ビルマ攻略後半戦・真の大東亜共栄圏
ようやく用事も片付いてきたので更新できました。
これからは又しばらくの間、今までと同じペースで書くことができると思います。
セイロン島沖の航空戦から3日後の4月1日。
南遣艦隊空母艦載機を含む航空隊の支援の下、第三軍と第十五軍が、北部ビルマ攻略の為に進撃を開始した。
第三軍はビルマ北西方面を攻撃、第十五軍はビルマ北東方面を攻撃することになっていた。
第十五軍は進撃開始6日後にトングーに到達し、それから5日後にはメイクテーラまで到達した。
第三軍も開始13日後にアキャブ・エナンジョンに到達した。
英軍部隊は居たものの、日本軍の進撃を知ると戦わずに逃亡するものが多く、殆ど激しい戦闘は展開されなかった。
そして、4月15日に第十五軍はマンダレー攻略に向かった。
進撃は順調で、マンダレー目前にまで迫ったが、その時、蒋介石が援蒋ルートの遮断を阻止すべく派遣したビルマ軍団が第十五軍の右側面に攻撃を仕掛けた。
突然の攻撃で第十五軍は大混乱に陥った。
英軍の反撃が殆どなかったので油断していたところを突かれたのだった。
ビルマ軍団の攻撃は激しく、第十五軍は機甲戦力の15%、歩兵部隊の20%を消失した。
第十五軍はメイクテーラまで後退しようと、後退を開始したが、ビルマ軍団は執拗に追撃を行った。
だが、ビルマ軍団は日本軍航空隊の激しい猛爆撃で一部の部隊が壊滅状態に陥った為、追撃を諦めた。
航空支援のおかげで何とかビルマ軍団の追撃から逃れることができた第十五軍は17日に再度の攻撃を仕掛けた。
ビルマ軍団はこれに抵抗、熾烈な戦闘が繰り広げられていた。
19日になってもビルマ軍団の抵抗は衰えることは無かったが、20日にシンガポールから到着した第十八師団と第五十六師団がラシオを占領すると、補給路を失ったビルマ軍団の反撃は衰えてきた。
更に22日に第三軍がビルマ軍団が第十五軍に釘付けになっている間にマンダレーを占領、戦力の半数をマンダレー防衛に残して、残りをビルマ軍団の背後から攻撃させるとビルマ軍団は混乱に陥り、各個に撃破されるか、降伏した。
そして、5月4日にはビルマ全域を制圧した。
6日にオンサン達との約束通りビルマの独立を日本は承認して、オンサン達は「戦争終結後に日本軍は撤退する」という条件で日本軍の進駐を認めた。
そして、大本営はスイスを経由して7日に世界に向けてビルマ独立を発表した。
その頃にはフィリピンの攻略も終了しており、フィリピンも日本は、戦時の間だけ日本軍の進駐を条件に独立させた。
その他、日本軍が制圧したアジア各国は次々と独立を宣言していった。
ここに、大東亜共栄圏がただの大義名分の絵空事ではないことが世界各国に知れ渡ることとなったのだった。