六
いつも通りの部屋に違和感のある他人が居る。
その、親しくもない彼に、ティーパックの紅茶を入れてやるために、わたしがリビングを離れる間、彼は室内をじろじろと見回しているのだろう。
「どうぞ」
差し出された紅茶と、お茶菓子にでもなればと考え、部屋へ戻る途中のコンビニで買った、わたしの好きなメーカーの新商品のチョコレートを、彼は遠慮なく口にした。
彼のカップは、もう使っていない、洋子との思い出の品でもないやつだった。彼にはわたしの普段使っているカップには口をつけさせたくない。
「わりといい部屋に住んでるんですね」
都心を一時間近くも離れれば、わたしの給料でもこれくらいの部屋には住めるのだ、と彼にもそうしたらと提案する。
「いや、おれはいいですよ。やっぱ都心に近い方が便利だし、家賃払ってんの親だし」
そういって彼が、なんの思い入れもないカップを置いたテーブルが、洋子との同棲で使用していた物だった、と気づき焦り、急にこの男を部屋から追い出したくなった。
そのテーブルは、洋子の両親がわたし達を引き離した場所でもあった。
いつもと変わらぬ仕事帰り、アパートの外から、わたし達の部屋のある窓に、いつもはあるはずの明かりがなかった。暗がりの中、電気をつけると、そのテーブルに厚い封筒と書置きが二通あった。
「娘は連れて帰ります。部屋の居住に関しては心配要りません。こちらで二ヶ月後解約するようにしてあります。それまでに、これで別の部屋を探して下さい……」
封筒の中に三十万円あった。その後何度も数え直したのだから間違いない。二枚目を読む。
「ご迷惑をおかけしますが、部屋の物は一切捨てて下さって構いません。必要な物があればそちらでお持ち頂いて、どうぞ……」
最後の行にあった言葉は今でも頭から消せない。
「どうぞ、あなたも新しい人生を遣り直して下さい」
遣り直さなければならないことなど、何もない、と反論してやりたかった。わたしには洋子との生活が新しい人生だったのだから。
この時期に九州で、鯉のぼりが全国ニュースになる土地なんてすぐに特定できそうだった。その土地を歩けばいつか洋子に出会えるだろうとも考えた。まさか彼女の両親も、自分達の娘を家に縛り付けておける訳もないだろうから、と精神病棟に入れられた可能性もあることを見落としていたことに気づく。病院をしらみつぶしに探していけば――。
教えてくれるはずがない、個人情報を。仮に洋子を見つけたとして、わたしはどうしたいのか分からなかった。両親の手から彼女を奪い取り、また、あの“おあそび”に夢中になれるのだろうか。彼女はきっとわたしを待っている。両親との生活は彼女にとって苦しみしか生まないことも、わたしには分かる。
それでも最後は、自分に未練がましい言い訳をし、わたしは洋子の居なくなった一ヶ月半後、アパートを出た。
彼女の持ち物は大概捨ててしまった。アパートを引き払う間さんざん悩んだあげくの決断だった。洋子の部屋にわたしが住んでいることは大家には話していなかったから、そのことで問題が起こるものと覚悟していたが、何事もなく退去することができた。きっと洋子の両親の配慮なのだろう。いかにも洋子の両親らしい生真面目さだ、と寂しい笑みを残し、わたし達の短い同棲生活は終わりを迎えた。
その際にいくつか洋子の部屋にあった物を持ってきていた。その一つが、今また彼がカップを置いたガラスのテーブルだった。慌しい引越しだったから、今でもその全てを見つけ出せてはいなかった。まだ解いてない荷物もあった。だから、この部屋を探せば洋子との同棲の跡が見つけられるはずだ。鳴り出した携帯には、一度だけかかってきた、洋子からの留守電が今も残っていた。そのためにわたしはカメラの部分が壊れた携帯を今も使っている。
留守電はわたしの仕事中に入れられたもので、声で洋子だとは分かったが、話している内容は何度聴いても分からなかった。後ろで車の走る音が微かに判別できた。
