兄と弟
ビリビリと肌を刺すような空気が辺りに漂う。メルビスから向けられる怒気を含む眼差しに、シェリルはグレンの服の袖を無意識に掴む。それを見たメルビスはより一層睨みを強め、一歩一歩ゆっくりと部屋の中へ入ってきた。
「何しに来た」
「突然姿を消したんでな。探したらここに辿り着いただけだ」
グレンはメルビスの鋭い眼差しに怯える様子もなく、淡々と言葉を返す。二人が纏う空気の温度差にシェリルは困惑を隠しきれないが、雰囲気にのまれ口を開くことはかなわなかった。
「彼女は俺が娶る。だから彼女を置いてさっさと去れ」
「だそうだが、どうするんだ?」
呑気に回答を促してくるグレンに対し、文句を投げつけたい思いに駆られたシェリルだったが、メルビスが恐ろしく必死に首を横に振るだけで答える。
「悪いな、メルビス。こいつは連れて帰る。世話になった」
「なっ! ふざけるなよっ。あんたは人間の花嫁に興味ないだろう。それなら俺にーー」
「本人が帰りたいと言っているんだから諦めろ。メルビス、お前は人間の花嫁なんかいなくても立派な跡継ぎだ。そこまで人間の花嫁にこだわる必要なんてないだろう」
グレンの言葉を聞いた瞬間、メルビスからギリッと拳を握り締める音が聞こえてきた気がした。顔を伏せ黙り込んだメルビスの肩が僅かに揺れ、風が吹き込んできた訳でもないのに銀色の髪がふわふわと浮き始める。
それを見たグレンが顔色を変え「落ち着け、メルビス」と若干焦りを含んだ声をかけた。
「あんたは……いつもそうだ。俺が欲しいものを当たり前のように手にしておきながら、それを価値のないもののように扱う。他に興味がないのなら消え去ってくれればいいものを、あんたは今でも周りの視線を集めるんだ。立派な跡継ぎ? 笑わせるなよ。いつもあんたに敵わない俺が立派だって?」
「メルビス」
ばっと顔を上げたメルビスと視線がぶつかる。美しい顔は怒りで歪み、今にも飛びかかってきそうである。
「俺が今この魔力をぶつけたらあんたらはあっという間に消えて無くなる。魔力量が多いだけで使える魔力なんてたかが知れてるあんたに防ぐ手段なんてない。あんたはそんな存在なんだ。それなのに……」
「お前に押し付けてばかりですまん、メルビス」
「今更なんだよ。勝手に家を飛び出したくせに。俺を……俺が、後継者なんだ! あんたなんか消えてしまえば」
「メルッ!」
グレンが声を上げた瞬間、メルビスはビクッと小さく跳ねた。大きな声を張り上げたところを初めて見たシェリルは驚いたようにグレンに視線を向け、続いて何もしてこないメルビスを見る。するとそこには、まるで親に叱られた子供のように固まったまま瞳を揺らすメルビスの姿があった。
その姿を半ば唖然と見つめていたシェリルに「いくぞ」とグレンの小さな声がかけられる。
「え? でも……」
「いい」
戸惑うシェリルにそれだけ言うとグレンは素早くシェリルの背中と膝裏に手を当て、勢いよく持ち上げた。俗に言うお姫様抱っこというものである。
突然のことにシェリルの口から間抜けな悲鳴が上がるも、グレンに気にした様子はない。そのままバルコニーの手すりに足をかけたグレンは躊躇する事なく空へと足を踏み出した。
「ふわぁぁああ! う、浮いてる」
「おい、動くな。しがみついていろ、落ちるぞ」
グッと力を入れたグレンの腕は思っている以上に太く、研究室にこもっているだけの割には胸元もがっしりとしている。思いもよらぬ接触と浮遊感にシェリルの顔色は赤や青と忙しい。だが、シェリルの中にある冷静な部分が冷たい風に当てられ顔を出す。
世話になったのに何も言わず去るのはよろしくない、と判断したシェリルはグレンの肩越しに開いたままの窓を覗き見た。
「お世話になりました!」
シェリルの叫び声に返答はない。メルビスも追いかけてくる様子がなく、少し不安になったシェリルはグレンへ視線を向けた。
「メルビスさんは……」
「あいつは大丈夫だ。そんなに弱いやつじゃない」
シェリルを見る事もなく、まっすぐ前を見据えるグレンからはメルビスに対する信頼が見て取れる。そして、ただグレンを嫌っていると思っていたメルビスも、そう単純な感情ではないことが先程のやり取りでわかった気がした。
浮遊感にも慣れ、今の体勢に若干抵抗感はあるものの、グレンを視界から外す事でなんとか平常心を取り戻し始めたシェリルは、先程のグレンとメルビスの会話で気になっていた事を口にした。
「聞いてもいい?」
「なんだ」
「答えにくかったら答えなくていいんだけど……どうして家を出たの? その、呪いのせいで跡を継がないのはわかったんだけど、別に家にいても研究はできたんじゃ?」
家族仲がいいようには見えなかったが、母であるエレシースの助言を聞くくらいには仲が悪いわけではないようだし、メルビスに悪い感情を抱いているようにも見えない。グレンは片付けなどが得意なわけではないし、それなら家にいた方が身の回りを世話してくれる人もいて、好きな研究にのめりこみやすい気がする。
今までも何度か疑問に思っていた事だったが、触れていいのか判断できず見ぬふりをしてきたシェリルは恐る恐る問いかけた。
「あいつから離れたかった」
「あいつ?」
「父親だ」
吐き捨てるように呟いたグレンの言葉にシェリルは驚きつつも納得した。夜会の控室での様子からも何となく感じていたが、グレンが避けていたのは家族というより父親だったという事だ。
「なぜ、と聞いても?」
「この呪いはあいつのせいだからな」
自分の事だというのに、どうでもいいような口ぶりでグレンから語られたのは、人間の花嫁が絡む何とも複雑な人魚模様であった。




