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臆病なこころ

 何処までも続く青い色はいつだってシェリルの心を少しだけ軽くしてくれた。寂しい時、悲しい時、苦しい時。シェリルはふっと顔を上げ空を眺める。

 広いこの世界に立っている自分が酷くちっぽけに思えて、そんな自分がくよくよしていても世界は何も変わらないのだと言い聞かされている気分になった。下を向いても上を向いても変わりがないのなら上を向け。そう言われているようで、少しだけ塞ぎ込んでいた感情が浮上する。


 だが、アクリムニアにあの綺麗な青い空は存在しない。シェリルがここで見つけた空色は、ドアを閉める瞬間酷く曇っているように見えた。


 静かに閉められた研究室のドアを黙って見つめていたシェリルを先ほどまで縋るようにグレンの名を呼んでいたリスティアは穴があきそうな程睨みつける。



「貴女さえいなければーー」



 絞り出された苦々しいリスティアの言葉にシェリルはピクリと肩を揺らした。その言葉はまさに今、シェリル自身が考えていた言葉だったからだ。



『俺はただ研究がしたいだけだ。魔力量が多いから人間の花嫁を貰えだ、私と結婚しろだ、どいつもこいつも勝手なことを言ってくれる。もう周りに振り回されるのは懲り懲りだ。放っておいてくれ』



 研究室から漏れ聞こえてきたグレンの言葉にシェリルは衝撃を受けていた。正直、これほどまでに自分が動揺するとはとシェリル自身も驚きを隠せない。


 初めから分かっていたはずだった。グレンは魔道具の研究にしか興味はなく、人間の花嫁を貰う事に納得もしていなかった。グレンもある意味被害者だという認識すらしていた。

 それなのに、シェリルは心の何処かで期待していたのかもしれない。グレンと新たな魔道具を開発し、食事などの身の回りの世話もするようになった。自分の事を『悪くない』と言ってくれた。それらがシェリルを受け入れてくれたという証拠になるはずはないのに、グレンはなんだかんだ自分を受け入れたくれたと、自分は一人じゃないと思い込みたかったのかもしれない。


 しかし、グレンははっきりと告げた。振り回されたくない、放っておいてほしい、と。シェリルの期待は期待でしかなく、グレンは人間の花嫁(シェリル)を受け入れたわけではなかった。あの最後に見せた感情のないグレンの瞳がそう物語っている。


 ーー私がいなければ彼は今でも好きな研究にのめり込んでいられた。


 グレンを知れば知るほど、勝手に生贄にされ、人間の花嫁にされた自分には関係ないと切り捨てられなくなっていく。グレンの自由を奪っているのが自分だという現実に打ちのめされそうになる。



「わたくしは諦めませんわ。必ず……必ずグレンの妻の座を手に入れてみせる」



 リスティアは宣言するようにシェリルに向かって言葉を叩きつけ、颯爽とその場を去っていく。

 自分は何も間違っていない。リスティアのスッと伸びた背中がそう言っているように見えて、シェリルは思わず視線を逸らした。



 グレンの言葉を受けてもブレないリスティアは流石と言う他ない。普通なら好きな人にはっきりと拒否されれば迷ったり、相手の気持ちを汲み取って諦めたりと悩むものだろう。しかし、リスティアはシェリルのせいで受け入れてもらえないのだと、自分が拒否されたのではないと思っていそうだった。

 リスティアはそれ程までに自信があるのだ。夜会の時のリスティアの台詞からも読み取れるが、グレンがリスティアに好意を寄せていると思い、今は少しすれ違っているくらいにしか感じていないのかもしれない。


 シェリルはそんな考え方などできなかった。己を肯定し受け入れてくれた存在が両親だけだったシェリルに、誰からも愛され大切にされてきたリスティアの考え方を理解する方が無理なのだ。

 シェリルはグレンの言葉を受けてもしがみついていられる程自分に自信などない。


 いつもたくさんの話をして真っ直ぐ愛を届けてくれた母がいなくなり、男手一つで不器用ながらに育ててくれた父もいなくなった。いなくなって初めてシェリルは二人に守られてきたのだと気付いたのだ。

 魔力皆無のシェリルを好意的に見てくれる人などいない。冷たい視線、悪意ある言葉からシェリルの心を救ってくれていたのはいつだって両親の愛で、一人になってから小さいはずの家が酷く大きく感じた。


 不思議なことに消えたいとは思わなかった。きっと懸命に働き生きていた父の背中をずっと見てきたからかもしれない。自分もがむしゃらに生きなければ、そう思っていた。

 孤独にも世間の目にも気づかぬふりができるようになった頃、シェリルは叩きつけられたのだ。生贄として、この世界、この人間達のために命を捧げよと。誰かに迷惑をかけることもなく、ただ生きていただけなのに、他者によって勝手に価値をつけられ捨てられた。


 結果だけ見ればシェリルは死ぬことなく、人間の花嫁として人魚族に担がれているわけだが、結局なにも変わりはしない。シェリルをシェリルとして受け入れてくれる人はここにもいなくて、そうだと思っていた人にもはっきりと拒絶されてしまった。

 もう少し強ければ、自分に自信があれば、シェリルは『私は人間の花嫁として選ばれたのよ』と胸を張って言えたのかもしれない。それか、グレンの事を最初の頃のように嫌な奴だとしか思っていなければ、迷惑だろうとしがみついていられたのかもしれない。




 シェリルの足は自然と研究所の外へと向かった。胸の片隅でエレシースとの約束を破る罪悪感がくすぶっている。

 行く宛はない。目の前にはシェリルの知らない世界が広がっており、チラリと隠れていたはずの孤独感が顔を出す。


 シェリルは視線を落とす。立ち止まったまま動かない自分の足。ここにもシェリルに選択肢はない。選べる道などないのだ。

 一人なのに、一人では生きていけないという矛盾。それがより孤独感を膨らませる。



「やっぱりこうなると思った」



 頭上から降ってきた笑いを含む低い声にシェリルは慌てて顔を上げた。まさか迎えに、そんな淡い期待が胸に広がる。

 だが、目の前の男はシェリルの顔を見て馬鹿にしたような笑みを強めた。



「なにその顔。誰かと勘違いした?」



 似ているけれど何処か違う。銀色の髪も整った顔立ちもそっくりなのに、泣き黒子が異様なほど色気を放ち、空色ではなく茶色の瞳がシェリルを射抜く。



「メルビス、さん?」

「まぁいいや。こっちに来いよ」

「え、あ、ちょっーー」



 シェリルの返事を聞くことなくメルビスはシェリルの腕を引っ張り、乗り物へと乗り込む。突然のことすぎて頭の追いついていないシェリルにメルビスがした説明は「別邸に行く」その一言だけだった。

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