公衆電話から、わたしに何を伝えたかったのか、たぶん洋子のことだから、急にいなくなったりしてごめんね、とでも言いたかったのだろう。その叫び声にしか聴こえない留守電をまた耳元で再生させたい、と思った。
彼がテーブルに手を触れようとする。カップ越しではなく直に――。
わたしは彼の手を弾いた。彼の、驚いた拍子に後ろに下げた手がカップに当たって、まだ熱いままの紅茶ごと床へ落ちていった。
「そんなに知りたいんなら教えてあげる」
わたしは台所へ行き、ここへ引っ越して以来、一度も研いでない包丁を彼へ突き出す。
「それで、自分の腕を切って見せてよ」
男は虚をつかれ、間抜けな面を晒している。
「ためらい傷って知ってる。いくじのない奴が作るのよ。それは無し。一度できれいに切って頂戴」
何言ってんだ、とだけ男は答える。つまらない答えだ。ありきたりな討論合戦は飽き飽きしていたし、だからといって文章で生計を立てようと目論む者が、こんな時黙り込むなんてことをしてはいけない。なんでもいいから、自らの胸にある感情を言葉にして表現しなければならないのだ。わたし達の世界では黙り込むことも負けになるのだ。
「おれ、なんかした?」
それでは見逃してはあげられない。
「あなたも小説家志望なら、言葉でわたしをやりこめてみせなさいよ。でないと本当に切ってもらうから」
「何言ってんの? サークルの立ち上げメンバーだからって偉そうにすんなよ。だいたい何でおれがそんなことしなきゃなんないんだよ」
「わたしならそういう風には言わないわね」
もしも、心の傷が目に見えるのならば、今あなたに見せてやりたい。あなたのその視線、その言葉が、ぼくの心をひとつ、またひとつと切り刻んでいるのを。傷口から滴り落ちる血は涙となってぼくの頬を伝っているではないか。この傷では充分ではないのか。あなたと傷を、苦しみを共有するのには、これだけの痛みでは足りないのですか、とあなたに問いたい――
「とでも言って、涙を流せばきっと許してたわね。でもそれは今わたしが使ったからもうだめ、他の方法で切り抜けて見せてよ」
彼はしりもちをついた格好を崩そうとしない。よほど狼狽しているのだろう。
こんな時、わたしはわざと黙り込み、次のせりふの順番を一つとばして相手に譲るのだ。その間、彼はこの場で、いきなりの辱めに堪えながら次のせりふを考えねばならないのだ。そのことを思うと自然に口元が緩む。
この男が暴力よりも知性でもって叩かれることの方が、より傷つくことは分かっていた。わたしに対し手を出してこないから。
バカな奴だ。逃げ道なんていくらでもあるのに。例えば100当番通報すればいい。駆けつけた警官はわたしの言葉よりも、彼の言うことを信用するだろう。わたしが嘘をついたとしても、その後わたしの通院歴に調べが行けば、やっぱり警官は彼の言葉を再び信用するだろう。
必死になって言い逃れようとする彼のなんといじらしいことか。それがわたしの最も好む態度だとも知らずに。さっさと言えばいいのに、本音を。自分に嘘をつかず感情を素直に表せば良いのだ。
「気持ち悪いんだよ、自分に酔ってんじゃねぇよ、ヘンタイのくせに」
ふふ、と自然に微笑むことができた。
そうだ、洗面台の下にある戸棚に、同棲していた頃買った剃刀が、まだ未開封であったはずだ。
わたしはそのことを、無性に確かめたくて堪らなくなった。窓から吹き込んでくる、少し肌寒い風も、わたしの衝動を後押しするかのように、レースカーテンを力強くはためかせる。
彼をその場に残し洗面所へと歩く。
「あ、そうだ。サークル抜けるって、皆に伝えておいて」
もう帰っていいわよ。
洗面台の戸棚を探るわたしの背後を通り、彼は玄関のドアを、悔しさからか、叩きつけるような閉め方をして出て行った。
もう一年も経つのなら、錆付いているだろうな。もしそうだったら、久しぶりに研ぎ石を暗い台所の戸棚から出してあげ、剃刀を研ぐ、そのついでに包丁も研いであげよう。
いくら探しても見つからず、諦めもついていたはずの宝物に、偶然手が届きそうな昂揚した心地に、わたしは逸り、心弾ませていた。




