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訪問者の名は

 ミオーネの家の奥にある寝室として使われているのだろう部屋に逃げ隠れたシェリルは、ドアに耳を当てながらひっそりと息を潜めた。

 もしかしたら逃げ出した人間の花嫁を捕まえに来た城からの使いの者かもしれない。こんな森の何処だかわからないところに潜んでいるというのに一日程で見つけ出すとは、かなりの執念である。見つかれば確実に城へと連れていかれ、新たなパートナーに渡される事だろう。


 そうなればグレンには二度と会えない。折角意を決したというのに、なんとも情けない結末である。

 まだ姿も名前も知らない人魚の横に自分が立ち、遠く離れた所にいるグレンの隣にはリスティアがいる。そんな想像をしてしまったシェリルは無意識に両腕で身体を抱えた。そんなシェリルの耳にドアの外にいる人物の声が届く。



「誰かいないか」



 その声を聞いた瞬間、ゾクリと胸が騒めいた。高くもなく低くもない声はいつもなら温度すら感じられないほど無機質なのに、今は酷く焦りが滲んでいる。



「何の用かしら」

「少しお尋ねしたいことがある。ドアを開けてはくれないか」

「名も名乗らない人のために開けることはできないわ」

「失礼した。私はグレン・ユージストという者だ」



 シェリルは思わず手を口に当てた。そうしないと声を上げてしまいそうだった。普段よりも堅苦しいのは外向けのせいだろうか。だが、会いたいと思っていた人がすぐそばにいる。シェリルの鼓動が煩いほど大きくなった。胸が苦しくて息が詰まりそうだ。けれど、シェリルは違う意味で息を止めることになった。



「ユージスト? 貴方、ユージストと言った?」

「……そうだが」

「そんな人を入れるわけがないでしょう。とっとと帰りなさい」



 ミオーネの声は聞いた事がないくらい冷え切っていた。シェリルは唖然としながらそのやり取りを聞いていたが、ミオーネが本気でドアを開ける気がないと気づくと、慌てて部屋から飛び出した。



「ミオーネさん!」

「ちょうどよかった。話も終わったし食事にしましょう」



 先程とは打って変わって、穏やかな声で笑いかけてくるミオーネにシェリルは声を詰まらせる。硬い表情のシェリルに気づいたミオーネが首を捻った。



「どうかしたの?」

「え、あ、いや。今、グレン・ユージストとーー」

「その名前を言わないでちょうだい」



 ドアを指差し訴えかけるシェリルの言葉をミオーネはピチャリと切り捨てる。今度こそシェリルは泣きそうになった。



「なんで、だって、私の話を聞いてくれたじゃない」

「何を言って……まさか」



 唖然とした表情のまま固まってしまったミオーネは「そんな、うそ……」と言葉にならない声をこぼしながら椅子に雪崩れ込むように腰を下ろした。思いもしない反応にシェリルは困惑する。

 ミオーネの様子を見るに、意地悪でグレンを遠ざけたわけではないようだ。



「おいっ! そこにいるのか!」



 ドンドンとドアが鳴り、グレンの叫ぶ声が家の中に響き渡る。シェリルはどうしたらいいのかとオロオロ視線を彷徨わせた。

 ミオーネは何かを考えこんでいるのかピクリとも動かず、グレンはドアを叩き続けている。先に行動を起こしたのはグレンだった。


「悪いが失礼する」という言葉と共にドアが不自然な悲鳴を上げる。打撃を食らわすような音が止むと、ドアがゆっくりと動き出した。外から入ってきた冷たい風がシェリルの頬を撫でる。

 開かれたドアの先に立っていたのは、皺くちゃで所々破けた跡のある服を纏ったグレンだった。艶やかな銀髪も乱れており、空色の瞳は何かを探すように揺れている。疲労感漂うグレンの表情にシェリルは何とも言えない気持ちになった。


 グレンの瞳がシェリルの姿を捉える。その瞬間、グレンがホッと肩の力を抜いたのがシェリルにもわかった。

 心配してくれたのだろうか、という淡い期待がシェリルの中に生まれる。けれど、そんな気持ちもすぐに消え去った。いつの間にか復活していたミオーネがグレンとシェリルの間に立ちはだかったのである。



「腹が立つくらいそっくりね」



 背を向けて立っているためミオーネの表情はシェリルから見えないが、ミオーネの声はとても刺々しかった。



「その銀色の髪も、青い瞳も、整った顔つきも。父親と同じ」

「……あいつを知っているのか?」



 グレンは僅かに目を見開らき驚いた様子を見せたが、すぐさま険しい表情に戻る。明らかにグレンはミオーネを警戒している。バチバチと火花を散らし睨み合う二人の姿を見て、シェリルは咄嗟にミオーネの横に並んだ。



「あ、あのね。ミオーネさんは彷徨っていた私を助けてくれたの」



 必死にミオーネをフォローするシェリルの言葉にグレンの眉間の皺がより深くなった。何故そこで不機嫌さが増すの! と心の中で悲鳴を上げていたシェリルの肩を抱き込むようにミオーネの手が伸びてくる。そのまま勢いよくミオーネと向き合わされたシェリルは、ミオーネの不満気な表情に若干身を引いた。



「ねえ、シェリル。考え直さない? この男が貴方のパートナーだった(・・・)人魚でしょう? 私と一緒に暮らしましょうよ。きっと楽しいわよ」



 昨夜の女同士の語り合いでは背中を押してくれていたはずのミオーネの提案にシェリルは困惑して口が開けない。この態度の変化は何なのか、とシェリルが必死に考えていると、横から相手を凍らせてしまいそうな程冷たく低い声が二人の間に割り込んできた。



「勝手なことを言うな」

「じゃあなに? 迎えに来たとでも言うの? 元はと言えば、貴方の煮え切らない態度がこうなった原因だと思うけれど」



 ミオーネの棘は一向に収まる気配がない。確かにこんな状態になったのはグレンのせいでもあるが、自分の気持ちと向き合えなかったシェリルだって原因の一つだ。

 ミオーネの攻撃を受け、黙り込んでしまったグレンをシェリルはどうフォローすればいいのかと頭を悩ませる。もはやこの状況を打破することでいっぱいのシェリルは、何故グレンがやって来たのかという一番大事な事にまで頭が回っていなかった。



「ミオーネさん、彼はーー」

「それは悪かったと思っている。だが、俺には彼女が必要らしい」

「…………へ?」



 シェリルはポカンと口を開け酷く間抜けな表情のまま、錆びついた機械のようにグレンへと視線を向ける。シェリルの紫色の瞳には真剣な眼差しで自分を見つめてくる男の姿が映り込んだ。

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