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迷子

「……ハァ……ハァ」



 荒い呼吸音が煩いくらい耳に響く。決して走っているわけじゃないのに、胸が痺れるように痛くて息がしづらい。

 研究所を飛び出し、賑わう商店街を抜け、人の気配がない静かな道をひたすら歩く。シェリルは今、誰にも会いたくなかった。


 ただひたすら知らない道を突き進む。足を止めてしまえば考えたくない事が次々と思い出されそうで、シェリルは黙々と身体を痛めつけるように足を進めた。


 シェリルは目の前に鬱蒼と茂る森が現れたことでようやく足を止める。森の奥は光が届いていないのか陰っていてよく見えない。

 シェリルはふっとアクリムニアについて書かれた人間の花嫁用の分厚い本を思い出した。その本には地図も載っていて、東の方に広大な森があった気がする。雨の降らない湾の底にたくさん木が生えるとはどういうことだ、とグレンに聞いた時、大地から魔力を吸収して生きる魔木だと言っていたはずだ。面倒臭そうに答えたグレンの顔を思い出しシェリルは小さく息を吐いた。



「どうしよう」



 何が起こるかわからないところへ進むのは怖い。シェリルには自分を守る力もなければ、アクリムニアの知識も乏しいのだから。

 だけど、どこへ行っても変わらないのではないかとも思えてくる。この世界でシェリルが知っているのは研究所と城、ユージスト家、商店街くらいだ。その他の場所ならばどこも変わらない。人が少ないという点では森の中の方が今のシェリルにとっては居心地が良いだろう。


 僅かに痛む足へと視線を落としたシェリルの瞳にキラリと光るものが映る。いつも肌身離さずつけていた貝殻のネックレス。つけるのが当たり前になっていたせいですっかり忘れていた。

 シェリルはネックレスに手をかけると、一瞬躊躇するように動きを止めたが、そのままネックレスを外す。手の平の上で転がる貝殻の輪郭が僅かに歪み、咄嗟に目線を空へと向けた。



「これで……完全に……」



 近くの木に近づいたシェリルは、低い位置にある枝にネックレスをかけ、森の中へと足を踏み出す。投げ捨てる事も、地面に転がしておく事もできなかった。もしかしたら誰かの目に留まり持ち去られてしまうかもしれない。けれど、汚れて駄目になるくらいならその方がいい。

 あのネックレスはシェリルが初めてもらった贈り物で、何よりもグレンが作った魔道具だから。




 森の中は湿度が高く、服が肌に張り付いてきた。地面からうねって突き出す木々の根も歩きづらさを増幅させ、シェリルの息遣いはより荒くなっていく。枝を大きく広げる魔木が空からの光を遮断し、自分がどれくらい歩いているのかもわからなくなっていた。


 シェリルは近くにあった太い根に腰を下ろし、大きく深呼吸をする。真っ直ぐ歩いて来たつもりだが、背後を振り返ってみても、前を見ても景色に変わりはない。完璧に迷子だ。

 シェリルの口から思わず乾いた笑いがこぼれ落ちた。



「……ほんと、なにやってんだろ」



 昔から感情が高くぶると考える前に行動を起こしてしまう自分に対して、シェリルは馬鹿だなと呆れてしまう。

 わかっていたはずだったのだ。グレンがシェリルを人間の花嫁として受け入れていない事を。それなのに、シェリルは心のどこかで期待していた。グレンが魔道具について相談してくるのは自分だけで、グレンが食事をとるようになったのも自分のおかげだと僅かな特別感を抱いていた。


 だから、グレンの言葉が胸に刺さった。


『私がここから出て行くと言ったら?』

『お前が選ぶ事だ。俺は何も言わない』


 いつもとなんら変わらない声色。悩む事も躊躇する事もなく、引き止めようともしない。

 シェリルがいてもいなくても、どちらでも良い、という意味合いのその言葉はシェリルの存在を否定しているのと変わらなかった。シェリルの中に少しずつ積み上げられていた期待が一瞬で崩れ去るには十分だ。正直に言えば、崩れて初めてそれ程までに積み上がっていたのだとわかってしまった。


 何にも持たず、価値をも見出せない己に唯一真っ直ぐぶつかって来てくれた存在。



「……あぁ、一人って」



 ーー寂しくて、心細い。

 あんなに一人で生きて来たのに、たった数日ずっと一緒にいただけで、何もしてくれなかったはずのグレンをとても頼りにしてしまっていた。忘れかけていた他者の温もりを思い出してしまった。




 シェリルは膝を抱え、顔を埋める。

 もうこの世界に自分の生きていける場所はない。(人間)の世界にも戻れないし、人魚の世界でも一人では生きていけない。戻って他の人魚の花嫁になるという選択肢はあるが、自分達の都合でパートナーを変えるような人達の選んだ新しいパートナーに期待なんてできない。



「というか、期待って何に?」



 きっとメルビスのように人間の花嫁が欲しい人魚がパートナーに選ばれるはずだ。それならば、扱いが悪いことはないだろう。それどころか、グレンの時と比べれば何倍も大切に扱われるに決まっている。それのどこが期待できないというのか。

 答えは簡単だ。だけど、その答えがグレンと出会ったばかりの頃にグレンに対して抱いていた不満と反対すぎて、シェリルは頭が痛くなりそうだった。


 シェリルの頭が、心の片隅に隠しこんでいた気持ちを少しずつ認識し始めている。絶対ありえないと思っていたのに。大っ嫌いだったのに。

 ズキズキと痛む胸。熱くなる目頭。ツーンとする鼻。冷たく感じる指先。何もかもが物語っている。けれど、気づくには遅すぎた。いや、気づいたとしても己に自信のないシェリルにはどうすることもできず、気持ちを持て余していたかもしれない。



「これで……これでよかったのかもしれない」

「何がかしらね?」



 自分に言い聞かせるように吐いたはずの言葉に返答があり、シェリルは飛び上がらんばかりに勢いよく顔を上げた。



「こんなところで何をしてるのかしら?」



 にこりと笑いかけて来たのは、薄暗い森の中では浮いて見える真っ赤なローブを羽織った一人の女性。シェリルは風が葉を揺らす音くらいしか聞こえない静かな森の中で、手を伸ばせば届きそうなほどの距離に人が近づいて来ていたことに驚いた。



「あ、貴女は……誰?」

「ふふふーー私? そうねぇ、皆からは東の魔女と呼ばれているわ」



 そう言って微笑んだ女の赤い瞳からシェリルは目が離せなかった。

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