Antipyretic
いつもの通学路。
いつものように、猫が少し離れて隣を歩く。
高校一年生になって十ヵ月程が過ぎ、真新しかったこの道ももう見慣れたものになってきた。だからか、毎日同じようなことを繰り返すのにうんざりしてくるようにもなった。
「ねぇ、何で君は毎朝一緒に登校してくれるの?」
猫が応えるはずがないのは、私にだって分かっている。でも退屈を紛らわすのには丁度良かった。
「何でこんなに毎日つまらないんだろ」
猫は何も応えない。
*
「は?」
保健室。私は保健室の静けさが好きだ。身体は丈夫な方だが、入学してから何度も来ていて、先生とも仲良くなったつもりでいる。
「だからー、私がこんなに無気力なのって恋をしてないからなんじゃないかって」
先生は呆れたように私の顔を見つめる。
「そんなこと先生に言ったって何も変わらないわよ。そう思うんなら恋でも何でもすればいいんじゃない」
「それができないんですってばー」
「紗綾はほんっとやる気ってものが無いわよね」
「恋ができるようになる薬とかあればいいんですけど」
「そんなもの……、あ」
「え!?あるんですか」
「……なーんて、あるわけないでしょ。恋は自分で探しなさい」
「そんな…、は、くしゅんっ」
「あら、大丈夫?」
なんだかさっきから鼻がムズムズしていた。保健室に来るといつもそうなる、けど、気のせいだろうか。
「風邪ですかね」
「うーん、紗綾はアレルギーとかない?」
「ない…あぁ、昔から猫には弱いかもしれないです。触るとじんましんが出たり。でも最近になって症状がなくなってきたように思ってるんですけど」
「猫…」
毎朝猫と登校もしているし。でもこのくしゃみの原因が猫だとしたら…
「もしかして先生!あのカーテン閉まってるとこのベッド、猫がいるんですか?毎日閉まってるじゃないですか、ずっと気になってたんですよ」
そう。保健室には常にカーテンの閉まっている場所があった。最初は私の他に常連がいるのかと思っていたけれど、それにしては閉まっている時間が長すぎる。
「 何言ってるの…いるわけないじゃない」
「そう…ですよね?」
とは言ってみたものの、何事も白黒つけないともやもやするものだ。
*
放課後。今日は先生が会議でいないはず、と保健室に入った。
「やっぱりいない」
恐る恐る例のベッドへと近づく。開けられる状況になったらなったで恐怖心が強くなる。カーテンの前に立ち、静かに深呼吸して…一気に開けた。目の前の光景を、放課後まで色々想像してきた、が、まさかこんな…
「眩し…」
光で目の前は真っ白。それでも何か見えるものはないだろうかと頑張ってはみたが、目がくらんで倒れてしまった。
「痛ぁっ」
「ちょっとそこどいて…って、え、何でここに…?」
「え?ここは…ん、何ここ…」
私は今、実験室のような場所にいるようだ。さっきまで保健室にいたはずなのに、何が起きたんだろう。とそんなことを考えていたが、全てが吹っ飛ぶほど美しいものを目の当たりにした。
「わぁ…綺麗。これ何ですか?」
「…君って物怖じとかしないの?」
私が問いかけたのはそこにいた白衣姿の男。見渡す限りこの場所にいるのはその男ただ一人だけのようだったから。若く見えるが、高校生のようにも、20代のようにも見える。
「その液体はまだ実験途中なんだ」
「どんな実験を?」
「恋心を消す薬、かな」
「なぜそんなものを作っているの?」
「…質問ばかりだね…君はそんなに好奇心旺盛だった?普段はもっと無気力でしょ」
なんだろう、その人の、既に私について知っているような物言いは。
「うーん、最近恋すれば人生変わるとか考えてたからかな。恋できるようになる薬とかはないの?」
「恋なんて苦しいだけだよ」
「でもきっと楽しい」
恋をしてる友達は皆充実している感じがする。それが片想いであっても。
「…ふーん。じゃあ一粒だけ、あげる」
渡された錠剤のものは、さっき見た液体よりも綺麗に見えた。
「これを飲めば恋ができるの?」
