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導くは空腹と貝殻

 シェリルは昼食も夕食も部屋でとり、一切部屋から出なかった。一度メルビスが部屋に訪れたがシェリルは面会を断る。それがただの逃げであることはシェリル自身よく理解していた。


 アクリムニアの夜はとても暗い。空に月や星がないせいで辺りを照らすのは等間隔に設置された街灯の淡い光だけ。一つ一つの明かりが小さいため道しるべくらいにしかならないそれをシェリルはバルコニーから静かに眺めていた。

 シェリルの断りをやんわりとした言葉と共に聞き流した侍女達の手により整えられた夜着の上にガウンを羽織っただけのシェリルには外の空気が少々肌寒く感じたが、慣れないフカフカのベッド(研究所のベッドも柔らかいがそれ以上である)ではなかなか寝付けず、広い部屋で落ち着くこともできず、迷った挙句にたどり着いたのがバルコニーだった。



「はぁ……なにやってんだろ」



 何度目かもわからぬため息がシェリルの口から零れ落ちる。

 グレンの言葉に動揺して思わず研究所を飛び出し、メルビスの提案に心を揺らす。結局はっきりとした答えも出せず、ふらふらとバルコニーに逃げこんだ自分が情けない。選択肢がないと不満を言いつつ、あったとしても選べないんじゃ意味がないではないか。


 バルコニーの手すりに背を預けるようにしてシェリルは蹲る。葉が揺れる微かな音だけが耳に届く。

 まるで自分しか存在しないように思えて、シェリルは袖をにぎる手に力を込めた。



「ここにいたのか」



 背後の空気が突然震え、びくりとシェリルは肩を大きく揺らす。シェリルがいるのは二階にあるバルコニー。けれどその低く体に響いてくる声はすぐ後ろから聞こえてきたようだった。

 ありえない、とシェリルの心が大きく訴える。こんな事はありえない。



「……どうして、貴方がここに」



 ゆっくりと振り返り仰ぎ見たそこには、ふわふわと漂うように浮いているグレンの姿があった。腕を組みジッとシェリルを見つめるグレンの表情は何らいつもと変わらない。怒るでも心配しているでもなく、ただ目の前にあるものを映す瞳はブレることなくシェリルを捕らえていた。



「突然消えたから誘拐されたのかと思ったが、違ったようだな」

「え?」

「ここは確かあいつの所有する別邸の一つだったはず。酷い扱いも受けてなさそうだし、探す必要はなかったか」

「そんなことっ……うん、そうね。よくしてくれてる」



 グレンの顔を見ていられずシェリルは顔を伏せ、ギュッと胸のあたりで手を握りしめる。胸が苦しくてたまらない。何故か熱くなる目頭をシェリルは目に力を入れる事で懸命に誤魔化した。



「ど、どうして私を見つけられたの?」



 違う話題を探すように発したシェリルの問いかけにグレンは「それだ」と言ってシェリルの首元を指差した。



「そのネックレスの貝殻には小さな魔石が付いている」

「……もしかして魔道具ってこと?」

「そうだ。持ち主の居場所を知る事が出来る魔道具として昔作ったやつなんだが、所長に却下されてな。試作品が残っていたからちょうどいいと思って」

「どうしてこれを私に?」

「人間の花嫁を守るのが選ばれた者の役目だ、と耳にタコが出来るほど煩く母が言ってきたからな」

「……そっか」



 シェリルの口から力無い言葉が漏れた。そのまま口を閉ざしてしまったシェリルを黙って見つめていたグレンは、なにを思ったか突然バルコニーへと飛び移り、シェリルの側に近づく。思わぬグレンの接近にシェリルは若干身を引いた。



「な、なに?」

「勝手に居場所を特定したから怒っているのか?」

「へ? ……あぁ、そっか。それは怒ってもいいところよね」



 グレンは急にシェリルが黙り込んだのは怒っているからだと思ったようだ。ただのネックレスだと思っていたものが魔道具で、つけているシェリルの居場所がグレンに筒抜けになっていたと知れば怒ってもおかしくないのかもしれない。己の行動を見張られていると思えばいい気がしないのも確かだ。

