河内の悪党
歴史は往々にして残酷である。
小さな幸せには寛大な天も、大義大望の前にはなぜにここまで過酷な運命を与えるのだろうか。
楠木正成の前半生は、まるでその後半生との釣合いの為かと思える程穏やかに過ぎていた。
鎌倉では得宗北条高時が執権職に就きながら、酒や女を身に纏うようにして日々を田楽と闘犬に明け暮れている。
他方、政治向きの権限を著しく奪われ、あまつさえ皇統分裂という複雑な事情を抱える京都では今上の君(後醍醐天皇)が院政を廃して親政を執り行っていた。
しかし、正成の在所河内水分はいたって平穏であった。
もちろんいざこざはある。
土地をめぐり、収穫物をめぐっての争いは決して少ないとは言えない。
人里を離れれば夜盗や追い剥ぎ、山賊なども出没する。
最近では「悪党」と呼ばれる輩が頻繁に村々を襲っていた。
もっとも、正成もまた「悪党」であった。
当時、悪党には二つの意味があった。
ひとつはいわゆる悪人、悪い者という意味である。
が、ここで言う悪党とは荘園領主などの権力に反抗する輩という程のものである。
もちろん、荘園領主らにすれば土地や収穫物を略奪する悪人どもである事に違いはない。
正成が住まう地もまた、悪党楠木氏が荘園から奪った実効支配地なのだ。
しかし、この地は他の地域と比べて格段に平穏であった。
それは実効支配者楠木氏の当代当主多聞兵衛正成のおかげである。
正成はとにかく領民に優しかった。
柔和な笑みを浮かべて気軽に田へ出向き、百姓たちに混じって野良仕事を手伝うかと思えば山へ入って樵と共に木を切る。
他の荘から散じて来る者があれば領内にて働き場所を与えもしたし、猿楽などの芸能も庇護奨励する。
まさにここは民草にとって地上の楽土のような所だったのである。
もちろん、これは領内の表向きの経営面である。
これだけ富める地を他の領主たちが、ただ眺めている筈のないのは道理とも言える。
そこで楠木氏の裏の顔、悪党としての経営手腕が発揮されるのである。
正成はあらゆる手段を用いて近隣の情勢を調べ上げ、もっとも効果的な方法でこれらの勢力を降していった。
例えば猿楽の一座を隣村の豊饒祈願に合わせて舞いに出向かせ、土地の民から領主、土豪などの噂話を拾い集めさせる。
目がないものがあると聞けば、辺り一帯からその品を買い占めて土豪を困らせる。
そして、土豪が欲求を募らせている所に何喰わぬ顔で近づき「我が方にはまことに少なくはあるが分けて進ぜる程には」などと貴重さを匂わせて高く売りつける。
そうしてさんざ財を散じさせておくと、疲弊した所を乗取るなり攻め滅ぼすなどするのだ。
こうした悪党働きを重ねる事により、正成は父正遠の代から譲り受けた身代を倍する程に拡げていた。
それ程な楠木氏を、鎌倉倒幕を企む一団が見逃す訳もなかった。
しかし、彼らは都人。
それも公卿や僧侶であり、楠木氏は武士とも名主とも言い難い。
一説には散人から商うを生業として財を成し、土豪に成り上がった者の裔とも。
「そのような素性怪しき輩は頼り難し」とみるのも無理なき事だった。
ましてや正成は「悪党」である。
それでも、一人でも多くの同志を必要としていた一味が水分の館を訪れたのは、事の露見する数カ月前であった。