母、ソユン
シェリルは恋愛という経験がない。いや、詳しく言えば、今まさに初めての恋愛真っ最中なのだが、男女の恋心や駆け引きには疎いと自覚している。なんせグレンが少し優しくしてくれただけで舞い上がってしまうくらいだ。
だからと言って、愛し合う男女を見たことがないわけではない。両親は子供の前でも仲良くくっついていて、毎日のように母からは惚気を聞かされていた。家族愛とはまた異なる愛。それが、両親の見せた愛なのだろう。
では、今目の前で起きている事柄は一体なんなのか。
「東の森にお住まいなのですか?」
「ええ。何もないところだけれど、静かで気に入っていますのよ」
「屋敷からあまり出たことがないから、行ってみたいですわ」
「では今度お越しくださいな。お菓子を焼いて待っておりますわ」
うふふーー、あははーー、と優美な笑い声がセバストの頭上を行き来する。ミオーネとエレシースに挟まれているセバストは甘い笑みを貼り付けてはいるものの、剥がれ落ちるのも時間の問題な気がしてならない。
決してミオーネもエレシースもセバストを邪険にしているわけじゃない。セバストに紅茶や菓子を勧めたり、お話に混ぜたりと甲斐甲斐しいくらいである。何も知らなければ、ただの素敵なお茶会だ。されど、実際は男を挟んで、その男の妻と昔の恋人が楽しそうに言葉を交わしている。その異常さにシェリルは嫌な汗をかき始めていた。
呪いをかけるほどに愛し、憎んだ男に普通に話しかけているミオーネの本心も、愛人になりかけた女と笑い合っているエレシースの感情も、シェリルにはわからない。逆に、引きつった笑みを浮かべているセバストの気持ちの方が理解しやすいくらいだ。
だが、見ていて気づいたのは、ミオーネには勿論だが、エレシースにもセバストに対する情熱的な愛がないということ。もしかしたら、エレシースは既にシェリルではたどり着けない境地にたどり着いてしまったのかもしれない。
「そ、それで……ミオーネはどうしてここに?」
意を決してセバストが疑問を口にする。シェリルも聞きたかったことなので、ミオーネに視線を向けると、バチリと視線がぶつかった。ミオーネの口角がふわりと上がる。
「どうしても何も、孫の結婚相手の家に挨拶に来ただけよ?」
「ま、ご……孫っ!?」
サラッと伝えられた耳を疑う事実にシェリルは思わず椅子から立ち上がってしまった。驚いているのはシェリルだけではないらしく、セバストとグレンもポカンと間抜けな程に口を開けて固まっている。エレシースだけは扇で口元を隠す余裕があり、流石というしかない。
「あら、そんなに驚く事かしら? 私だって子供を産めるわよ」
いや、そういうことじゃない、と皆が心の中で訴えたに違いない。言葉にする事ができず、口をパクパクさせたままのシェリルにミオーネは笑みを深めた。
「ソユン……貴女の母は私の娘なの」
「え、や、でも」
それでは可笑しくないだろうか。セバストを取り合ったはずのエレシースの息子と、ミオーネの孫が結婚。シェリルの常識とかけ離れすぎている。
「シェリル。教えられたと思うけれど、魔力量が多い人魚は子供を身ごもりにくいの。どれだけ魔力量の相性が良くてもね。私は彼と出会って二年半くらいで身ごもったけれど、かなり特殊だと思うわ」
「ちょ、長く引きずったって言ってなかったですか!?」
「半年も引きずれば十分よ」
セバストとの思い出を呆気なく切り捨てたミオーネにシェリルは苦笑いを返す他なかった。隣に座るセバストも複雑そうな表情を浮かべている。
この会話で一番可哀想なのはグレンだ。半年で吹っ切れるような感情なのに呪いの被害を受け続けてきたのだから。シェリルが心配気にグレンを盗み見ると、眉間の辺りを指でグリグリとマッサージしているグレンの姿があった。
「……大丈夫?」
「ああ……なんとかな」
絞り出されたグレンの声にシェリルは思わずグレンの服の裾に手を伸ばした。気づいたグレンはシェリルへと視線を向け、眉間に置いていた手をそのままシェリルの頭に移動させる。ポンポンっと指でタップしただけの軽いものだったが、突然の接触に忽ちシェリルの頬が熱を帯びた。
「心配するな。もう呪いは解けたんだ」
「うん」
コクリと頷いたシェリルの反応に満足したのかグレンの手が離れていく。それを名残惜しく目で追っていたシェリルを現実に引き戻したのはエレシースの声だった。
「呪いが解けたということは……ミオーネ様が解いてくださったのですね」
「可愛い孫のためですからね」
「これも運命だったのかしら。グレンは十七年目にしてやっと身ごもった子だったのですよ。こちらの世界では珍しくもないことのようですけど、あまりに歳が離れていればグレンとシェリルさんが結ばれることはなかったはず。それに、シェリルさんのお母様もまた早くに貴女を身ごもられたのね」
感慨深げに言葉を紡いだエレシースは優しい眼差しをシェリルに向けた。それは紛れもなく母の目だった。
シェリルは母、ソユンの事を思い出す。言われてみれば、ミオーネはソユンと面影が似ていて、母譲りのシェリルの黒髪も同じである。ミオーネに出会った時から感じていた言い様のない安心感は無意識のうちにソユンと重ね合わせていたからかもしれない。
「……母は、私が五歳の時に亡くなりました」
「そう…………ソユンは魔力が私と同様に多かったから、空気中の魔力が少ない人間の世界でもそれぐらい生きられたのね」
「じゃ、じゃあ、母の死因は病気じゃなくて……」
シェリルの声が僅かに震える。シェリルの中では、あり得ない答えが導き出されていた。それを全力で否定したかったシェリルにミオーネは無情にも答えを突きつける。
「魔力の枯渇でしょうね。人魚は十五歳で成人とみなされる。ソユンはすぐに秘密のルートで人間の世界に向かったわ。あの子は私に似て、思い立ったら即行動の子だったから。シェリルに話した私が二人目に恋した人はね、人間の世界で出会った人だったの。ソユンにも話して聞かせていたから憧れたのかもしれないわね」
「な、なら! 父を連れて人魚の世界に戻ってくればよかったじゃない!」
「それはできないと教えたはずよ」
シェリルの悲痛な訴えに答えたのはエレシースだった。確かに、エレシースは夜会の時にリスティアに言っていたはずだ。人間の花嫁をもらう儀式以外で人間を人魚の世界に連れてくると魔力を全て人間に吸い取られてしまう、と。
「私はソユンを身ごもったとわかった時、彼と共に生きることを諦めてこちらに戻った。けれど、ソユンは最後までシェリルと愛する人、三人で生きることを選んだのね」
「……っ」
「あの子は、ソユンは幸せそうだったかしら?」
シェリルはもはや頷き返すことしかできなかった。ぐっと詰まる喉から漏れそうになる嗚咽をなんとか飲み込むも、瞳から溢れてくるものは止められない。
「シェリルに森で出会った時、ソユンじゃないかと思ったわ。だって、私が最後に見たあの子にそっくりだったんですもの。人間の世界で身ごもった私の魔力量は以前の半分にまで減ってしまったから、もう二度と人間の世界には行けないと会いに行く事を諦めていたけれど、シェリルが会いに来てくれた。私、凄く嬉しかったんだから」
そう言って強く抱きしめてくれたミオーネから母と同じ香りを感じ取り、シェリルは堪えきれずミオーネの胸に顔を埋めたのであった。