 だが、別の誰かだと嫌な事が、相手がグレンとなるとそこまで気にならなかった。それよりも、あの研究にしか興味のないグレンがシェリルを探した事の方が驚きだ。



「別に怒ってなんかない。それより、よく私がいないって気づいたよね。前は二日間いなくても気づいてなかったのに」

「あぁ、それは……腹が鳴ったから」

「は、腹が……鳴った?」



 唖然としているシェリルに気づいた様子もなく、グレンは僅かに顔を歪め頷いた。



「最近、毎日のように三食食べさせられていたせいか身体が空腹を訴えてきたんだ。何日も食べずに生活することが当たり前だったはずなのに、いつの間にかな。腹が空いて研究に集中もできない」



 グレンの態度からは不満だという意思表示がありありと伝わってくる。グレンにとって研究に集中ができないことは死活問題なのだろう。しかし、その訴えを聞いたシェリルは半笑いで呆れたように肩を落とした。



「理由が酷すぎ。でも、貴方らしい」

「ジェフに食事を買ってきてもらったんだが味が濃くて困った」



 シェリルは堪らず吹き出した。ジェフに買ってきてもらっておきながら、文句を言い、それでも綺麗に食べきるグレンが簡単に想像できてしまったからだ。



「私、邪魔じゃない?」

「突然なんだ?」

「だって私、人間の花嫁だよ?」

「だからなんだ?」



 シェリルが研究室の前でグレンとリスティアの会話を聞いてしまったことぐらいグレンもわかっているはずだ。それなのに、グレンはシェリルの言いたい事が把握できていないようであった。

 軽い口調で聞いていたシェリルの表情が僅かに固くなる。



「国に押し付けられて困っていたでしょ? だから……」

「もしかして、それで研究所から消えたのか?」

「……」



 沈黙は肯定である。いくら他人の気持ちに鈍感なグレンでも、ここまで言われればシェリルの気持ちを理解することができた。

 グレンは手すりに寄りかかると長く息を吐き出し、空を見上げた。



「確かにお前は人間の花嫁で、最初は面倒だと思ってもいた。だが、夜会の時にお前が言っただろう?」

「私?」

「そう。貴方と私は同じ被害者だって。その時初めてお前も巻き込まれた側なんだと気づいた。人魚にとって人間の花嫁は当たり前で特別な存在だが、俺にとっては何の意味もない。ただ押し付けられた、そんな感覚だったから……なんか悪かったな」

「え、あ、いや……そんな……」



 まさか謝られるとは思わずシェリルは口籠る。



「だから、人間の花嫁を押し付けてきた奴らには腹が立つが、お前に腹は立ててない。それに言ったはずだ、悪くないと。まぁ、お前のせいで腹が空いて研究に集中できないという障害が発生したがな」

「それは障害って言わないよっ!」

「俺にとっては大問題だ」



 ふっとグレンの口元が緩む。部屋から漏れる僅かな明かりに照らされたグレンの表情をはっきりと見ることはできないけれど、グレンが笑ったのがシェリルにはわかった。

 細められた目、僅かに上がる口元、風に揺れる髪、うっすらと浮かび上がる喉元。そのどれもがシェリルの心臓を落ち着かなくさせる。



「私……邪魔じゃない?」



 さっきと同じ言葉なはずなのに、その声には小さな期待と不安が混ざり合っていた。



「……ああ」



 グレンは不思議な存在だ。シェリルに関心などなく基本的にシェリルを放置していて、自由で、口も悪いけれど、いつだってシェリルの心を救ってくれるのはグレンなのだ。

 他者との意思疎通が下手だということはシェリルもわかっている。言葉だって足りなくて、不器用だってことも。なのに、こんなにも短い言葉で簡単にシェリルを掬い上げてくれる。


 やっぱりパートナーとして選ぶなら……そうシェリルが答えを導き出そうとした時、手すりに腰掛けていたグレンがぶるりと身体を揺らした。



「寒いな。俺はそろそろ帰る」

「え? 私は?」

「お前を連れてきたのはメルビスだろ? それならーー」


 ーーバタンッ!!



 グレンの言葉を遮るように大きな音が辺りに響く。それは部屋の中からで、驚いて音のした方へと視線を向けたシェリルは大きく息を飲んだ。



「なんであんたがここにいるっ!」



 大きく開かれた部屋のドア。そこには、鋭い眼差しを向け、今にも飛びかかってきそうな勢いで声を上げるメルビスの姿があった。

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