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甘い誘い

 町の中心部から少し離れた場所にある大きな屋敷。広い庭のあるそこは別邸というには些か豪華すぎる気がしたが、グレンやメルビスの家であるユージスト家は『五柱』の一つであることを思い出したシェリルは何も言うことなくメルビスの後について屋敷へと入った。

 美しいタイルがひかれた広い玄関ホールでメルビスとシェリルを出迎えたのは、別邸の管理を任されているという壮年の男。シェリルを笑顔で出迎えてくれたが、すぐに侍女を呼びシェリルを部屋へと案内するよう指示を出し、メルビスと小声で言葉を交わし始める。若干焦っているようにも見える男の言葉を聞こうとしないメルビス、という何とも言えない光景が繰り広げられている。



「あ、あの……私」



 別にお邪魔するつもりはなかったのですが、と続けたかったシェリルの言葉をメルビスの大きな声が遮った。



「あいつのところから逃げてきたんだ。ここに泊めても構わないだろう」



 メルビスの言葉にギョッとしたのはシェリルだけではなかった。言葉を受けた男もシェリルを部屋へ案内しようとしていた侍女も目を僅かに見開いている。

 きっとユージスト家に仕えている以上、彼らはシェリルの事を知っているのだろう。人間の花嫁をもらうということは、使用人がしっかり把握するくらい人魚族にとって凄いことなのだ。その花嫁が逃げ出したなんて由々しき事態である。



「かしこまりました。すぐにお部屋をご用意いたします」



 男はすぐ様行動に移った。侍女も何事もなかったようにシェリルを案内しようとし始める。たが、シェリルはその場から動かなかった。



「私、泊まるなんて話聞いてませんし、そんなこと一言も言ってません」



 たしかにあの時のシェリルは途方に暮れていた。グレンの側を離れれば途端にシェリルの居場所がなくなるからだ。

 だけどメルビスが人間の花嫁を欲している事を知っているせいか、メルビスの世話にはあまりなりたくなかった。



「じゃあ聞くが、あの後どうするつもりだった?」

「それは……」



 いい答えを見つけ出せず言葉を詰まらせるシェリルに対してメルビスが盛大なため息を吐いた。



「自覚がないようだから一応言っておこう。どうせあいつは何も言っていないだろうしな」

「な、なにを」

「人間の花嫁っていうのは、君が思っている以上に人魚にとって価値がある。自分の子を産ませるだけじゃなく、存在自体が一つの勲章にもなりえる。つまり、君を狙っているやつは大勢いるということだ」



 シェリルの身体が小さく跳ねる。メルビスは呆れを含んだ眼差しをシェリルに向けた。



「パートナーが決まった人間の花嫁を手に入れるのは難しい。だが、魔宝玉のピアスもない君ならばと思うやつがいないわけじゃない」

「でも、人間の花嫁を傷つけようとする者は許さないと国王様が」

「もちろんそうだ。だけど、人魚が一番恐れるのは花嫁のパートナー。人魚は執着心が強いからね。パートナーになるくらいだから魔力量も多い。そんなやつを敵に回したくはないだろう?」



 だが、あいつ(グレン)は君を欲していない、とメルビスは軽い口ぶりでシェリルに剣を振り落とした。つまり、今シェリルを守ってくれる人はいないだろうとメルビスは言っているのだ。



「俺を選べばいい」



 それはとても甘く、毒々しい言葉だった。

 グレンに迷惑をかけるくらいなら、メルビスを選んだ方がいいのではないか。そんな考えがシェリルの頭によぎる。

 メルビスはシェリルを人間の花嫁としか見ていない。そんな事わかっているのに、シェリルは聞き分けがいいふりをして逃げているのだ。



「……考えさせて」



 シェリルの返事をメルビスは満足そうな笑みを浮かべ受けとった。色気のあるメルビスの笑みを見てもシェリルの心は動かない。



「案内していただけますか?」

「かしこまりました」



 シェリルはメルビスに背を向け、侍女の案内に黙ってついていく。用意された部屋は客間の一室だった。お昼ご飯の有無を聞かれたシェリルは、まだ食べていなかった事を思い出す。欲しいという言葉を受け部屋を出て行く侍女を見送ったシェリルは、窓に近づき上へと視線を向けた。


 深い湾の底のはずなのに膜の外側にあるゆらゆらと揺れる水は青や緑へと色を変える。ジェフに聞いた時、それは太陽の光が漏れてきているわけではなく、アクリムニアの明かりが反射してそうさせるだけだと教えられた。最初の頃は綺麗だと思ったそれも、今はあのどこまでも広がる青い空が恋しくてたまらない。


 苦しくなる胸を抑えれば指先にコツンと何かが当たる。それが何か気づいたシェリルはより胸が痛むのを感じながら貝殻をぎゅっと握りしめた。



「……きっとお昼ご飯がなくても気づかないんだろうな」



 夜になっても、次の日になっても、きっとあいつは気づかない。それどころかこれ幸いと研究を続けているだろう。


 目を閉じれば簡単に思い出せる研究室。大きな背中を丸め無我夢中で魔道具と向き合うグレンの後ろ姿。意見を聞いてくる時の真剣な空色の瞳。



「馬鹿みたい」



 何を悩んでいるのか。何に期待しているのか。グレンは来ないし気づかない。そんなこと考える必要もないほど簡単に導き出せるのに、シェリルはメルビスの事を決断できずにいるのだ。

 きっとメルビスも悪くないはずである。表面上だけだろうが、大切に扱ってくれるだろうし、不自由さも感じないだろう。条件だけを見ればグレンの元にいるよりも快適に違いない。では何故か。その答えがシェリルの頭に浮かびかけた時、部屋のドアが叩かれた。



「お食事をお持ちしました」

「あ、はい。ありがとうございます」



 美味しそうな匂いが部屋中に漂い、シェリルの視線は侍女へと向かう。無駄な動き一つなくテーブルが侍女たちの手によってセッティングされていく様を眺めながらシェリルは小さく息を吐いた。

 自分が作るより何倍も美味しそうな色彩豊かな料理の数々を見ても何故だかあまり食欲がわかない。それでもシェリルは空腹であるはずの己の身体を満たすためカトラリーに手を伸ばした。

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