言葉にしなければ伝わらない
「一緒に、食べない?」
シェリルの口から出たのは取り留めの無い言葉だった。シェリルの目線の先を見て、何を指しているのかがわかったのか、僅かに強張っていたグレンの表情が呆れを滲ませたものへと変わる。
「疲れたんじゃないのか?」
「あ、うん……やっぱり食べたいなぁと思って」
ヘラっと情けない笑みを浮かべるシェリルに対し、グレンは一つため息を溢すと、果物の入った籠を手に持ち、「ちょっと待ってろ」という言葉を残して部屋を出て行った。
グレンの背中を見送ったシェリルは、視線を天井へ移すと、両手で顔を覆い大きく深呼吸をする。ドクンドクンと高鳴る鼓動が落ち着いてくれる気配はない。
単純に言えば、シェリルは逃げたのだ。あの張り詰めた空気に耐え切れなかったとも言える。グレンの纏う空気が緩んだのは良かったが、シェリルがグレンに不躾な態度をとってきた事実は変わらないのだ。いざ話さそうと決意をしても、どうやって話出せばいいのかシェリルには思いつかなかった。
うぅぅう! っと己の不甲斐なさに唸っていたシェリルの頭上にグレンの呆れた声がかかる。
「お前は何をしてるんだ」
「っ!」
突然かけられた声が、想像よりも近い距離から聞こえてきたためシェリルはビクッと体を揺らした。恐る恐る手を取り除けば、シェリルの顔を覗き込むグレンの顔が視界いっぱいに広がる。少しずつ落ち着いてきた鼓動が一気に速さを増していく。
「グ、グ、グーー」
「落ち着け。ほら、食べろ」
そう言うや否や、グレンは一口サイズに切られた苺をシェリルの口の中に放り込んだ。驚いて目を見開きながらも、一生懸命咀嚼するシェリルに「美味いか?」とグレンが問いかける。頬張っているシェリルは必死に頭を上下した。
「たくさんあるぞ。次はどれだ?」
「んぐ……え、や、自分で」
「あぁ、それじゃあ食べにくいか。今起こしてやる」
グレンはシェリルの背に手を入れ、楽々とシェリルの上体を起こすと、近くにあったクッションを背中の後ろにあてていく。グレンの行動に唖然としていたシェリルはされるがままだ。
再び果物が乗った皿とフォークを手にしたグレンは、視線だけで次の果物を選べと促してくる。グレンの中にシェリルが自分で食べるという選択肢はないらしい。シェリルはひどく動揺した。
「じ、自分で食べるから大丈夫だよ」
「何言ってる。怪我が治ってないだろう」
それでもフォークで刺して食べるくらいはシェリル一人でもできる。第一、一番酷い状態の時に見舞いにも来なかった人が何を言うのかとシェリルは思った。
「……城にいた時、来なかったくせに」
ボソリと溢したシェリルの小さな声をしっかり拾ったグレンは、とても嫌そうな顔をした。
「事情聴取に破損報告、挙句にはシェリルが城にいるから安全だと残党処理までさせられて顔を出す暇もなかった。まぁ、いいストレス発散になったが……。結局、シェリルが城を出るまでこき使われたんだ。なのに、会えばお前は俺を無視するしーー」
「そ、それはっ!」
「なんだ」
忙しく仕事をしていたグレンに見舞いに来てくれなくて不貞腐れてたとは言えず、シェリルは口ごもる。だが、グレンから送られてくる『早く言えオーラ』に耐えきれなくなったシェリルは、弱々しい声で一番心に引っかかっている事を告げた。
「……キス……したじゃない」
「は?」
「だから、キスッ! グ、グレンは初めてじゃなかったのかもしれないけど、私は初めてだったんだから!」
もはや悲鳴のように顔を真っ赤にして叫ぶシェリルとは反対に、グレンは呆気にとられたような間抜けな表情を浮かべていた。その表情は、予想もしないことを言われたという事を雄弁に物語っている。
シェリルはグレンの反応を見て、くしゃりと顔を歪めた。
「グレンにとっては大したことじゃなかったのかもしれない……。でも、私にとってはーー」
「ちょっと待て。何を勘違いしているのかわからないが、あれはシェリルに俺の魔力を移すためにした事だ」
「……え?」
「だから、怪我の完治を早めるために俺の魔力を分け与えたんだ」
シェリルはポカンと口を開けたまま固まった。グレンの言っている言葉は理解できるのに、頭が追いつかない。
「えーっと……つまり?」
「つまりってなんだ。そのままだろう? 人間の花嫁の寿命が何故伸びるかわかるか? それは、パートナーになる人魚の魔力を得るからだ。お互いの体液が交わーー」
「だぁぁあああ!! 詳しく言わなくていい! わかった! ごめん、わかったから!」
叫びすぎたせいでシェリルは肩で息をする。これ以上グレンの口から聞きたくはない。聞いている方が恥ずかしくて立ち直れなくなりそうだ。
