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 買い物を済ませアパートへ帰る途中、携帯のバイブレーションが胸元に伝わり、ふいをつかれたわたしは、突然脈の乱れた苦しみの中、慌しく携帯を開く。

 見知らぬアドレスからのメールだった。本文を読んでようやくさっきの学生からのものだと分かった。内容はわたしの書いているものに興味があるから、そのことで話せませんか、といった感じだった。

 わたしはまだサークル内では三本の短編しか書いていなかった。遅筆なこともあり、小説を書くよりも、皆の書いたものを読むことの方が多かったので、自然とわたしはサークル内では批評する役割になっていた。

 わたしは他人の書いた小説に対し、わりあいおおっぴらな言葉を返すので、サークル内でのわたしに対する好き嫌いは、はっきりと境界線が見て取れるようだった。大学生の彼はわたしにまだ自分の書いたものを見せていないから、線の真ん中にいるのだろう。とりあえず概ね了解しました、とだけメールを返す。

 買い物袋のビニールから、買うつもりでいたトイレットペーパーがないことに気づき、買い忘れたことを後悔し、一度は引き返そうかと考えるが、まだ残りがあったはずだから、と思いなおす。

 トイレットペーパーはわたし達にとっての“鬼門”だった。女同士ということもあり、消費の量は男のそれと比べ格段に速く、まだあるものとばかり思っていた買い置きが無かった不幸に当たるのは、大抵わたしがトイレを使っている最中だった。

 そんな時わたしは憤りから洋子を責めた。洋子がドア越しに手渡してくれるポケットティッシュさえ細かく破いて部屋中に放り投げたりもした。洋子は黙ってそれを片付ける。その姿が、さらにわたしのサディスティックな部分を刺激する。わたしは彼女に喧嘩を売りつけてやるが、彼女の鬱は内へ内へと向かう種類のものだったから、決して売られた喧嘩を買うような、安っぽいまねはしなかった。ただ黙って堪える洋子がいじらしく、たまらなく好きだった。

 その洋子がわたしを困らせることもあった。どうしてもわたしと口を聞いてくれないのだ。 

彼女の鬱が最も現れる時、洋子は自分の部屋に閉じこもり、どんな優しい声にも、激しい罵倒にも反応してはくれなかった。

 恥ずかしいくらいに媚びてみせても、彼女は真っ暗に締め切った部屋の奥のさらに、長い髪の奥深くから、じぃっとわたしではない方向を視線の先に置き、決してわたしを見ようとはしなかった。

 ようやく部屋から出てきた洋子は、決まって血まみれの腕をしていた。何度も切って塞がった箇所を、また同じように切る、不毛な行為を経てからではないと、元の状態に戻れないのだ。

 わたしは血まみれの腕よりも、彼女の視線がようやく、わたしを捉えてくれたことの方が嬉しくて、彼女の傷口を気遣いもせずに抱きつく。洋子は逆らいもせず、無邪気な抱擁を受け入れてくれ、

「シャワー浴びるけど、一緒に入る」

そういって、調子がいい時に見せる微笑をくれる。わたしの幸福の絶頂の瞬間がそこにはあった。

 洋子とは互いに腕を切る瞬間を見せ合ったりもした。ざらざらの刃先は切れ味が抜群で、二人の腕にはぱっくりとした傷口が開かれ、しだいに滲み出てくる血流を眺めてはうっとりとしていた。

 今にして思えばなんというくだらない“おあそび”だろう。わたし達は互いの傷の塞がり具合を競い合い、まるで、幼い植物の育ちを見守るような心地で、毎日傷口を確かめ合った。

 その行為にある種のカタルシスまで覚えた頃、洋子に対し女同士の友情を超えた感情さえ抱き始めていたわたしは、洋子にこんな提案をした。

「お互いの腕を掴んで相手の腕を切るの」

 洋子はそんなのもいいかもね、と快諾してくれた。

 今ではくだらない“おあそび”にしか思えない行為をその時のわたし達は、可笑しくも神聖化させていて、これは特別な行為だからと、新しい剃刀の切れ味を念入りに親指で確認してから、昼日の柔らかに当たるリビングで、擽るように優しく揺らめく白いレースのカーテン越しに照らされたお互いの腕を、ガラス製のテーブルに大切な宝物でも置くよう丁寧にのせ、利き腕ではない方の手首を掴み、「せいの、なんて言葉は似合わないわ。この行為には言葉は無用なの」

 そのときのわたしは恥ずかしげもなくそう言ってのけた。洋子はふふ、といつもの上品さでわたしの心を撫でてくれる。

 無言のまま互いの腕に剃刀の刃を置くまさにその瞬間、脳内で思いがけず大きな反発が起こった。これはやってはいけないことだと。

 これはもう、自傷という行為ではなくなっている。その範囲を超え、別の方向へと向かっている、とわたしの内側で反論するわたしがいた。踏み超えてはならない一線なのだと内側で繰り返すわたしの声に戸惑っていると、

「やっぱりやめましょう。もうすぐ食事の支度もしなきゃならないしね。血まみれのクロスタなんてほしくないでしょ」

クロスタ、イタリア語で硬い皮を意味する言葉を名付けられた、その料理を洋子は好んで作っていた。

 傷口が塞がる際、体が前よりも大きく皮膚を築く。以前の傷を拒み、もっと強くやらなければ切れやしないとでも言いたげに。

 そんなことの繰り返しで、デコボコに盛り上がったわたし達の腕はまさに、甲殻そのものじゃない、と洋子は言う。

 彼女はその料理だけにはやたらと時間を費やし、余程手の込んだものだろうと、

「大変そうね、手伝えることはないの」と訊くわたしに「そうじゃないの。これだけは真面目にやりたいの」

「じゃあ、普段のは手抜きなの」

 洋子は白く薄い繊細な肌に惜しげもなく皺をつくり、声を上げて笑う。ちなみにクロスタとは肉や魚を生地に包んで焼く料理を、イタリア風にそう呼ぶのだそうだ。

「なんだ、ただの包み焼きじゃない」

 洋子はまた調子を一段上げて笑った。

「料理なんて、しゃれた名前をつけた方が、有難味が湧いていいでしょ 特にあなたにはたっぷりと感謝してもらわないとね」

 わたしは、わかりました、ありがたくいただきます、と両手を合わせて見せた。洋子が満足そうに頷くと、今度は二人で笑い出す。


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