ABCD包囲網崩壊・日中終戦
特には無いですが、またやたらと長く書いてます。
5月10日。
ビルマ等の日本が制圧したアジア各国の独立を知ってインドではイギリスからの独立を望む独立運動が激しくなり、更に日本は「欧米が占拠していた植民地を我が軍が国軍が制圧すれば戦時だけの進駐を条件に必ず独立させる」と、宣言した。
この宣言を発表してから二日後に日本陸軍の将校二人が国民政府の蒋介石を訪れていた。
その将校とは、岡村安次大将・樋口敬七郎少将の二人であった。
彼らの目的は日中終戦であった。
大本営としては中国との戦闘は勝利できたとしてもドイツが占領したフランスの様に対ゲリラ戦を展開されることは目に見えており、貴重な戦力を対アメリカ・イギリス戦にだけ投入したいと思っていたのだった。
そして、日本が中国に対して出した終戦条約の日本側が提示した内容は以下の通りであった。
1、日本は終戦後中国に対して支那事変以後の損害を賠償する。
2、満州等の日本が中国より奪った土地を返却する。
3、中国人捕虜を条約調印後速やかに返還する。
4、日中平和条約を結ぶ。
この四つであった。
蒋介石は当初この四つの提示を日本が中国の油断を誘う為の罠ではないかと思った。
なぜなら、新型の戦車等を豊富に持っており、更に有利な立場にある日本がこのような中国に有利な条約を提示するのは普通はありえないからである。
だが、この条約は一方的に押されている中国にとってはこれ以上は無いというくらいの有利な条約であった。
そこで、蒋介石は、「3の捕虜の返還を条約調印前に行なってもらいたい。でなければ政府の官僚達を説得出来ない。」と言った。
もし、返還を拒否されれば罠である可能性が高いと判断したからであった。
逆に言えば返還するということは条約がある程度信頼できることにもなる。
岡村中将と樋口少将は、蒋介石がそういうであろうと予測しており、大本営に報告・承認を得ずに「3の捕虜の返還をすぐに実行します。その後に条約交渉を再開しましょう。」と言って支那軍令部に戻って行った。
蒋介石は二人が帰った後に、共闘をしている共産党の毛沢東にこの条約の内容を知らせて、「国民政府はこの条約で日本と終戦するのに異論は無い。」と伝えた。
だが、ソ連から支援をしてもらっている毛沢東はこれに対して、「共産党としてはこの条約は受け入れられない。」と言った。
ソ連は満州への進出を狙っていたからだった。
そして、5月12日に捕虜の返還が開始されたのを知った蒋介石の国民政府は日本と終戦条約を結んだ。
それを知った毛沢東は、国民政府に対して攻撃を開始した。
それに対して蒋介石は対日戦闘に回していた残存部隊を持って対抗した。
日本も条約にある日中平和条約を理由に、蒋介石の部隊指揮の最終判断の権利を渡して中国戦線の部隊の3分の一を送った。
これらの部隊によって共産党軍は総崩れとなった。
こうして、日本は中国と終戦をし、中国はようやく内紛を終わらせることが出来たのであった。