本来の姿
じわじわと温まっていくにつれて身体の力が抜けていくのがわかる。思わず口から至福に満ちた息が漏れ、シェリルはコテンッと頭をへりにもたれた。
「贅沢だぁ」
腕を持ち上げ身体を伸ばせば、ザバザバァと水の跳ねる音が辺りに響く。魔法石を消費するので、いくら人間の世界より貴重ではないと言われても毎日入るのは気がひけるが、週に一度の楽しみとしてなら許されるだろうか。シェリルは湯船に肩までつかり、極楽気分を味わっていた。
「ちょっと長湯しすぎたかなぁ……そろそろ訓練が終わるかも」
研究所から帰宅したグレンは夕食を食べるとすぐに庭へと訓練に向かう。その間シェリルはとても暇なので、夕食の片付けを済ませた後はお風呂に入るのが日課になりつつあった。
ちょっと浸かろうと思っていても、お風呂というのは考え事をするにはうってつけの場所で、この前の出来事や母の事、グレンの事などを考えていれば時間はあっという間に過ぎていく。シェリルは使いすぎた頭をスッキリさせるように勢いよく顔にお湯をかけ、お風呂から上がろうと浴槽に手をかけた。
その時、浴室のドアの向こう側から何やら物音が聞こえ、シェリルはピクリと肩を揺らし動きを止める。グレンが家にいる際は結界が消えているのだが、侵入者がいればわかるとグレンは言っていた。だから、この家の敷地内にいるのはグレンとシェリル、家庭教師の三人のはずだが、グレンの感知できない人物が侵入してきたというのだろうか。
「泥棒?……まさかーー」
シェリルの頭の中に次々と悪い事が浮かんでは消えていく。咄嗟に近くにあったタオルを身体に巻いたシェリルは息を殺してドアを睨みつけた。
気怠げな足音が次第に近づき、曇りガラスのドアに影が映る。ゴゾゴゾと布が擦れる音が聞こえてきたかと思えば、ドアが勢いよく開かれた。シェリルはグレンに助けを求めようと思い切り息を吸い込む。だが、シェリルが助けを求めることはなかった。
「くそっ、上手くいかなーーん? あぁ、入ってたのか」
息を吸い込んだ状態のまま唖然と固まるシェリルに、浴室に入ってきた人物ーー生まれたままの姿で腰にタオルを巻いるだけのグレンは、僅かに目を丸くしただけで、普段と変わらない反応を返す。
ヒョロヒョロと細く弱々しい身体かと思えば、さすがにシェリルを抱き抱えただけあって程よい筋肉があり、眩しいくらいに肌が白い。髪色が銀色のせいか、服を纏っていないとまるで雪の精かと思えるほど色素が薄く、空色の瞳が異様な程輝いて見えた。
グレンはピクリとも動きださないシェリルに対し、それ以上言うこともなく当たり前のようにシャワーに手を伸ばす。その動きでグレンが出て行く気がないのだと悟ったシェリルは、わなわなと慄きながら幾分か低い声を発した。
「……なにをしてるのかしら?」
「何って、見ればわかるだろう。汗を流すんだ」
呆れた様子を見せるグレンの態度に、シェリルの中で何かがプツッと音を立てて切れた。
ーーこいつにとって私は女と認識されてないのかっ!
