築かれてゆく関係
「はい、ご飯ですよー! おーい! ご・は・んっ!」
ーーガシャッ、バンッ!
「あっ! お前何すんだ! それに触るな!」
「なら無視するなっ! 貴方、朝も食べてないんだからね! 今回は意地でも食べてもらいますよ!」
「うるさいっ! 研究の邪魔だ!」
遠くにいても聞こえてくる言葉の応酬。言葉の間には何とも恐ろしい音まで鳴り響く。
研究所の廊下を歩きながら男らしい整った顔を引きつらせているのは赤髪の男、ニコラス。そしてその隣には、騒音なんて気にせず、興味深そうに辺りを見回しているユーリスの姿があった。
「おい、ジェフ。もしやあの声は……」
「……もしかしなくてもグレンとシェリルさんの声だね」
「いつもあんな感じなのか?」
「ご覧の通りさ」
ニコラスとユーリスの前を案内役として歩いていたジェフは若干疲れた笑みを浮かべ、研究所内を視線だけで指し示す。
廊下には何人か研究員が歩いており、研究室のドアが開いている部屋もちらほら見受けられる。しかし、そこにいる誰もが何事もないかのように過ごしているのである。大きな音が鳴ってもピクリともしない。完全に慣れきっている。
「グレンに意見できるシェリルさんは大変貴重なんだけど」
「確かに。普段のグレンなら完全に無視だろう」
「シェリルさんはどうも口より先に手が出てしまうみたいでねぇ。グレンもシェリルさんの空気に流されちゃうのか言い合いに発展するんだよ。それを止める身にもなって欲しいけどね」
はははーーと明後日の方角を見つめながら笑っているジェフにニコラスは同情の眼差しを送りつつも、内心ではシェリルに対して感心していた。
グレンは研究以外興味がない。だから他者に対しても興味が薄く、話しかけられても基本無視。数少ない友人であるジェフやニコラスの話は聞くが、意見を聞き入れることは皆無であった。人間の花嫁を迎えに行く儀式にちゃんと参加しただけで皆驚いたくらいである。
それなのに、シェリルとは言葉を交わすらしい。話を聞く限り力ずく感は否めないが、グレンと力尽くでも向き合おうとする者がいなかったのも事実だ。
もちろんジェフやニコラスはグレンの友人だが、二人は良くも悪くもグレンに性質が似ていた。ジェフは研究所内ではマトモに見えるが、他者から見れば十分研究馬鹿であり、騎士でもあるニコラスも鍛錬馬鹿である。グレンの気持ちがわからなくもない。結果、強くは出られなかった。
研究室に近づくにつれ喧騒は大きくなっていく。ジェフがノックをする事なくドアを開ければ、三人の目に飛び込んできたものは普通では考えられない光景だった。
「……二人は何をしているのかな?」
椅子に座ったまま机にしがみついているグレンとグレンの纏う白衣の裾を懸命に引っ張るシェリル。どちらも必死の形相を浮かべており、先ほどまでの言葉の応酬を聞いていなければ何事かと思っただろう。聞いていても何をしていると思うほどだけど。
「あっ、ユーリス!」
最初に三人に気づいたのはシェリルだった。
シェリルは嬉しそうに声を上げ、パッと掴んでいたものを離す。横から「ぐえっ」と痛々しい声が聞こえてきたが、そんな事には気も止めず、ユーリスに駆け寄ると「久しぶりぃ!」と強く抱きしめた。ユーリスも嬉しそうに抱きしめ返している。
その光景を温かい目で眺めているニコラスの横で、ジェフは心配そうにグレンに声をかけていた。
「今日はどうしたの? いきなりで驚いちゃった」
「ふふふ。シェリルがどうしてるか気になって、ニコラスさんに会わせてほしいってお願いしたの」
「そうだったの。ありがとうございます、ニコラスさん」
「気にしなくていいですよ。花嫁の願いを叶えるのは夫となる者の務めですから」
そう言って口元を緩めたニコラスはユーリスへ視線を移すと、見ている方が恥ずかしくなるような甘い笑みを浮かべた。ユーリスも僅かに頬を染めながら笑って返す。
二人の様子を眺めていたシェリルは、ほぉっと息を吐いた。この前のお披露目会の時にも感じたが、ニコラスとユーリスを包む空気は完全に恋人のそれである。この短期間でここまで関係を詰められるのは素直に凄い。
「シェリルが元気そうでよかった」
「ユーリスもね」
「グレンさんとも仲良くできているようだし安心したわ」
「え……仲良く?」
どこらへんが? とシェリルはユーリスに問いただしたい気持ちになった。仲がいいという言葉はユーリス達のような関係に使うのであって、決してシェリル達に使うものではない。
グレンとシェリルの間に流れるのは殺伐とした空気だけで、ユーリス達のような甘いものなど一切ない。たまに和やかな空気が流れることもあるが、それはグレンがシェリルにネタの提供を求めて詰め寄っている時だけだ。
「あぁぁぁぁぁーー」
「シェ、シェリル?」
シェリルの口から言葉にならぬ音が漏れ出た。
考えれば考えるほど虚しくなっていく。別に、ユーリス達のような甘い関係を望んでいるわけではない。けれど、グレンとの未来が全く見えてこないのだ。
確かに最初の頃よりはグレンとの距離が縮まった気がする。呪いのことや魔道具のこと、家の事などグレンの事を知り、性格や生活もある程度把握することはできた。きっとこっちの世界の中では一番知っている人物といえるだろう。
だが、それだけだ。食事の世話や部屋の片付けをしているだけで、それ以上は何もない。この状態を仲が良い関係と言っていいのか。これで納得していいのか。
ある意味シェリルはこっちの世界の生活に順応しつつある。人魚といっても見た目は人間と変わらないし、生活だって変わらない。いや、人間の世界よりも便利な程だ。
連れ去られてきたばかりの何も知らない頃のように、ただ理不尽さに腹を立てている時期はとっくに過ぎ去り、人間の世界に帰れないなりの生き方を身につけてきた。グレンの妻として、このままの生活を続けるのも一つの方法かもしれない。
だけど、胸の奥で何かが疼いている。シェリルはそんな気がしてならない。
その理由が何なのか。シェリルは答えを出しかねていた。
「ねぇ、シェリル。ちょっとお茶しない?」
悶々と悩み続けているシェリルを黙って眺めていたユーリスが不意にシェリルの肩に手を置いて話しかけた。突然のことにビクリと肩を揺らしたシェリルだったが、ユーリスの申し出を嬉しそうに受け入れる。
「そうだね。じゃあ休憩室に案内するよ」
「では、男性方は男性方でお楽しみください」
「え? それでいいの?」
ちらっとシェリルがニコラスに確認のため視線を送ると、ニコラスは小さく頷き返す。ジェフも同様である。ここでもシェリルは決してグレンに確認を取らない。なぜなら、グレンは既に机の上にある魔道具と睨めっこ中だからだ。
「じゃあお言葉に甘えて。行こう、ユーリス」
「ええ」
はぐれないよう手を繋ぎ、シェリルとユーリスは研究室を出て行く。残されたニコラスとジェフは、グレンを一瞥すると、なんとも言えない表情でため息をついたのであった。