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シンガポールに日章旗は翻る




陸戦の殆どを省略してしまってます。出来れば次位にはなんとか一部くらいは書けるようにしたいと思ってます。

12月14日。

マレー沖の戦闘で英東洋艦隊を壊滅させた海軍に負けじと陸軍は進撃を開始した。

上陸した第二十五軍がシンガポールに向けて進撃を開始する。

その中には新型の3式戦車と4式戦車の姿があった。

激しい豪雨の中3式戦車と4式戦車を前面に押したてて第五師団は英軍を撃退していった。

その進撃速度はすさまじく、英軍が日本軍を阻止してみせると豪語していたジットラ陣地をたったの2時間で突破するほどであった。

その一番の理由は新型戦車の3式・4式両戦車と豊富な航空支援であった。

3式は50ミリ主砲であったが、自動装填技術を実用化できていた為、速射砲並みとまではいかないが連続砲撃で敵陣地を吹き飛ばし、4式戦車は75ミリ砲で、配備されていた英軍戦車を寄せ付けることなく破壊していったのだった。

そして、敗走していく英軍部隊に追従してその先の陣地にも突撃を行なった。

そのおかげで、31日にはクアラルンプールに到着するまでに至る。

イギリス軍は鉄橋を爆破したりして進行速度を遅らせようとしたが、日本軍工兵隊の奮戦によって数日で修復されていた。

年が明けて1月21日ジョーホル・バルに突入した。

マレー半島での戦いはここで終わったのであった。

同月29日に第二十五軍は部隊を整備し、ジョホール海峡を渡河して、シンガポール島に上陸した。

そして、2月2日にはブキッ・ティマ高地を占拠した。

英軍はその後3日間抗戦を続けたが、水源の破壊によって抗戦を続けることが困難になり、同月6日に降伏した。

こうして、攻撃開始から54日でマレー半島とシンガポールを占拠することに成功した。

更にその20日後には、同時に行なわれたオランダ領東インド攻略作戦「蘭印作戦」も終了した。

このことに欧米諸国は大いに驚き、「東洋の電撃戦」と呼び、日本軍がドイツ軍並みの戦車を保有していることを知った。

2月24日に殆ど無傷の状態のシンガポールに小沢中将の南遣艦隊が到着し、その二日後には一度本国に戻って再編成された第二艦隊が到着した。

その中には、第一機動艦隊の翔鶴・瑞鶴と、改装を終えた長門・陸奥、後部に飛行甲板を備えて奇妙な艦型になった扶桑・山城の姿があった。


戦艦長門型(第二次近代化改装後)

排水量41,000t 速力29、45kt

武装 45口径41センチ連装砲4基8門。

九二式40口径12,7cm連装高角砲10基20門。

25ミリ連装機銃20基40門。

同三連装機銃30基90門。

航続距離10、900浬。

搭載機数3機。カタパルト1基。


航空戦艦扶桑型(大改装後)

排水量40,500t 速力27,5kt

武装 45口径35,6センチ連装砲4基8門。

九二式40口径12,7cm連装高角砲8基16門。

13ミリ四連装機銃8基32門。

25ミリ三連装機銃30基90門。

航続距離10,800浬。

搭載機数22機。カタパルト2基。

扶桑型戦艦が航空戦艦になった理由は次に書きます。

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