お見舞い
フカフカなベッドに上体を起こした体勢で座り、目の前に突き出された様々な種類の果実に視線を向ける。色とりどりのみずみずしい果物の横に並ぶのは、満面の笑みを浮かべたユーリスの顔だ。
「シェリルはどれから食べたい?」
「こんなにたくさん持ってきてくれるなんて。ありがとう、ユーリス」
「それは用意してくれたニコラスさんに言ってあげて?」
ねっ? と振り返ったユーリスの視線の先には、ソファーに腰掛け、優しげな微笑みをたたえる赤髪の美男子、ニコラスがいる。
「ナイフを借りてくるかい?」
そう声をかけてきたのはニコラスの隣に座るジェフだ。ジェフの問いにユーリスは首を横へ振った。
「大丈夫です。もうお願いしてありますから。みんなで食べましょう。さぁ、シェリル、どれから食べるか選んで?」
さらにずいっと果物の入った籠を押し付けられたシェリルは苦笑いを浮かべつつ、皆で食べるならと数種類を指差した。
薄暗い部屋からグレンに救出されて数日が経つ。怪我の状況が酷かったシェリルは、王城へと運ばれてすぐ治癒魔術を受けた。
シェリルの意識が戻ったのは王城に運ばれて二日後のこと。目覚めてからは、甲斐甲斐しく世話をしてくれる侍女達や医師に囲まれ、自分では作ることができないだろう食事を味わい、時々騎士が今回の事件の話を聞きに来るくらいで、後は柔らかなベッドに横になっているだけだ。まさに至れり尽くせりの数日間。けれど、シェリルは喜ぶどころか早く家に帰りたくて堪らなかった。
「それにしても、凄く酷い怪我だったと聞いていたけれど、回復が早くて何よりだったね」
本心からの言葉なのだろう。ジェフは穏やかな雰囲気を纏い、垂れた目を細める。
「怪我を見てくれた人にも同じ事を言われました」
シェリルはそっと怪我をした箇所を撫でる。王城の医師によれば、怪我は完治するのに一ヶ月程かかるものだったらしい。だが、シェリルは一週間程で身体を動かせるまでに回復した。今はユージスト家の屋敷に移り、火傷や打ち身などの治療を行っている。
何故こんなに回復が早かったのかと不思議そうに首を傾げるシェリルやユーリス、ジェフとは違い、ニコラスだけが何か知っているのか表情を変える事もなく憮然とした態度でソファーに座っていた。
「ニコラスは心当たりがあるのか?」
「それーー」
「そんなの、俺の魔力のおかげに決まってるだろうが」
答えようとするニコラスの言葉を遮った声の主は部屋の入り口に寄りかかり、不機嫌そうな表情でシェリルを睨んでいる。その人物の登場に動揺を隠しもせず肩を大きく跳ね上げたのはシェリルだ。
「いつまでそうやっているつもりだ」
「……」
シェリルはグレンから視線を逸らす。そんなシェリルの態度にグレンは大きく溜息を吐いた。
「何をそんなに怒ってる?」
グレンには自覚がないらしい。シェリルはそのことにますます腹が立った。
救出に来たグレンは、あの薄暗い部屋でシェリルに口づけをした。意識が朦朧としていた最中の出来事だったが、シェリルははっきりと覚えている。意外と柔らかい唇の感触も温かい体温も全て。
目が覚めた後もシェリルの頭の中はグレンでいっぱいだった。どういうつもりだったのか。どんな気持ちでキスをしてきたのか。聞きたい事が山ほどあった。
それなのに、シェリルが王城で療養している間、グレンは一度も見舞いに来なかったのだ。再び顔を合わせたのはユージスト家の屋敷に移動した後のこと。その時のグレンはキスなんてなかったかのように今までと変わらない様子で平然としていた。自分だけ意識しているのだと理解したシェリルは恥ずかしく、情けない思いに駆られた。
「シェリル嬢が怒るのも無理はないと思うぞ」
シェリルの代わりに答えたのはニコラスだ。
「口付けをするならば相手から承諾を得なければいけないだろう」
「あぁ……なるほど」
納得したように頷くジェフの反応を見て、シェリルは顔を真っ赤に染めた。ニコラスの言う通りだとシェリルは思う。シェリルにとっては、あれがファーストキスだったのだ。免疫もなければ、ムードもない。ロマンチックなファーストキスに憧れたっていいだろう。あんなボロボロで、相手と気持ちが通じ合ってもいない状態のキスなんて、シェリルの憧れるシチュエーションではない。
だけど、そんな堂々と皆の前で言わなくてもいいだろう、とシェリルは心の中でニコラスに泣きついた。しかし、そんなシェリルにさらなる爆弾を落としたのは、不満げに眉間に皺を寄せたグレンである。
「あの状態でか? 大体、初めてじゃないんだからーー」
「初め……え?」
それはグレンはキスをするのが初めてじゃないということか。恋愛に興味がなさそうなグレンの思いもよらない発言にシェリルは唖然とした。はっきり言ってショックである。あんなに美しいリスティアすら相手にしてこなかったグレンだ。女性経験があるだなんて誰が想像できるか。
シェリルの中に微かに芽生え始めていた期待が音を立てて萎んでいく。
「シェリル?」
いち早くシェリルの異変に気がついたのは近くにいたユーリスだった。掛け布団を引き寄せているシェリルの手をユーリスの手が優しく包み込む。僅かに震えていることに気づいたユーリスは、そっとシェリルの身体をベッドへ寝かせると、男たちへと視線を向けた。
「ちょっと疲れてしまったみたいです。今日はこの辺にしましょうか。シェリル、果物は後で食べてね? またお見舞いに来るから」
「……ユー、リス」
「大丈夫。怖がる事なんて何にもないよ」
全てを理解しているようなユーリスの眼差しにシェリルはぐっと喉を詰まらせる。
ユーリスに促され部屋を後にしていくニコラスやジェフが「お大事に」と声をかけてくれたが、シェリルはうまく笑みが作れていなかった気がした。
部屋に残ったのはシェリルと少し離れた所でジッとシェリルを見てくるグレンだけ。グレンから向けられる視線を避けるように顔を伏せたシェリルは頭の中でユーリスの言葉を反芻する。
ーー大丈夫。怖がる事なんて何もないよ。
どうしてユーリスはそんな事を言えるのだろうか。グレンの気持ちを知るのが怖い。期待しては打ち消す、その繰り返しが恐怖を増幅させていく。
だからといって、いつまでも逃げていたらグレンの気持ちは一向にわからないままという事も頭では理解していて、ミオーネの家で決意したはずなのに気持ちを伝えられていない自分の弱さもシェリルはわかっている。こんなにくよくよ悩むことが自分らしくない事も。
シェリルは肺にある全ての空気を吐き出すように細く長く息を吐く。それぐらい意を決するには時間を要した。
「……グ、グレン」
「どうした?」
顔を上げたシェリルの目に、グレンの姿が写り込む。険しい表情は先ほどと変わらない。けれど、空色の瞳に先ほどまでの苛立ちは見てとれなかった。




