特殊局地戦闘機雷光出撃!
結構長いです。ちょっと読みにくいかもしれないです。
5月14日。
6ヶ月もの間である程度修理されたパールハーバーより、空母エンタープライズ・ホーネットを含んだ艦隊が出航した。
12日に中国が日本と単独で講和したことを知ったルーズベルトが、連戦連敗と中国の単独講和で士気の下がっている合衆国軍兵士達の自信を取り戻そうと前々から作戦立案されていた、未だどこの国もなしえていない日本本土への空爆を実施する為に編成されていたものであった。
司令官は冷静沈着なスプルーアンス提督が抜擢されたが、彼はその作戦を聞いた時「空母の増産が出来ていない以上、日本側に数で劣っている空母は温存すべき。」と反対したが、さすがのスプルーアンスも大統領からの命令には逆らえなかった。
空母二隻の艦上には陸上爆撃機Bー25(16機)が所狭しと甲板上に並んでいた。
この16機を率いるのは作戦を立案したドゥリットル中佐である。
彼が作戦立案したときは中国が日本と終戦条約を結んでいなかった為、中国への着陸が可能であったが、今は不可能になっている。
元々生還は殆ど望めない作戦を立案した彼ではあったが、「最低限の帰還も無理では実施すべきではない。」と考えて作戦実施を中止すべきと直訴したが、スプルーアンスと同様に彼も命令を拒むことは出来なかった。
そして、出航してから6日後の5月20日。
日本本土より1200マイルの所でB−25が全機出撃していった。
その頃日本では、三日前に伊26からの報告でアメリカ空母部隊の接近は知っており、迎撃態勢は整っていた。
当初は陽動作戦ではないかと思われたが、「艦上に航空機多数を確認。」と伊26の第二報が入り、陽動作戦ではないと判断された。
そこで、いつに空爆が開始されるか計算して、「23日が最も可能性が高い。」と判断されたが、現在呉には改装中の空母も含めて正規空母だけで6隻もおり、「たったの2隻だけで通常の空爆に来るのはおかしい。何か奇策があるのではないか?」と山本長官が源田大佐に考えられる策を考えさせたところ、源田大佐は、「航続距離の長い機体での生還を考えない一撃離脱爆撃を行なうつもりなのではないか。」と伝えた。
そして、その判断から山本長官はある機体を所有する部隊を、「量産型の性能確認。」の名目で爆撃目標になると思われる主要都市に配備した。
20日の午後4時頃にドゥリットル中佐率いる16機のB−25が千葉上空にさしかかろうとしていた時であった、爆音をたてて数十機の機体が編隊を通り越した。
その機体はプロペラが付いておらず、航空機とは思えないほどのスピードを出していた。
その機体とはドイツのハインケル社が開発したジェット機He-280を基にした特殊局地戦闘機雷光である。
この機体は2度目の訪独(昭和16年9月)の時に、ハインケル社から、「ヒトラー総統から技術提供と資源提供の礼で、ドイツで採用されているわが社の新型航空機を見ていかれませんか?」と言われ、その機体Heー280の飛行を見て訪独に行っていた日本技術者達はその高性能に驚愕し、外交文書で「ドイツはすばらしい高性能の機体を所持しています。」と送ったところ、それに源田大佐は「その機体をライセンス生産したい。」と思い、山本長官に直訴して許可を得て、ヒトラーに依頼したところ、ヒトラーは快く承認して、ハインケル社の優秀な技師十数名と設計図を訪独に訪れていた伊−8・伊ー30に乗せて日本に同年12月上旬に内地に帰還した。
その後、ハインケル社の技師達の協力もあって、
それを元に昭和17年2月に試作機一号が完成、3月下旬に量産型一号機が完成し、今に至る。
雷光が通過した後に編隊で生き残っていたのは9機であった。その残った9機も旋回して又攻撃してきた雷光にすべて撃墜された。
出撃したB−25の全滅を知ったスプルーアンスは失意のもと真珠湾に向けて艦隊を向かわせた。
かくしてルーズベルトの考え出した作戦は失敗したのだった。
特殊局地戦闘機雷光
速度750km。
武装20ミリ機関砲4門。
航続距離500km。