一
始めはネットで知り合った三人で、見切り発車的に作った同人サークルが、今では十人を超え、月に一度オフ会を開くことが、いつのまにか義務付けられるようになっていた。
今日の会は二人が欠席していた。その内の一人が参加しなかった理由はわたしにあった。
前回の会で、彼と些細なことで言い争いになり、その結果わたしは彼に平手打ちをかましてしまった。
三十を過ぎたその男は、実家の裕福なこともあり、定職にも就かずひたすらに小説を書き続けていることを、恥ずかしがる様子も見せずに話し、そうかといって、自身のおかれている立場を理解していない訳でもなく、サークル内で、自分がどういう風に見られているのかを理解している、比較的客観性を持ち得る人物ではあった。
彼のことを嫌っている者もあったが、わたしは彼の、そのつねに、自己に客観性を欠くことのない性格をかってはいたし、彼の環境を素直に羨ましいと思えることが出来ていた。
小説なんて暇人の書くものなんだから、仕事で疲れきった脳で文章を組み立てる作業は億劫でしょうがなかった。彼は最高の環境で小説を書いているといえるだろう。
彼の書く小説は、古くさい純文学に今も固執するような、甘ったるい純愛、それも悲哀のストーリーばかりだった。確かに今はその手のストーリーは狙い目ではあった。
しかし、その男は学生時代に漱石の『三四郎』を読んで以来、十数年以上に渡り、その主題にだけ拘っている“筋金入り”であった。
三十男の書くものは、お決まりの出会いから別れで一貫していて、決して主人公が想いを遂げることはなく、わたしにとっては退屈なものでしかなかった。それでも男が新作を書く度、律儀に読破することが出来た訳は、男の書く文章にあった。
彼は人物の描写が頗るうまかった。偏執的に、指一本からの動きを書き無駄に文字数を稼ぐようなせこいやり方ではなく、極力短い文章でもって、読む者にその人物を自ら描かせるとでも言おうか、学生時代、美術の時間にやったデッサンに例えるならば、彼は鉛筆一本でりんごや三角すいを見事に、その陰影までも、読み手自身に描かせるのだ。
その点においてわたしは彼の文章には敬意をはらっていたし、彼はわたしにとっての密かな目標でもあった。
言い争いの原因は男の、なんでもない一言にあった。
「二年も書いてないの。だめだよ、絵画と同じで文章も書き続けないと腕が落ちるものだよ」
男は二年ぶりに小説を書き始めたわたしにそう言い、その経緯を執拗に訊いてきた。普段なら聞き役に徹するわたしが、急に語り手にされた驚きと、生理痛と数時間前から出てきた鬱の症状もあり、わたしは理不尽に男の言葉にかみついた。
頭の中にある感情や理屈を言葉にして話すという作業においては、二年間のブランクを差し引いても男の方に分があった。手持ちのボキャブラリーにも差があり、言葉の尽きたわたしに、次々と溢れ出す男の言葉数の豊富さに嫉妬し、その苛立ちから、わたしはたまらず男に手を出した。平手打ちされた男を残し、わたしは前回のオフ会を途中で逃げ出した。
今、この場に居ていいのは彼の方だった。皆と一緒に前回の、わたしの敗戦を笑ってもいいだけの権利が彼にはあった。
文章を生業とした生活を望む者にとって、暴力を振るうということは紛れもなく自らの敗北を意味するものだった。討論の場でばかとかあほとかの幼児語で反論するくらいぶざまな敗北だった。それなのにあの男はここにはいない。わたしは言葉が暴力に屈する瞬間に立ち会ったのだ。
随分と面の皮の厚くなったものだ、と自身の、世間擦れした図太い神経に苦笑いがでる。彼には申し訳ないことをした。彼がわたしのためにオフ会に出難いというのなら、わたしがサークルを退会してもいいと思った。せめてもの罪滅ぼしになればと。
小説の主題など、とっくの昔に手垢にまみれ、さらに垢が積み重なって、カチカチに固まり、石ころほどの価値もない。そんな小説を量産し排泄する作業にわたしも一役買っているのだから、男の純愛好きを馬鹿には出来ない。かといって、隙間産業のごとく、あざといストーリーで書くというほどにはわたしは野心家ではないと思った。
わたしのは時々買うロト6の一等、あわよくばボーナス数字にでも引っ掛かって二等くらいの“ささやかな夢”をみるものだ。
ふいに自己を中傷する笑みがこぼれる。なんという大きな夢だろう、と。わたしも充分に野心家ではないか。同人活動を続けていることもそれを裏付けていた。
わたしはオフ会で、夢とか希望とかを口に出されることには無関心でいられたが、「自分が好きで書いているんだから、周りの評価なんか気にしないんだ」というせりふがなりよりも嫌いだった。わたしの内にある真意を言い当てられた気になるからだ。そのせりふが、同人活動を続けるわたし達にとっての“逃げ道”であるという事実をも、わたし達自身に告げているようでもあった。
わたし達はできれば商業作家になりたい、という思いを捨てきれないからこそ、人の目に触れるところで文章を書いているのだ。
だから同人活動をしているにもかかわらず、趣味で書いているというニュアンスのせりふはまぎれもない欺瞞だ。趣味で書くということは、誰の目にも触れないところで、他人の評価という概念にすら無関心でいられることを意味するのだから。
このサークルの皆からそんなせりふを聞かれないことを望んでいたが、最近入会してきた大学生の男が熱く小説論を語り出すと、場の空気は一変して重くなる。
その学生は、わたしの書いたものをホラーと定義付けた。わたしはそれを、親子のあり方を問うというありふれたテーマで書いたつもりだった。
わたしは自らの小説の主題を他人に語ることが嫌いだった。そういう問いをされた時は、まず相手にどう感じたかを訊き、その意見にのっかるように話を進めた。
さらに語りたがっている学生に、用事を思い出した、と分かりやすい嘘をつき、残念がる学生に情け心からメールアドレスを教え、オフ会の場に使っていたファミレスを後にした。




