やっと手に入れた休息
髪から漂う甘い香り、肌触りの良すぎる夜着、体を包み込む程に柔らかく弾力性のある大きなベッド。全てが最高級なのに何故か落ち着かない。シェリルはベッドの上に寝転がりながら、そわそわと何度も体勢を変える。
あの後、ミオーネの胸の中で泣き崩れたシェリルが落ち着くと、最初よりも穏やかな雰囲気でお茶会は再開された。
結局、シェリルは純粋な人間ではなく、人魚と人間のクウォーターということになる。ミオーネといい、ソユンといい、女性にしては魔力が高かった二人の人魚の血が流れているというのに何故シェリルの魔力は皆無なのかについては色々な話が出たが、魔力・魔術の専門家でもあるセバストが導き出した答えは、シェリルが人間の世界で生まれたからだろうということだった。
ソユンとシェリルの出生状況の違いは生まれた世界の違いしかない。人魚である母親の魔力量の多さや相手が人間である事、身ごもった世界が同じ事からも、それしか考えられないとセバストは言った。
どちらの世界でもそうだが、魔力量が遺伝であるからといって、多い親達から生まれる子供が必ずしも魔力量が多いとは限らない。少ない子供だって生まれてくる。
しかし、魔力皆無というのはありえないらしい。魔力の少ない人間同士ならばありえるだろうが、元々魔力が少ないと言われる位置づけの人魚でも人間よりは多いのだ。そんな人魚が片親なのに魔力皆無が生まれるはずがない。母親が人魚の時点で不貞を疑う必要もないのだから、セバストの答えにたどり着くのは当然とも言える。
魔力皆無の子が生まれるならば、魔力量が多い人魚の伴侶を生贄として捧げさせなくてもすむという話もチラッと出たが、人魚の世界に戻って出産したミオーネは魔力量が半減してしまったし、人間の世界で出産したソユンは魔力の枯渇で死亡してしまった。さすがにリスクが高すぎる、とセバストが反対し、この件は秘密にする事に決まった。
専門分野であるせいか、真面目に意見を述べてきたセバストを意外に思ってしまったのは、シェリルのセバストに対する評価が低すぎたからに違いない。
因みに、セバストがグレンとシェリルを屋敷に呼んだのは、グレンにユージスト家の跡継ぎに戻らないかという話をするためだった。
もちろんそのつもりの一切ないグレンにはバッサリ切り捨てられ、それどころか跡継ぎとして一生懸命努力してきたメルビスを愚弄する気かと皆から冷たい視線を向けられていた。やはりセバストは顔だけ良い最低男という認識で間違い無いようだとシェリルは心の中で思うのだった。
ーーコンコン
昼間の出来事を思い出していたシェリルの耳に部屋の扉をノックする音が届く。ここは夕食を皆で食べ、そのまま一泊する事になったシェリルに与えられた部屋だ。支度も済ませ、あとは寝るだけだというのに誰だろうか。まさかまたメルビスか、と嫌な記憶がシェリルの頭の中を駆け巡った時、返事を待つこともなく扉が開いた。
「だから勝手にへ、やーー」
メルビスだと思って文句を口にしかけたシェリルは、部屋に入ってきた人物を確認し唖然とする。
「なんだ、まだ起きてたのか」
そう言って手に持つ魔導照明を掲げたのはグレンだった。上下紺色の夜着の胸元からは白い肌が惜しげもなく覗き、持ち上げた照明によって空色の涼しげな瞳が薄暗い部屋に浮かび上がる。銀色の髪は風呂に入ったおかげでサラサラに戻っており、異様な程色気を放っていた。
シェリルはパクパクと酸欠の魚のように口を動かすことしかできない。その間にグレンは平然とした様子でベッド近くまで歩み寄ってきていた。
「すごい面白い顔になってるぞ」
「なっ、や、え? 何を堂々と入ってきてるの?」
「何を言ってるんだ? 寝るために決まってるだろう」
もはやシェリルの頭は思考停止寸前だ。ここはシェリルが寝るために用意された部屋のはずである。グレンが来るなど予想していない。
そこでやっと自分がベッドにだらし無く横になっている状態だったことを思い出したシェリルは、慌てて上体を起こすと、布団を引っ張り露出している部分を隠した。
「こ、こ、ここは私の部屋でしょう?」
「俺たちの部屋だ」
「なっ! だって、私達まだ結婚してないし」
「今更だろう。人魚族にとっては婚約も結婚もそう変わらない扱いだからな。そんなことを気にするのなら俺の家で二人で過ごすと言われた時点で言え」
「んなこと知るかー!」
恥ずかしさの限界に達したシェリルは近くにあった大きい枕を力一杯グレンに投げつけた。しかし、枕はグレンに当たることなく下へと落ちていく。
「魔力の制御はまだまだだが、シェリルのおかげで防御膜だけは上達したからな」
そう言って得意げに防御膜で枕を弾くグレンを目にし、シェリルは怒りを通り越し呆れてしまった。どこに女が投げた威力の弱い枕を鉄壁の防御膜で凌ぐやつがいるか。
全身から力が抜け落ちたシェリルは頭に手を当て、ため息を漏らした。
「まぁ、諦めるんだな。別々の部屋で寝たりしたら、あの魔女が此れ幸いとお前を連れて帰りそうだ。そんなに気になるんなら俺はこっちのソファーで寝るからいい」
「え、いやでも……」
「黙ってそのベッドで寝ていろ。このソファだって大きいし、普段床で寝てるくらいだから十分だ」
グレンは部屋の隅にある大きなソファーにゴロンと横になった。シェリルからはソファーの背もたれのせいでグレンの姿は見えないが本気らしい。暫くするとソファーの方から小さな寝息が届いてきた。
シェリルはタオルケットを手にソファーに近づく。回り込んで覗いた先には、クッションを枕にして眠るグレンがいた。
閉じられた目は長い睫毛で隠れ、銀色の髪が僅かにかかる。はだけた胸元から見える筋肉や浮かび上がる鎖骨がシェリルの心拍数を上げ、慌てて隠すようにタオルケットをかけた。
シェリルはその場でしゃがみこみ、グレンを眺める。何故だかいつまでもそうしていたい気分だった。
何だかんだ言って、グレンとシェリルが向き合ってまだ一日も経っていない。グレンが迎えに来て、怒涛の訓練をし、昼過ぎの会議に乗り込んだのだ。短い時間に色々な事がありすぎて、落ち着いてグレンを見る事などできなかった。
シェリルはそっと目にかかっている髪を払う。顔に少しだけ触れた指先がジンジンと痺れるような気がした。
「……すき」
内緒話をするように囁いた言葉を起きているグレンに伝えられる日は来るのだろうか、とシェリルは思う。興味を持ってもらったのだから、次のステップは好意を持ってもらうこと。そうならないと言えそうもないなとシェリルは少し寂しげに眉を下げた。
「緊張で眠れる気がしない」
情けない声を漏らしながらシェリルが立ち上がりベッドに足を向けた瞬間、ソファーの上から物音が聞こえてくる。動揺で肩を大きく跳ね上げたシェリルは、恐る恐る背もたれの上からソファーを覗き込んだ。
「……な、なんだ寝返りか」
シェリルはグレンの寝相が変わっただけであることに気づき、ホッと安堵の息を吐くとベッドに戻っていったのだった。




