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 人には、好きでも嫌いでもない、好意も不愉快さも感じさせない、空気のような他者が一人くらいはいるものだ。わたしにとって彼がまさにそれだった。見た目もそうだし、服装だって気にはならない、いい意味で無関心でいられる相手。だからこそ、縮みかけた好奇心を久しぶりに、無理矢理奮い起こし、アパートから数分離れた駅前で、この時期にしては珍しく照りつける日差しの中、あの大学生を待つことが出来ていた。 

 学生の純真な好奇心に触れることが、わたしにも新たな刺激になれば、と思う気持ちもあって。

 約束の時間にはまだ五分残っていた。それでも、先に着いてしまった為に待たされるはめになったわたしは、彼を心の中で罵る。自分から会って話がしたいと言ったくせに、と。

 駅前は人通りも多く、早くこんな所からは離れてしまいたかった。彼女ならば、わたしに構わずその場を離れていったに違いない。

 洋子と二人で外出することは、近所のスーパーへの買い物くらいで、たまに仕事終わりに待ち合わせて外食もしたが、彼女は人の多い場所を望まなかったので、わたしもそうなのだが、わたしの人嫌いに比べ、彼女のは拒絶という印象だった。

 正社員で働くわたしとは違い、洋子は実家からの仕送りで生活費を賄っていた。たまに週三日の、四、五時間程度のアルバイトを探して来ても、初日で辞めてくることがほとんどで、その度に、

「わたしには無理。だっていきなりいろんなことをさせられるんだもの」

 あの人達は理解がない。スーパーのパン屋ならなんとかやれそうだ、と彼女はわたしよりも一時間早く部屋を出て行き、わたしが仕事から帰ってくるよりもずっと早く、その部屋でわたしのことを待ち焦がれていた。

 そんな風に拗ねる洋子が、わたしの胸へ顔をうずめてくる。わたしはしっかりと濃やかに彼女を胸の内へと包み込む。長い黒髪を梳かすように撫でると、指先に伝わる手触りに魅了され、泣いている洋子をそっちのけで、一人その行為に酔いしれる。

「わたしが働きに出て、あなたが家事をする。役割はしっかりと出来てるじゃないの」と慰めてあげる。彼女はまだ一人で働きに出られるほどには病状が回復していないのだ、と自分に言い聞かせて。

 洋子がわたしのわがままに従い、身の回りの世話を甲斐甲斐しくしてくれるのは、わたしに対する申し訳なさもあったからだろう。

 ようやく学生がやってきて、軽くごめんなさい、とだけ言った。わたしはこの日差しの中、これ以上立っていたくなかったから、取りあえず喫茶店にでも入ろうと提案する。

 彼は「ファミレス、いいですね」と答える。

 歳の差を感じつつ、わたしは繁盛してなさそうな商店街の“喫茶店”と看板の掲げられた店へと彼を誘った。

 洋子ともファミレスで食事をしたことが何度かあった。わたしの残業の終わる時間に、彼女から、外食しましょう、という意外なメールが届いていた。

 週末の、わたしと同じような仕事終わりのサラリーマンや、学生らしき人々で込み合ったファミレスで、緊張し強張る洋子を宥めながら、気の休まらぬ食事をしたこともあった。

 そのまま夜の通りを歩けば、一人や二人くらいは声をかけてくる男もあったが、半袖で街を出歩いた時は、誘ってくる男もさっぱりといなかった。

 時々、この女ならやり捨てても大丈夫だろうなんて、欲望剥き出しのバカもいたが、そういう男をありったけの汚い言葉で貶してやるのは爽快だった。わたしの背中で隠れていた洋子は、男の去った後、

「あなたが躁の時ってほんと危なっかしいわね、口が悪いのは普段からだけれど」と繋いでいた手をさらに固く握りしめる。 

 彼女の言うように、わたしは元々口が悪く、躁状態の時、他人への言葉遣いが最もひどくなった。

 人を悪く言う言葉なら幾らでも出てくるのに、とあの三十男とのやり取りが蘇り、大学生の彼が、わたしのことをしつこく訊いてくるのに、うっとうしさを感じ始めていたこともあり、つい、そんなにわたしのことが知りたいのなら、彼を自宅へと招待してやろうか、とさえ考えてしまう。

 おそらくサークル仲間から、わたしのうわさでも聞いたのだろう。その若さからくる好奇の目と、質問の回数が増す度に、わたしの苛立ちは募るばかりだった。

「純さんの書く小説って怖い話ばかりですよね。やっぱりホラーが好きなんですか?」

 書きたい題材にこそ、書き終えてやろうという気概が湧いてくるのに、なんて当たり前の質問なのだろう。

「まあ、テーマは一貫してたほうが書いていて、なんていうか、手に馴染んでくるような感覚があるから」

 学生はふうん、とさらに訊いてくる。

「実際に体験したりとかはあるんですか?まさか主人公が自分なんてことないですよね。純さんそんな風には見えないし」

 純、とこの学生に名を呼ばれるのは不快だ。

たった数回のメールでのやりとりだというのに、実際に会うのもこれが二度目だ。最初に会った時の、うざったさはやっぱり偽者ではなかった、と今更ながらに、この礼儀知らずな学生と会うことを承諾した、自分の思いつきからの行動が悔やまれる。

 ペンネームは『ショウ』と華奢な体にお似合いな名前の、彼の興味がわたしの小説にではなく、わたし自身にあるということは、最初のメールで分かってはいた。男性が女性へと向けるそれとは異なるものが、わたしには向けられているような雰囲気がしていた。

 この男はわたしから小説のネタになるようなものを盗もうとしているのだ。さっきから視線が長袖に度々移っていた。

 興味を惹かれる他人を小説の題材として使うことなんて特別珍しい考えではない。そのことで、彼を責めるつもりはなかった。

 許せないのは彼がその思惑を自身の内に隠しきれていないことにあった。腕にある傷痕を、まったくの他人に、まじまじと見られているような居心地の悪さと似ていた。

 未熟者――

 わたしから、わたしのかかえている病気とその痕跡、さらに洋子との思い出までも盗み取りたいという、小説に対する“真の野心”があるのならば、一流の詐欺師にでもなったつもりでかかってきなさい。本気になって騙してみせなさいよ。

 男は依然化けの皮を剥がそうとはしない。いや、わたしにはすでに丸見えになった拙劣な下心でまだ訊いてくる。

 いいだろう。土足でわたしの心に踏み込んでくるがいい。そうだ、喜んで彼の小説の題材になってやろう。どうせなら、よりリアルにわたしと、洋子との関係までも、事細かに描いてもらおうではないか。

そのためにはまず彼に、わたし達の肉体の痛みから体験してもらおう。

「これから、うちに来ない」

 その誘いに、彼は待ってましたとばかりに飛びついてきた。


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