「つまり、私の怪我の治りが早かったのはグレンのおかげってことなんだ」
「そうだ」
「それは……ありがとう」
シェリルの礼にグレンは頷き返す。
きっとあの場にいたニコラスも、話を聞いたジェフも、キスについてではなく、治りが早い理由を理解し納得していたのだ。人魚にとって人間の花嫁に対するキスとはそういう意味合いが強いのかもしれない。
しかし、人間であるシェリルの価値観で言えば、キスとは愛する人と交わす愛情表現の一つであって、魔力の受け渡しではない。ましてや好意を寄せる相手からとなれば、シェリルが勘違いしても仕方がないだろう。
シェリルの心が複雑に揺れる。戸惑いと共に抱いていた淡い期待。それが音を立てて崩れていくようだった。キュッと無意識に布団を握りしめたシェリルの手に視線を落としたグレンは、ポンポンッと優しくシェリルの頭を撫でる。ハッと顔を上げたシェリルの瞳に、目元を優しげに細めるグレンの姿が飛び込んできた。
「他に言いたい事があるのなら言ってしまえ。お前らしくないぞ」
「……グレン」
「ん?」
僅に首を傾げたグレンの仕草にシェリルの胸がトクンと小さく弾む。ちゃんとグレンはシェリルの言葉を待ってくれている。それがわかればわかるほど胸が締め付けられた。
グレンは優しい。出会った当初は気がつかなかったけれど、いつだってシェリルの意見を聞いてくれるし、シェリルを一人の人間として扱ってくれた。そんなグレンだからシェリルは惹かれていったのだ。
「わたし……私ね。グレンが好き。グレン以外のパートナーは嫌だと思うほど、グレンが好きなの。だから、グレンのキスにも期待しちゃったし、お見舞いに来てくれなくて寂しくて……それで私……」
声が徐々に震え、シェリルの頬を涙がつたい始める。泣くつもりなんかないのに、声を出せば出すほど涙が止まらない。シェリルはどうにかして誤魔化せないかと袖で涙を拭おうとした。しかし、それは叶わなかった。グレンがシェリルの腕を掴んで止めたのだ。
「グレーー」
「なんで期待しちゃ駄目なんだ」
「え?」
「俺がどうでもいい奴に魔力を分け与えると思うか? 願いを聞いてやると思うのか?」
グレンを見上げるシェリルの涙は止まらない。銀色の美しい髪も、大好きな空色の瞳も、不機嫌そうに歪んだ唇も、全てが歪んでシェリルにはよく見えなかった。けれど、腕から伝わってくる体温がグレンという存在をこれでもかというほどシェリルに知らしめる。
「二度と文句が上がらないようにと魔術を急いで習得しようとした意味も、お前へ渡したネックレスに他者には魔道具だとバレないよう複雑な魔術を組み込んだ意味も……なんで期待しちゃ駄目なんだ」
「だって興味があるとしか言ってないじゃない。そんなの……そんなの言ってくれなきゃわかんない! わかんないよぉ」
「あぁ……くそっ」
弱々しく項垂れかけたシェリルの両頬をグレンの手が包み込み、グッと顔を上げさせた。視界が滲んでいても見える程近い距離にグレンの真剣な顔がある。
「一回しか言わないからよく聞けよ。俺はお前が、シェリルが好きだ。他の奴に触れさせたくないほどにな」
「うっ、うぅぅぅうう……」
「おい、なんで泣くんだよ。泣きやめ」
「だっでぇぇええ……」
呆れた表情を浮かべながらもグレンの指の腹がシェリルの目元を撫でる。
シェリルは怖いくらい幸せだった。胸が苦しくて堪らない。溢れ出す感情が制御できないくらい、心が満たされていた。
「ほら、食べたら泣き止むかもしれないぞ」
「消化に悪そぉぉおお」
「とか言いつつ食べてるだろうが。あぁ、そう言えば」
一口サイズに切られた林檎が刺さったフォークを掲げながら、グレンはおもむろに言葉を区切る。モグモグと口の中の果物と格闘していたシェリルは何だろうかと首を傾げた。
「初めてのキスがどうのと言っていたが、俺だってシェリルが初めてだぞ?」
「んぐっ! ゴホッゴホッ……な、何を言って……だって、グレンはあれが初めてじゃないって」
「何を……あぁ、そうか。あの時は意識がなかったからな。シェリルが覚えてないのも仕方ないか」
「な……」
グレンの言っている意味がわからずシェリルは動きを止めた。そんなシェリルの様子もお構いなしにグレンはあっけらかんと重大なことを口にする。
「シェリルが湾に落ちた時、呪いのせいで真面に魔術も使えない俺がどうやってアクリムニアまで連れてきたと思ってる」
「ま、まさか……」
「シェリルに魔力を注ぎ込んで命を繋げたからに決まってるだろうが」
「えぇぇぇえええ!!」
というわけで、シェリルの大事なファーストキスは、ずっと前に奪われていたのだった。