「まあそうだけど。それを特定の異性の近く、半径一メートル以内で飲めばその人を好きになるよ」
「好きになりたい人がいない場合は?」
「…知ってる?恋は相手が居ないと成り立たないって」
「そうでした…。…えっと、名前教えて下さい」
「理玖」
「じゃあ私理玖さんに恋します!」
「は」
理玖さんが何か反論する前に、私はその人に近づいて薬を飲み込んだ。
「…理玖さん、好きです」
素直に思ったことを口に出した。この現実をどう思っているのか、理玖さんは硬直している。
「ああ、何だか今まで無気力に生きてきたのが嘘みたい」
「それは良かったですねぇ…」
「はい、今なら何でも…くしゅんっ」
「俺から離れた方がいいよ、今扱ってる薬品が良くないのかも」
「いえ…くしゅんっ全然だいじょ…くしゅっ」
「早く恋心を消す薬を完成させないとだね」
ため息まじりにそんな事を言う理玖さんは、今まで見た誰よりもかっこよく見える。理玖さんの近くにいるのが幸せな反面、もう帰らなければいけない時間だったことに気付きとても苦しくなった。
「…ん?私どうやって帰るんだろ」
ふと、部屋の奥から声がした。
「紗綾のことだから来ると思ったわ」
「先生!?」
奥から姿を現したのは、保健室の先生だった。
「普通に帰れるわよ。そこの階段が保健室に繋がってるから…あなた光に驚いて階段を転がってきたんじゃない?」
「あー、この液体の実験の時にすごい光が発生してたから」
からん、と理玖さんはさっきの液体を見せる。
「そうかもしれないです…だからこんなに痛い…ていうか、先生と理玖さんはどういう仲ですか!先生がここにいること自体まだよく分かってないんですけど」
先生は私から少し目を逸らして答えた。
「話すと長くなるのよ。今日は遅くなるからもう帰りなさい」
心の奥がもやっとする。
「…それって、先生と理玖さん2人だけの秘密ってことですか…?私理玖さんのこと、もっと知りたいのに…」
先生がぎょっとした目で私のことを見る。
「…紗綾、まさか何か変な薬を飲んだの!?」
「そうですけど何か!!私だって普通に恋して楽しい人生を送りた…」
「紗綾」
好きな人の言葉が私を止めた。好きな人に名前を呼んでくれるだけでこんなに嬉しくなるんだ。
「俺が薬渡したのが無責任だった。ごめん今日は帰って」
理玖さんの声はすんなり心に届く。少し納得いかない気持ちを押し留めて、言われた通り帰ることにした。
*
次の日の朝も、猫は私から少し離れて隣を歩いている。
「今日もいい天気だね」
やっぱり何も答えてはくれない。歩きながら、少しずつ猫の方に近づいてみる。と、猫は私との距離をそのままに保とうと少し離れていってしまう。少し悔しくなって、ぴょんと跳び一気に距離を詰めた。不意に猫に触ってみたくなってしゃがみ、手を伸ばした。
「くしゅんっ」
くしゃみと同時に、伸ばしていた手に痛みが走る。噛まれた…?違う。これは多分、猫が「これ以上近づくな」って威嚇して歯を出していたら、私がくしゃみの反動で手を歯に引っ掛けてしまったんだ。血は出ていない、大丈夫そうだ。手を見ながらぼうっとしていると、猫は走って行ってしまった。
*
私はまた、保健室に先生がいない時間を見計らってあの部屋への階段を静かに降りた。そこには、あの綺麗な液体と対峙する理玖さんの姿があった。私にとってはそれがとても美しい光景に見えた。
「…紗綾か」
静かに歩み寄ろうとしたがバレてしまった。気づかれたなら仕方ない、と普通に歩いて側に行こうとした。
「それ以上近づかないで」
それは冷たく私の心に刺さる言葉で、私は後ずさりをしてしまった。その様子に気づいたのか、理玖さんは私を見て申し訳なさそうに話す。
「俺、人と関わるの慣れてなくて。君が嫌いだからとかじゃ、ないんだ」
嫌いじゃないと話すことが恥ずかしかったのか、赤面する理玖さんは可愛く見えた。
「…意外と理玖さんって不器用なんですね」
「…そうかな」
理玖さんの新しい姿を覗いたような気がして嬉しい。すると、理玖さんは奥の棚から何かを持ってきた。
