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 そこから電車で一時間近く離れたアパートへと戻る間、電車の窓から忙しなく変わる景色の中に、賃貸住宅の、即入居可、と書かれた“のぼり”が風に揺られているのを見つけ、わたしに鯉のぼりを連想させた。もうすぐ五月――。洋子と別れてから一年が過ぎようとしていた。

 小説を再び書き始めた理由は洋子と別れ、それまで同棲していた部屋を引き払い、都心を離れた静かな所に越してきた寂しさからだった。

 洋子との一年にも満たない同棲生活は、洋子の両親が無理矢理に彼女を、実家のある九州へと連れ帰ったことで突然の終焉を向かえた。

 洋子の実家では、この時期たくさんの鯉のぼりが、そこいらの家中の屋根高く掲げられ、それは全国ニュースにも取り上げられるのだ、と彼女は嬉しそうに話してくれた。

 洋子が実家のことを嬉しそうに話すのはその話題だけで、それ以外の、故郷での出来事は話したがらなかったので、わたしも訊かないでおいた。

 洋子と知り合う一年ほど前からわたしは、自分の文章力のなさに見切りをつけ、商業作家への夢を諦め、断筆を決めていた。

 家と職場を往復する日々の合間、二週間毎に訪れる病院の待合室で、深々と帽子を被り俯き、安い革張りのソファにちょこんと座る洋子が、名を呼ばれ立ち上がる際に落としたハンカチを、わたしが拾って渡したのがきっかけだった。

 その時は軽い会釈だけで、洋子は診察室へと消えていったが、二週間後また待合室に洋子の姿を見つけると、わたしはなぜかほっとする心地で、彼女の隣に座り迷惑にならないようにと、慎重に言葉を選び話しかけた。

 その後、お互い二週間毎に病院を訪れては、その場だけでの短い会話を楽しんでいたのが、わたしの躁の最高にでていた日に、彼女をランチに誘ったことで、関係は進展した。

 その日から、わたし達はメールでのやりとりを毎日のように繰り返し、互いに鬱のひどい時は返信をしない時もあったが、病気への知識と理解から、そんな時はそっと相手を気遣うようにメールの送信を止めた。

 さらに関係が深まった頃に、わたしが洋子のアパートに、押しかけ女房みたいに転がり込んだ際、洋子は何も言わずわたしに二部屋ある一室を明け渡してくれた。まるでわたしがそうするのを待ち望んでいるかのようにその部屋は物が一切置かれていなかった。

 同棲を始めしばらくしてから洋子が、

「実は前から気になってたから、ハンカチを拾ってもらった時の、あの時間を選んで来てたのよ」

わたしに会うため、一週間毎、あの日と同じ土曜日を選んで診察に訪れていたのだ、とタネ明かしをしてくれた。

 なるほど、そうでなければ、そうそう彼女と待合室で出会うことなど確率的に難しいはずなのに、わたしはそれを運命のようにさえ感じていたのだから、馬鹿馬鹿しい。

「やってくれたわね」

「わたしね、あなたがわたしのこと見ているのも知ってたのよ」

 深く被った帽子の奥にある眼差しがわたしに向けられていたことも知らず、わたしは彼女の動作を執拗に観察していた。恥ずかしさから、

「実はわたしも気づいていたわよ」と返す。

 ふふ、と洋子はそれだけで、口元を緩め、わたしを優しく見つめる。

「やろうか……」

 わたしがそう囁くと彼女も頷く。バスルームへ剃刀を取りに行く洋子の後姿の、長い黒髪がエナメル質のつやを優雅に靡かせた。


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