ザバァァア! と大きな水音と共にグレンに大量のお湯が襲う。もちろん手にしているシャワーからではない。シェリルが近くにあった桶で浴槽の水をこれでもかという程ぶっかけたのだ。突然の攻撃に反応することもできず、グレンは頭からお湯をかぶった。
「おまっ、何してんだっ!」
「それはこっちのセリフ! なに平然とお風呂に入ろうとしてんのよ!」
「嫌そうな素ぶりを見せなかっただろうが!」
「驚きすぎて唖然としてただけよ! って、あ、あし、あし、足がぁぁあああ! そして、タオルゥぅうう!」
「わかったから、五月蝿い」
シェリルの目の前には、へそから下が魚のヒレへと変化したグレンの姿があった。ヒレで立つことができないのか、寝転ぶ形となっているグレンの横には、先ほどまで腰に巻いていたタオルがたっぷりお湯を吸った状態で落ちている。
グレンの本来の姿をしっかりと見たことがなかったシェリルは、目を覆った手の指の間からグレンを盗み見た。ヒレを覆う鱗は瞳と同じ空色に艶めき、グレンの機嫌を表すかのようにペタンペタンと叩きつけられている。細められた瞳や濡れた髪から滴り落ちる雫がひどく色っぽくシェリルの目に映った。
「……気持ち悪いか?」
「違っ!」
どこか探るような問いかけにシェリルは首を横に振る。
確かに驚きはしたし、グレンは人魚なのだと再認識もした。獣人などの話を聞いたことはあるが会ったことはないので、シェリルにとっては初めての経験でもある。
初めてグレンの姿を見たのは生贄としてウンディー湾に落ちた時だ。あの時は死にかけていて意識も朦朧としていたので幻かと思っていたが、もしかしたらあの頃のシェリルにはグレンの本来の姿を受け入れる余裕はなかったかもしれない。
だけど、今は違う。シェリルはグレンがどんな人物であるかを知っている。良いところだけでなく、悪いところも知ってなお、そばにいたいと思っている。
だから、少しくらい見た目が違っても構わない。気持ち悪いなんて思うこともない。
「確かに多少驚きはしたけど……綺麗だと、思う」
「そうか」
ふわっとグレンが微笑む。その嬉しさの滲み出た笑顔に胸が疼き、思わずシェリルも目を細めた。
「グレンの本当の姿だもんね……滅多に見られないから貴重」
「なら、もっと見てるか?」
別に構わないと言いたげなグレンの言葉で我に返ったシェリルは、今の状況を思い出し、みるみる顔を赤らめていく。
「見ないっ! てか、出てってよ!」
「この状態ですぐは無理だ」
「っ! じゃあ私が出る。だから目を閉じて。それでもって、手で目を隠して!」
「シェリルがそう言うならそうするが……」
そう言うグレンは若干不満そうだ。なぜ不満なのか理由がわからないシェリルは、僅かに首を傾ける。
「なんでそんなに不服そうなのよ。私の身体が見たいと?」
少し戯けた口調で歪な笑みを浮かべたシェリルの言葉に、グレンは至極真面目な顔で頷いた。
「興味はあるな」
「持つなっ! あれ、違う……いや、やっぱり持つな!」
湯船に浸かっていた時よりも熱い身体を抱えシェリルは浴室から飛び出した。その間、グレンは律儀にも目を手で隠していたが、シェリルに確認する余裕はない。
恥ずかしいような、嬉しいような複雑な想いがシェリルの中をグルグルと駆け巡るが、これ以上何も考えないように力一杯身体を拭き上げた。そんなシェリルに向かってグレンがドア越しに声をかける。
「そうだ、シェリル。修繕したから、そこにあるネックレスを持っていけ」
「え? ネックレス?」
言われるがままに辺りを見回したシェリルは、ある一箇所で目を止め、思わず口元に手を当てた。
「これ……どうして」
「そのおかげであの森に辿り着いたんだ。魔宝玉はまだ作れていないが、まぁその代わりだ」
シェリルが手を伸ばした先にあったのは、新しいチェーンに替えられた貝殻のネックレス。森の入り口に置いてきたため、もう二度と戻ってこないと諦めていたネックレスが再び手元に戻ってきたのだ。
「結構気に入ってただろう?」
そっと貝殻をなぞるシェリルの手が震えている。見ていないようで見ていてくれたグレンの優しさがシェリルの胸を締め付けた。満たされていく心を抱きとめるようにネックレスを胸に引き寄せる。
「シェリル?」
反応がないことを心配したのかグレンが浴室のドアを開けようとするのをシェリルは手を伸ばし阻む。今の自分の顔を見られたくなかったのだ。
「大丈夫……グレン、ありがとう」
「……ああ」
シェリルの手を撫でるように曇りガラス越しにグレンの指先が映る。
その瞬間、シェリルはもうグレンから離れることはできないと自分の胸の内を悟った。