「手とか乾燥してない?いい香りのハンドクリームを作ってみたんだけど」
「何でも作れますね理玖さんは」
「ちょっと付けてみて」
理玖さんはそのハンドクリームを近くの机に置いた。手渡ししてくれないんだな、とまた理玖さんとの距離を感じる。でもそのハンドクリームは確かに理玖さんからのプレゼントで嬉しかった。容器の蓋を開けると、そこからは優しい花の香りがした。少し取って手に馴染ませてみる。
「このクリームとてもいいですね!」
「…痛くない?」
「痛くないですけど…どうしてですか?」
「いや、何でもない…よかった」
私に初めて見せる優しい顔に戸惑ってしまう。何か話さないと、という気持ちになる。
「…わ、たし!理玖さんとデートとかしてみたいな、なんて!今日どうですか!?」
「ごめん行けない」
理玖さんの目が曇った。まただ。距離を詰めようとすると遠くに行ってしまう。
「…理由を聞いてもいいですか?」
「俺は早く、恋心を消す薬作らないといけないから」
「…私のためですか?」
理玖さんは答えない。
「すみません。理玖さんのため、ですよね。理玖さんにも好きな人がいるんですもんね…くしゅんっ」
目に涙が溜まるのは、実験中の液体のせいだろうか。それとも、このどう考えても叶うことの無い私の恋心のせいだろうか。
「今日は帰りますね」
もらったハンドクリームを制服のポケットに入れて、階段を1段登った時後ろから声が聞こえた。
「大丈夫。明日には恋心を消す薬も完成するから」
それの何が大丈夫なのか。私には、辛くて辛くてどうしようもない。これからずっと理玖さんに恋するのも、薬を飲んで忘れてしまうことも。
「明日の放課後、また来て」
*
恋する薬を飲んでから3日目の放課後。今日は私が初めての恋心を失ってしまう日だ。まだこんなに好きなのに。保健室に向かう足取りは重い。保健室に入ると、そこにはいつものように椅子に腰掛ける先生がいた。
「知りたい?理玖のこと」
「教えてくれるんですか」
近くの椅子に座りながら聞いた。
「今日、恋心を消す薬を飲むって約束してくれるならね。あの薬を飲むと、好きになった人の存在ごと記憶からなくなるから」
「恋心だけじゃなくて、理玖さんのことも忘れちゃうってことですか」
「そうよ」
忘れたくない、飲みたくない…そう思った。でも本当に薬を飲んだだけでこの強い気持ちが消えるだろうか。薬を飲んだって忘れないような気がする。
「…聞きます」
そう言うと、先生は静かに話し始めた。
「理玖が作っている薬はね、恋心を消す薬なんかじゃないの。あれは全てを元通りにする魔法みたいな薬よ」
*
先生が大学生だった頃、仲の良かった友達がいたらしい。でもその友達は動物を使った実験を得意としていて、変わった人だった。周りからは魔女と呼ばれていたようだ。しかしその友達には魔女のような恐ろしさはなく、優しさに溢れた人だった。
大学を卒業して何年も経ったある日、先生の家にその友達が訪れた。お茶を出して座ると、衝撃的なことを言われた。
「この子を匿ってほしい」
そこにいたのはまだ幼い、10歳くらいに見える少年。ストレートの黒髪は、友達によく似ていた。
「私は実験を進めすぎた。私を怪しんでいる人が周りに多くなってきたんだ。そろそろ通報されるんじゃないかって思うよ」
その友達は冗談のように話を進めた。隣にいる少年はここまでの移動の疲れからか眠くなっているようでうとうとしている。
「この子は私の最後の実験体なんだ。名前は理玖。それで…」
すると、話の途中で少年の姿が突然消えた。辺りを見回すと、すぐそこに眠っている猫の姿があった。友達は話を続ける。
「この子を私は、自由に猫と人に変身することのできる身体にしてしまった。…でもこれはやりすぎてしまったって思うよ。人間、超えてはいけない壁があるものだ」
相変わらず特徴的な話し方だなと考えながら、実感のないままその話を聞き続ける。
「この子の脳には私の今までの知識が全て組み込まれてある。この子はいつか1人で、全て元に戻る薬を作ることができるだろう。でもそれは、私の元で実験するには時間が無さすぎる」
