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生きていれば腹はへるものである

 鼻をくすぐる香ばしい香り、食欲を増幅させる食材の焼ける音。そんな中で一人忙しなく手を動かす人影がある。大人数の料理を作るなら手際よくこなさなければ終わりなど見えてこない。シェリルは横目で時計を確認しつつ、次々と料理を作り上げていた。



「今日は何だ」



 背後から突如かけられた声にシェリルは時が止まったように不自然な体勢のまま動きを止める。研究所の台所で食事を作っていると、その匂いに誘われやってきた研究員に声をかけられる事はよくある。おかげで顔見知りも増えてきた。

 だが、今自分にかけられた声をこの場で聞くなどありえない。もしや空耳だったのか、とシェリルは自分を納得させ再び動き出す。



「おい」



 しかし、再びかけられたその声にシェリルは狼狽しながら、恐る恐る振り返る。振り返った先には、腕を組み、若干不機嫌そうなオーラを放つグレンの姿があった。



「何無視してる」

「え、あ、いや……」



 いつもとは全く正反対の構図に戸惑うしかないシェリルの口からは歯切れの悪い返事しか出てこない。グレンはシェリルに近づくと、肩越しにシェリルの手元を覗き込む。グレンからの突然の接近に、シェリルは思わず身を引いた。



「それ、なんだ?」

「野菜の肉巻き」

「……」

「ちょっと、あからさまに嫌な顔しない。好き嫌いしないで食べなさい」



 眉を寄せ、綺麗な顔を盛大に歪めたグレンを見て、シェリルは冷静さを取り戻す。



「他は?」

「ポタージュスープとサラダと……」

「なんで野菜ばかりなんだ」



 食べに来てくれる研究員には悪いが、あくまでもシェリルが作っているのはグレンのための食事だ。だから、シェリルはグレンに食べさせたい料理を作る。研究員達も理解しているのか、料理のリクエストをしてくるものはいない。



「……ポテトも野菜だろう」

「それしか食べないでしょ」



 シェリルは呆れた表情を浮かべながら再び手を動かし始めた。その様子を若干納得のいっていない顔でグレンは眺めている。最初は気にせず動いていたシェリルだったが、突き刺さってくる視線に耐えきれなくなり、グレンに視線を向けた。



「なに?」



 グレンが台所に来たのは初めてである。いつもは研究室に篭りきりで、シェリルが食事を持っていき、忍耐強く声をかけなければ食事もしない。

 それなのに、なぜグレンは台所にいるのか。何か用事があるのかと思っていれば、黙ってシェリルを眺める始末。シェリルはグレンの真意が全くわからなかった。



「何か用事があったんじゃないの? 魔道具へのアドバイスとか?」

「いや」

「それじゃあーー」

「腹が減ったから」

「…………へ?」



 カランカランと音を立て落ちた菜箸が床で踊った。もちろん落とした犯人はシェリルである。信じられないものを見るような目をしたシェリルに反し、グレンは至って普通の表情で菜箸を拾い上げていた。



「お、お、お……お腹が空いたから、来たの?」

「今そう言っただろう」

「いや、だって……体の調子が悪いとか?」

「失礼だな。誰でも腹は空くだろうが」



 どの口がそれを言うっ! とこの時のシェリルは驚きのあまり思う事さえなかった。

 あの食事なんて研究の邪魔でしかない、と本気で思っていそうなグレンが食べ物を欲している。湾の底にあるアクリムニアに雨が降るくらいあり得ないことだ。そういえば、シェリルが研究所を抜けた時も、空腹でシェリルがいない事に気がついたと言っていたかもしれない。シェリルは呆れを通り越し感心してしまった。グレンは良くも悪くも、己に忠実なのだ。



「そう……そうなんだよ、人間はお腹すくんだよ。いや、人魚もお腹すくよ! うん、食べよう食べよう」

「あ、ああ」



 直前までとは一変して、満面の笑みを浮かべるシェリルに若干グレンは戸惑いを見せる。だが、シェリルは構うことなくグレンの両手に料理が盛り付けられた皿を手渡した。



「じゃあ手伝って。これをテーブルに並べてね」

「……並べればいいんだな」



 初めての事にどぎまぎしながら、慣れない手つきで皿をテーブルに運ぶグレンの姿をシェリルは面白そうに見つめる。さすがに何度もシェリルと食事をしてきているせいか、グレンが並べ方に迷う様子は見られない。



「これもお願い」

「わかった」



 文句を言うこともなく、渡された皿を手に取るグレンを見つめながら、シェリルはまさかこんな日が来るとは、と感慨深い想いにかられた。自分の涙ぐましい努力の成果が今目の前で披露されている気分である。



「もう運ぶものはないのか? ないなら食べるぞ」

「あ、うん」



 一緒に食べる事が当たり前の様なグレンの言葉に、シェリルは胸が苦しくなった。胸を押さえその場に立ち尽くしているシェリルに、グレンは怪訝そうな眼差しを送る。



「どうした?」

「ううん……なんでもない」



 勢いよく首を横に振ったシェリルを静かに見つめていたグレンだったが、そのまま何も言う事なくテーブルについた。慌ててシェリルも席に着き、どちらからともなく「いただきます」という言葉と共に食事を始める。

 二人が食事中に会話を交わすことはない。ただ黙々と食べ進めていく。シェリルはそれが苦痛ではなかった。何故なら、シェリルの父も全く話さなかったからだ。


 シェリルの視界の端で、野菜の肉巻きに伸びたグレンの手が僅かに止まり、ひどくゆっくり動き出す。思わずシェリルは口元を緩めた。

 グレンは決して嫌いとは言わない。けれど、最初の頃は野菜をよく残していたので簡単に好き嫌いがわかった。でも、最近は残す事がない。だからといって嫌いな物を克服したわけではないことをシェリルは理解している。


 ちっぽけな変化なのかもしれない。綺麗に食べられた皿も、空腹に耐えきれず台所にやってきたことも、返ってくることが増えた言葉達も。

 しかし、出会ったばかりの頃と比べてしまえば大きな変化だ。それはシェリルにも言える。あんなにも嫌い、何故こいつが相手なんだとすら思っていたのに、今ではグレンが自分を受け入れつつある事を嬉しく感じ、このままグレンの人間の花嫁でいられればとすら思い始めている。


 きっかけなどわからない。感情なんて複雑なように見えて単純なのだ。嫌いが好ましいに変わった瞬間、何もかもが見え方を変える。

 そして、二人の纏う雰囲気すらも変えてしまう。






「なーんか、丸く収まった感じか」

「そうですね。なんだが、入りづらいですよね」

「あー、早くシェリルさんのご飯にありつきたい」



 入り口の廊下側の壁に張り付くジェフと研究員仲間のギルの表情は、ぼやきながらも明るい。心配していた事柄が上手くまとまってくれそうだ、という安堵感からか周りに気を配る様子もなく、身体から力を抜いて壁に寄りかかっているくらいだ。

 だから、近くで放たれていた冷気に気づくのが遅れてしまった。



「あれは何ですの」

「っ!?」



 腹の底から吐き出されたかのようなドロリとした声がジェフとギルの耳に届く。その声があまりにも近くで聞こえたものだから、二人は身を固くした。



「もう我慢ならないわ」



 零れ落ちた言葉はまるで呪いのよう。恐る恐るジェフとギルが振り返れば、言葉を吐いただろう人物はもうその場にはいなかった。

 少し先の廊下に、騎士二人を従え、鮮やかな橙色のドレスを纏った女性の後ろ姿が見える。さらさらと揺れる艶やかな金色の長い髪が、やけに鮮明に映った。

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