんて法律ないから、私はやるわ。お金をもっと増やして楽しく暮らすの」と言った。

 それに隣は大笑いして「本当にどうして婚約なんかしてるの? 私に譲らない?」と言ったが、ミラはきっぱりと「もうしわけないけど、安定って大事だから」ときっぱり断った。ソフィアはまた笑って「一緒にお茶しない?」と近くの喫茶店に仲良く向かった。


 さて、女の友情が出来上がり、大団円と行けばいいのではあるが、そうはならなかった。

 ソフィアは、今日のことなどを考えて「やっぱりおかしいのでは? もう少し考える余地があるのではないだろうか」と思った。まだ、諦めきれていないのもあるが、二人の幸せというものを考えたら、少し考えてみるべきなことのように思えた。

 そうは言っても、これを一人で解決できる気はしない。

 なので、彼女は学内で一番仲の良いカスバートに相談しに行くことに決めた。


 6

 ミラから報告を受けたアルバは安心しきっていた。

 これで全ては解決され、また、いつも通りのなんでもない生活が続くに違いない、と考えていた。ミラの方は「一応」と言っていたので、そう簡単に解決はしないだろうと思っていた。

 女性陣の会話を目の前で見聞きしていたアルベールも、沈黙を守ってなにも言わなかったが、内心「あれだけ常識があって良識のある方のことだから、確実にいびつさを直そうとするだろうな」と思っていた。

 三人の中で、唯一アルバだけが安心していたのである。

 そうして、意気揚々と登校したアルバは、放課後まで呑気だった。

「今日はソフィアがいないようだな。久しぶりの二人だ。男二人というのは、なんと清々しいことか。そうそう、クラブの友人がデートをすっぽかされたと思ったら、それは勘違いだったって話はしたっけ?」

「それはしらないな。ところでアルバ、近くに美味しいレストランができたそうなんだ。ケーキが美味しいらしい。僕はそこに行きたい。ついてきてくれる?」

「もちろんだとも、友よ。俺は今最高に気分がいい。ケーキで祝いたい気分なんだ」

「じゃあ、さっそく向かおう」

 ということで、二人は清潔感のあるレストランに向かった。

 そこには、先客としてソフィアがいる。カスバートは彼女から相談を受けた際に、じゃあ、食事をしながら相談してみよう、と約束したのだ。

 前々から、己の友人の金銭オンリーで繋がる婚約なるものは、少々不適切なのではないか、と思っていた。そういったことは、お互いをわかりあい慈しみあうような関係性であることが前提に立つべきだと、彼自身は思っている。

 しかし、今までは、二人がいいならと、その関係に口を出そうとはしなかった。

 そこに、彼女からの相談があり、今がタイミングなのだろう、と悟ったのである。

 ケーキが運ばれ、カスバートはある程度まで場がほぐれるのを待ち「ところで、ソフィアから相談を受けたんだが」と発言した。

 アルバは体を固め、目だけを動かして友人を見た。

「お、俺は、彼女と、そういうようなことになる気はないぞ」

「多分、君の思っているような相談じゃないよ」

「なに?」と恐る恐るフォークを置いた。

「ミラさんとおしゃべりをした時に、関係をもう少し考えてみるべきだと思えた、と言っていた。僕としても、今まで突っ込まなかったけど、考えてみたらどうかと思うな」

「俺は破棄なんかしないぞ」

「どうして?」

「もしも、俺が関係を清算したとしよう。そうすると、俺は、未来に手に入るはずだったものを失うわけだ。付け加えるとお互いに現状が一番と考えているのにだ。それをわざわざ失う意味があると思うか? 俺には思えないね」

「確かに、君みたいな守銭奴にとってはそうだろうね」

「だろう? 俺は金に生きる男なのだよ。ミラは冷徹女だが、将来稼ぎそうだし、頭も回る。うちの弟の方が悪知恵は働くが、彼女以上にそうそう金銭的に頼りになる人はいないだろうし、彼女じゃないと困るわけだ。あと、普通に両親がめちゃくちゃ気に入っている」

「なるほど」

「母上が気に入っているという点で察してほしい。俺の母のことは、よく知ってるだろう? あれと戦う勇気はない」

 カスバートは、彼の母親が一睨みで背骨を折ることができる女傑だということを考え、深く頷いた。

「それじゃあ、以上で話し合いを終わろう」

 二人はにっこりとケーキにフォークをさそうとしたが「待って」との声で口に含むことは叶わなかった。

 声の方を見て、アルバとカスバートは固まった。

「あのね」と彼女は隣り席から椅子を借りて、テーブルについた。アルバはぶるっと震えた。

「ミラってとってもいい子だと思うの。はっきり物を言うし、感情に流されないし、わりと面白いし。それに、なにより夢を持ってる。その夢を考えると……彼女は安定がほしいって言ってるけど、必要ないと思えるの」

