前編
うり造は夜が明ける前に家を出た。家の畑で収穫したみずみずしい白うりを、竹かごいっぱいに入れて肩に担ぐ。いわゆる棒手振りと呼ばれる野菜売りだった。早足で二時間強歩くと大きな城下町につき、木造家屋の合間をぬって、うり造は「うりはいらんかねぇー、うーりぃー」と声を張り上げるのだ。
暑い夏は白うりのみずみずしさと甘さが重宝され、うり造がうりを売り歩くと「ひとつおくれ」と多くの声がかかる。昼までには概ね完売だ。そして城下町で少々買い物をして自分の村に帰るのが、うり造の楽しみでもあった。
ところがだ。このうり造、少しばかり頼りがない。勘定が苦手だわ、あちこちで道に迷うわ、気が小さくてお人好しだわ。おまけにうりの代金として、使い道のよく分からないモノをもらったりする。隣人としては優しくて良い若者なのだろうが、商売人としてはダメダメだし、旦那にするにはいささか不安がある。というわけで身内や仲の良い友人からはよく心配されていた。今朝も「うり造! 今日はちゃぁんと売っておいでよ!」と気の強い母からさんざ言われていたのだった。
「……あれ。ここ、どこだ?」
どうやらうり造はまたやってしまったらしい。朝日を背にしていつもの街道を歩いていたはずなのに、気づくと全く知らない場所にいた。うり造はたまにこういう事がある。方向感覚が悪いという訳ではないのだが、ぼーっとして歩いていると「ここどこだ」となる。
濃霧の中、いっぽん道を進んでいたはずだ。分かれ道も無いし、うっかり山の中に入ったつもりもない。本当ならば山の生え際に沿った街道を歩いているはずなのに、なぜかうり造の目の入るのは禿げた茶色い丘。山どころか木も田畑も無い。乾燥した空気は肌をパリパリと焼き、太陽は真昼のような位置にある。
「……また、迷った」
うり造はガクッとうな垂れた。
◇
しがない地方都市から更に三十キロ程離れた田舎町。見渡す限りの田んぼ。奥に連なる青々とした山。そこに一台の車がやってきた。のろのろと道端に車をとめ、降りてきたのは一人の男だ。ぱっとみ三十代くらいだろうか。名を田端と言った。職場の制服であるねずみ色の工作服はだいぶ着古してある。先日台風の暴風域に入ったため、収穫前の稲の様子を見に来たのだった。
「特に問題なし」
車によりかかり、ポケットから出した煙草に火をつけるとゆらゆらと立ち上がる紫煙をぼんやり見つめていた。夏場よりだいぶ日が落ちるのも早くなってきて、太陽は山々の合間に沈みこもうとしている。辺りはオレンジ色に染まり、トンボがあちこちに飛んでいた。
「……りー……」
どこからか声が聞こえてきた。かぼそい男の声だ。田端の周りには東西に走るアスファルトの一本道、その両側にある田んぼだけだ。他に何もない。だから人や車が近づいて来るのなら直ぐに遠目から分かる。
(だれか人がいたか?)
まあ気付かなかっただけかもな、と独りごちた。だが、少し離れた場所から聞こえるはずの声に、妙に違和感を覚えた。確かに遠くから聞こえるのに、同時に頭の中に直接響いてくる感覚もあったのだ。はきだした煙草の煙を目で追いながら小首を傾げる。声はだんだん近くなる。
「うーりー……うりはいらんかねぇ……」
なにやらその声に悲壮感がただよっており、田端はなんのこっちゃと思いながら聴いていた。移動販売かなんかだろうか。焼き芋にさお竹はよく聞くが、「うり」とはどういうことだろうか。考えはしたが、田端は目をつぶり、自分は関係ないとばかりに煙草を楽しんだ。
「うう、……うりー……ぐすっ」
間近に迫ったかぼそい声はついに泣き出した。そしてついに田端の目の前に声の主が現れたのであった。長い髪を高い位置でテキトーにくくった頭。時代錯誤なうす汚れた着物。着物と言っても江戸時代の農民が着るような簡素なものだ。素足にわらじをはいており、肩にかついだ天秤棒の先には竹かごがぶら下がっている。
「ぐすっ、もうだめだ、疲れたぁー……!」
田端の目の前に現れた謎の男——うり造はそう言うと、その場にへたり込んでしまった。田端はギョッとして目を見開いた。思わず指の間から煙草を落とす。
明らかに普通ではない。現代において出で立ちがマトモでない。リアル志向の農民コスプレか、映画のエキストラかだ。しかし仮にそんな奴だとしてなぜここにいる。コスプレ会場も映画の撮影現場もこんな所にある訳がない。
しばし固まった田端であったが、我にかえった彼はおずおずと男に声をかけた。
「……おい、大丈夫か」
彼の顔は怖い。眉間に寄ったシワと三白眼で非常に人相が悪い。趣味の悪いスーツでも着ようもんならそこらのやくざ者より迫力がある。熊のような体格も相まって、子どもは泣いて遠のく田端であるが、外見に反して実は面倒見のよい、よすぎるほどの性格であった。明らかに不審な人物でも、見過ごせるわけがない。——顔が災いして世話を焼く前に逃げられる事も多いが。
農民コスプレスタイルの痩せた男、つまりうり造は半分泣いたような顔で田端を見上げた。とたんに目に入るのは熊かと見紛う大きな身体と鋭い顔つき。普通なら尻もちのひとつでもつきそうだが、最初からアスファルトに尻をついているうり造は、なぜか目をキラキラさせて田端に見入った。
「……あんた、将軍さまみたいだなぁ」
男前だなぁ、とまで言ってから慌てて手で口を抑える。本当に将軍さまだったらとんだ無礼ものだ、と後悔したのである。
田端はさして気にするふうでもなく、他人から見たら凶悪な人相をずいっと前に出した。きっと相手がうり造ではなくただの学生だったら財布を差し出していただろう。
「なあ、不思議な格好してるが、役者さんかなんかか?」
「やくしゃ? おれは、あいの村のうり造だよ。うり助んとこのせがれで、うり売ってる」
「そうか……」
と言うものの田端はよく理解できていない。しかし見れば見るほど田端はうり造が気になってくる。擦れた着物にホコリまみれのボサボサの髪。乾いた泥を頬にひっつけ、見るからに食が足りてなさそうな細っこい身体。そのわりに人懐っこそうな笑顔。
日ごろ田端がくすぶらせている欲求に火がついた。
(んんーーああーー世話をやきたいーー!)
その気持ちを押し隠すためにまた顔面に力が入り、厳つさが増した田端。
あったかい湯船に浸からせてやりたい。
きれいで気持ちのよい服を着せてやりたい。
それから湯気のたつ白飯と味噌汁と漬け物を出してやって、魚の塩焼きにポテトサラダ、おひたし、酢のもの、冷奴とあとはフルーツに食後の緑茶——
だがここでそんなこと言おうもんなら気持ち悪いうえ、警察沙汰だ。田端は常識と客観的視点をわきまえている。疲れたというならどこか近くまで送ってやろうかとも考えたが、それすらこのご時世許されたものではない。
その時だった。
ぐきゅーぐるるるる。
うり造のうすい腹が飯をよこせと虫が鳴いている。
「将軍さまぁ……おれ、はら、へった……」
そう言うとうり造は目を回してアスファルトにひっくり返ったのだった。