「時間?」
「そう、私はもうすぐここを1人で離れなければならない。詳しいことは言えないけれど」
そうしてその友達は持っていた鞄の中から通帳を取り差し出した。
「無理を言っているのは分かっている。でもどうしても、この子が元に戻る薬を作り終えるまで側に置いていてほしいんだ。ここに必要経費は入れてある」
友達の今まで見たことの無い切迫した表情に押し切られ、先生は理玖さんを引き取ることにしたらしい。
*
「理玖の心はいつも猫と人間の境にあった。叶わないことを分かっていながら、ある人に恋をしてしまったの。でもきっと今日理玖は、全てから解放されるわ」
そう話してくれた先生の表情は穏やかだった。理玖さんが薬を飲んで猫に戻れば、先生と理玖さんもさよならになってしまうのかな、先生は寂しくないのかなと考える。
「その友達は今どうしているんですか?」
「分からないの、どこかで元気でいるといいわよね…」
「そうですね…」
先生が窓の外を見つめる。その友達とは本当に仲が良かったのだろう。
「あ」
私にはまだ聞きたいことがあった。
「理玖さんが好きになった人って誰なんですか?」
「紗綾」
それは先生の声ではなかった。後ろから理玖さんが呼んだのだ。
「薬。こっちにある」
そうだ。今理玖さんの好きな人を知ったって薬を飲めば忘れてしまうんだ。なら、聞かない方が良いのかもしれない。
*
実験室。目の前には、全てを元通りにする薬がある。理玖さんの目の前にも。初めて理玖さんに会った時に見たよりも幻想的な色をした液体だ。
「これを飲んだら、理玖さんのこと忘れちゃうんですよね」
「そう。副作用で少し眠るけど、起きたらもうその人のことを忘れられるよ」
理玖さんは誰を想って飲むのだろう。飲んだら一体誰を忘れて…
「くしゅんっ」
そうか、最近酷かったくしゃみはこの液体のせいじゃない。理玖さんと近くにいることで猫アレルギーの症状が出ていたのかと今納得する。
「理玖さん」
何、と理玖さんが私の方を見る。
「私この薬を飲んでも、きっとまたいつか理玖さんに恋すると思います…なんて、出会ってまだ3日ですけど」
「何言ってんの」
「すみません恥ずかしいこと言って…」
「違う、そうじゃなくて。俺は10ヶ月も君を見守ってきたんだ」
ふっと笑って理玖さんは薬を飲み始めた。私も何となく慌てて飲み干す。その瞬間ぐらっと突然眠気に襲われ、私は深い眠りについた。
*
「あれ…?」
保健室のベッドで私は眠っていたらしい。授業中に具合でも悪くなったんだっけと考えるが何も思い出せない。ベッドから立ち上がってカーテンを開けると、そこには先生の他に若い男の人がいた。
「名前を、教えてくれませんか」
私は無意識のうちにそう聞いていた。
「理玖」
「理玖さん…あ、私は紗綾です」
理玖、知らない名前だった。でもその存在はどこか安心感があって惹かれる。
「この人は先生の知り合いの人よ。さて紗綾、今日はもう元気になったみたいだし帰りなさい」
先生に言われて外を見ると、もう空が赤くなっていた。…でもまだ帰るには早いな。
「理玖さん、あの、今日会ったばかりですけど。今日デートとかどうですか?」
何を馬鹿なことを聞いているんだと自分でも思う。理玖さんは少し戸惑った後、答えた。
「…いいよ。初めて会ったけど、君とはもう少し話してみたいかも」
それは、予想していなかった返事だった。
*
学校を出て、私の隣を歩く理玖さんに懐かしさを覚えたけれど、その答えは見つからなかった。分かるのは、2人が離れて歩く必要がないということ。そんなこと、一緒に歩いているのだから当たり前かもしれないけれど、私にはなぜか特別なように思えるのだ。理玖さんは何を考えているのだろうと横を見ると、目が合ってしまった。目を逸らす機会を失い、見惚れてしまう。
「なんか俺」
「?」
「ずっと君の隣で歩きたかった気がする」
理玖さんの優しい表情に胸が高鳴る。私の長い退屈な日々は、今終わりそうな予感がした。