「ちょっと待ってくれ。失礼だが、君になんの関係が?」

「友人という点で関係がある。確かにお金も受け取ったし、一応諦めるっていうことで同意したけど、気持ちって、そううまいこといくわけじゃないと思うの。それに、本当に私、ただ心配というか、そういうのは将来的に危ういんじゃないかしら、と思って」

「心配とご忠告、実に痛み入る。が、俺の答えは決まっている。申し訳ないが、ノーだ」

 ソフィアは頷いて「あなたの答えはよくわかった。ミラさんに、もう一度聞いてみるわ」とケーキを一口食べ颯爽と出て行った。

 二人は顔を見合わせとにかくケーキをやっと食べれることを喜んだ。


 後日、珍しくミラがアルバの邸宅にやってきた。

 彼女は考え込んだ様子でコーヒーを飲み、お菓子を食べた。

「どうしたんだ?」と怪訝そうな顔でミラを見て、後ろの従者を見た。

 アルベールは答えられるものの口をつぐみ、曖昧な笑みで見返すだけにとどめた。

「この間、ソフィアとご飯食べたの」

「ふん、友人が増えてよかったじゃないか」

「そうなんだけど……」

「そうなんだけど?」

「私に安定は必要ないんじゃないかって」

「は?」とコーヒーをこぼしかけ「な、なんだって? それってどういうこと?」と慌ててソーサーに置いた。

「一度、離れて考えるべきじゃないかって。正直、今までは、必要だと思って、婚約状態でいたけど、ソフィアの話を聞いてるとだんだん実はいらないのでは? と思い始めてきて」

「なるほど?」

「どう思う?」

「どう思うだって?」

 アルバはもう一度「どう思うだって?!」と叫んだ。

「なにをバカなことを言ってるんだ! ありえない! 例えば、君が事業を始めるとしよう。わかっているだろうが、お金がかかるわけだ。君のご両親がたとえ融資をしてくれた所で、本人も会社を持っている。すなわち、上限もあり、おじさんは君に似て冷血でシビアだから、なにか期待に沿わないだろうと思われれば、減額、最悪融資をしなくなる。そうだろう?」

「そうよ」

「その場合、君が安定した資産を持っているか、いないかは重要なことになる。銀行に借りいく場合、きちんと返してもらえるかどうかがあっちにとって重要なことだ。その際、安定したものがあれば、安心して融資するだろう。そのために、俺が将来的に受け継ぐ資産が必要なわけだ、わかるな?」

「わかってるわ」

「君の商才は、よくわかっているつもりだ。わかっているからこそ、こうやって、人類の不幸の始まりである婚約なるものをして、墓場へまっしぐらな準備をしている。だが、未来は常にわからないものだ。なにかの弾みで突然落ちるかもしれないし、うまく行き続けることなんかは、皆無だ。思い出せ、俺たちはお互いに将来の金銭的メリットがあるから婚約したんだ。破棄するということは、そのメリットを失うということだ。たとえ、他にいい相手が見つかったとしても、うまいことここまで漕ぎ着けられるかは、賭けになる。君は賭け事が好きか?」

「嫌いよ」

「じゃあ、答えはすでにわかっているはずだ」

 ミラは、少し感心した様子で頷き「そうよね」とクッキーをつまんだ。

「私、ちょっとどうにかしてたみたい。よく考えたらそうだわ。ありがとう、正気に戻れた。金銭的なものに関してだけなら、あなたってやっぱり頼りになるわ。危うくギャンブルしちゃうところだった。あぶない、あぶない」

 アルバはホッとして椅子にもたれかかり「そんなにソフィア嬢の話はうまかったのか」と聞いた。

「たぶんね。どうかしら、アルベール?」

「お上手でしたよ。さすがお祖父様が小説家なだけはありますね」

「あなた、どうして正気に戻させてくれなかったのよ」

 アルベールは清々しい笑みを浮かべて「なに、破棄をなさったところで、私には関係ありませんし、なによりもどちらであろうがお仕えする気でしたから」と言い放った。

 いたく感動した彼女は、思わず手を差し出し「信頼できるのはあなただけだわ」と言った。

 堅い握手をした主従は、微笑みあって、互いの絆を再確認した。

 その間、アルバはウィスキーを飲みながら「ソフィア、危険な女だ」と窓の外を睨んでいた。


 さて、ミラは一度正気に戻ったものの、度々ソフィアに意見されて「やはり破棄をすべきなのか」とアルバに聞きに来るようになった。

 さすがに危機感を覚えた彼はソフィアに「これは我々の問題であるから、立ち入らないでもらおうか」と言った。しかし、彼女はきっぱりと「確かにそうではあるが、友人として心配なので意見させてもらう」と断った。

 地団駄を踏んで、アルベールに会わせないように頼み込んだが「お嬢様の数少ないご友人を減らすなどという残酷なことはできかねます」と突っぱねられた。しかも、協力金を差し出そうというのにだ。

 こうなったら、ヤケだ、とカスバートに「頼むから、あのお嬢さんの真っ当なるご意見と考え方を押し付けないように言ってくれ」と頼んだ。彼は、にこやかに頷き、一度だけ「押し付けはいけない」と言っただけでそれ以降はなにもしようとはしなかった。

 アルバは、部屋でウンウン唸って、この現状を嘆いた。

 おかげで、睡眠薬と胃薬を使うようになった。案外繊細なのだ。

 さすがに心配になった悪ガキエリックは、いたずらを控え、兄の話を聞くようになった。おかげで両親と使用人たちは大喜びしている。

 ついにストレスによって熱が出たアルバは病院に行くべく、弟と一緒に車に乗っていた。将来の不安を感じながら鈍色の空を眺め、ため息を吐いた。

「にいちゃん、大丈夫?」

「大丈夫なように見えるか? 俺は常に満身創痍だ。ソフィアの華麗なる弁舌のおかげで、俺の将来の基盤ががたつき始めている。もしも、彼女との婚約がなくなったらどうしよう……」

「そんなになくなって困るんだったら、もういっそのこと結婚しちゃえば? ねえホーテンス。これが一番手っ取り早い解決方法だよね?」

 運転手は、困った顔で「確かに手っ取り早いですがね、お年というものを考えるといささか時期尚早な気がしますね」と言った。要はやめておけ、と言いたいらしい。

「ホーテンス、君は結婚してたよな? 参考として、結婚というものについての見解を聞きたい」

「見解と言いましても、個人的なものですが……、そうおっしゃるならお話しましょう。私にとっては、幸運なことでした。試練も間々ありましたが、概ね良い結末で終わりました。結婚した時期は遅く、お互いにある程度自立もしていましたし、経験も積んでいましたから、そうなったのかもしれません。しかし、まあ、相性というものなのだろうと、今では思いますね。……これで、どうでしょう?」

 アルバは天井を睨みながら「うむ、なるほど、ありがとう。早すぎるといけないと思うか?」とまた質問した。その後も、いろいろと結婚や生活に関する質問と回答が飛び交い、家に帰り着いてベッドに伏せる時には「よし、しちまえ」と決心していた。


 アルバはやるとなれば、行動は早い。

 さっそく、病み上がりの朝食の席で両親と弟に「ミラとの婚約の件だが、結婚に関して、五年後という話だったけど、早めて今月にしようと思っている。それについては、後日話を双方で合わせてしたい。いいだろうか? それと、今から、不愉快ではあるがプロポーズなんていう薄ら寒い真似をして来るのでよろしく」と言い放った。

 両親はポカンとして、平然とサラダを食べる息子を見つめた。エリックは「やっぱりね」とつぶやいて、ベーコンにフォークを刺した。

 両親に宣言し、服装を整え、彼女の好きそうな金銭相等のアクセサリーと花束を買い揃えて、邸宅まで向かった。

 車の中で、ぐちぐちと「ソフィアさえ、意見するのをやめてくれれば、俺はこんな不愉快な真似をせずに済むのに。だが、彼女はやめそうにない。一回でも離れる選択をしない限りはやめないだろう。クソ、あのお節介め。墓場に入るのが早まってしまった」と頭を抱えてうなだれた。

 ホーテンスは、なにも言わずに、ただ車を走らせ「今日はプロポーズするのにいい陽気だ」とつぶやいた。

 邸宅についたアルバは、迎えに来た使用人に「大変申し訳なく遺憾に思っているが、プロポーズしにきた。ミラのご両親に、約束は五年後のはずではあるが、急遽しなくてはならない理由ができてしまった、と言っておいてほしい。そして、すべからく迅速にミラにあわせてもらおうか。パジャマだろうが、なんだろうが関係ない。今すぐにだ!」と言い放って、彼女の部屋まで案内してもらった。

 突然やってきたアルバに、ミラとアルベールは驚いた。

 しかも、いつもよりさらに上等な服を着て、花束と高級ブランドの包み紙を持っているのだから、かける言葉も失った。

 アルバは、不機嫌そうな顔で、彼女に花束を押し付け、本当に嫌で嫌でたまらないという表情のまま、跪き、指輪を見せた。

「結婚してくれ、という前に、言っておきたいんだが、これは俺の意思であって意思じゃない。ソフィアのおかげで、君が破棄するかどうかと迷い始め、いずれ、本当に正気を失って破棄なんていうバカな真似をしでかそうな気がするので、いっそのこと事実を作ってしまおうと、やってきたわけだ。俺としても、本来ならば五年と言わず七年でも伸ばしたかったところなのだが、君がもしも正気を失うことがあってはいけないと思って、最低最悪ながら、申し込みに来た。こんな不愉快極まりない、墓穴へ自らダイブする真似なんかしたくなかった。本当は、もっと寝心地のいい墓場にしてから入る予定だったのだが、墓穴を埋めようという不埒な輩が出て来てしまったので、こういうはめになっている。それを、まずわかってほしい。そして、それを理解した上で聞いておくが、結婚してくれるな? してくれないというのは、困る。俺はこれ以上ストレスを増やしたくない。君がいつでも正気でいられる可能性が高いのであれば、俺もこんなバカな真似は今すぐやめる」

 ミラは、思わずアルベールの方を見た。

「お嬢様、お返事をなさった方がいいかと」

 彼女は迷いに迷ったあげく指輪を取り、苦痛に満ちた表情で薬指にはめた。

 婚約者だった二人は、どちらも苦痛と苦悶と憂鬱な表情で、お互いを見つめあった。

 真新しい指輪を眺めながら、彼女は辛そうに「お受け、するわ」と言った。

「ありがとう。俺もホッとした。とても最悪な気分だが、ストレスがなくなると思うと嬉しい。感謝する。後日、擦り合わせをするので、改めて連絡しよう。俺は、もう帰る。多分、また寝込むことになる」

「私も多分寝込むわ。とっても最悪な気分。足で芋虫を踏んづけたみたいな感じ」

「君が、正気を保っていられたら、こんなことにならなかったはずだ」

「悪いと思ってる。でも、本当にソフィアの話ってすごいのよ、魔法がかかってるみたいに、そんな気がしてくるのよ」

「そうか。俺には、まったくわからない。とにかく、これで、しばらくはおさらばだ。ソフィアもさすがにこうなってしまったら、素晴らしい弁舌を披露することもなくなるだろう。あばよ、イチゴケーキちゃん」

「さよなら。アルベール、かわいそうだから送って差し上げて。私は寝込む」とトボトボ絶望を肩に乗っけたようにベッドに戻っていった。

 アルベールは言われた通り、見送りに向かった。

 げっそりと、先ほどの数分でやつれたアルバは「アルベール、お前、どう思う?」と聞いた。

「なにがでしょう」

「俺がバカな真似をしたかどうかだ」

「それは、もう少し経たないとわからないかと思います。ただ、思っていらっしゃるよりも、なんでもなかったことになるかもしれませんよ」

「どうして?」

「あなた方の関係が、そうそう変わるとは思われないからです。それに、世間の既婚者が嘆くのは、恋愛関係があってのものですから。それがなかったとしても、己の問題か、相手のことをよく存じ上げないせいでしょう。それを考えると、お二人は条件に合致せず、少なくとも世間のような最低最悪の墓場になることはないかと」

「アルベール、お前はいいことを言った。寝込み終わったら、お前にいいものをやる。あと、一緒に酒でも飲みに行こう」

 にっこりと頷いて「楽しみにしております」とやってきた車のドアを開けた。

「じゃあな、アルベール。ちょっとは希望が持てた気がするよ」

「なら、よかったです。それでは、お大事に」

 窓から力なく腕が振られ、それは見えなくなるまで続いた。

 アルベールは、見えなくなったあと、振り返し「さて、旦那様と奥様に説明に向かうか」と苦笑した。


 プロポーズの後、双方の両親が病み上がりの子供を連れて、結婚についての話し合いをした。火花の散る双方の両親の目の前でアルバは、詭弁だろうがなんだろうが反論をうちくだき、熱意ある口調で最終的に結婚の二文字を勝ち取った。

 二人はやけくそだったのもあって、迅速に書類を揃え、提出するものは提出し、判のいるものには判を捺し、念のためにお互いの意思確認を済まして、無事に夫婦ということになった。

 アルバは、結婚したという書類を見つめて、悲しくなったが、ソフィアと未来の資産のことを考えて「いずれなるものが早くなっただけだ」と心を慰めた。

 夫婦になったことを知ったカスバートは大笑いしながら、祝福し、クラブで盛大に結婚祝いをすることを約束した。

 ソフィアの方は、驚きで固まりながら、双方の気持ちというものを確かめた。お金目当てだというのに、失神しそうになりつつも、祝福の言葉を贈り、現在は意見することを控えると約束した。だが、いずれはなにかの意見を言うだろう。

 ともかく、二人は不幸なことにか、幸運なことにか、それともただたんにタイミングが早まっただけのことだか、結婚してしまったのである。

 今のところ、双方、結婚に関して後悔の渦に巻き込まれている真っ最中であるが、アルベールの言った通り、そのうちなんでもなかったことなのだ、ということに気がつくだろう。


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