新たな日常
朝起きて、顔を洗い、身だしなみを簡単に整える。ささっと部屋を片付けて冷んやりとした空気の漂う廊下に出れば、そのまま一つ下の階にある台所へと向かう。
最初の頃はシェリルとグレンの二人分、時々ジェフの分も含めて三人分しか作っていなかった朝食も、今では少し多めに作るようになった。それもこれも、グレンと同じように泊まり込み(いつの間にか朝になっていたパターン)で研究をしていた者が、匂いに誘われ顔を出してくる事が増えたからである。
シェリルは他の研究者達に朝食を振る舞う程、この研究所にいるのだ。というか、夜会の後からグレンの家には帰っていない。
理由は簡単だ。新たな研究にのめり込んでいるグレンが帰ろうとしないからである。何度か帰宅を促してみたけれど良い結果は得られず、結局ジェフに買ったもの一式を家から持って来てもらう羽目になった。
下着などもあるため最初は断ったシェリルだったが、そこは気の利くジェフである。シェリルの気持ちを汲んで、女性を連れていくから大丈夫だよ、と優しい笑顔で不安を取り除いてくれた。
グレンにもご飯を作るという条件で、研究所に食材を配達してくれるよう頼んでおいてくれたのもジェフだ。もはやジェフに足を向けては寝られない。
もうすぐ朝食ができるという絶妙なタイミングで、匂いに誘われた亡霊達(疲れてフラフラしているから)が次々と顔を出す。
「おはよう、シェリルさん」
「おはようございます。ちょうど出来上がりましたよ」
「今日は何かな?」
「魚です」
「魚!? やった!」
彼らの順応性は高い。シェリルが人間の花嫁だと気づくと、最初はまるでシェリルは王族かと思うほど畏まった態度をとっていたが、シェリルが普通にしてくれと頼むとすぐに態度を改めてくれた。こちらの世界に友人ができたようで何だか嬉しい。
ジェフ曰く、研究所にいる者は良くも悪くも研究以外に興味がないので、相手の立場などには大して興味がないそうだ。人間の花嫁は人魚族にとって特別なので、彼らでも敬おうという気持ちは生まれるそうだが、シェリルが言わなくても次第に崩れていっただろう、とジェフは苦笑いを浮かべながら言っていた。
「それじゃあ、行ってきまーす」
「「いってらっしゃい」」
皆に見送られながらシェリルが向かう先は、もちろんグレンの研究室である。迷路のように複雑な廊下を迷うことなく進み、目的の部屋の前にたどり着いたシェリルはノックをすることなくドアを開けた。
「ご飯ですよー」
シェリルはテーブルの空いている場所に朝食の乗ったトレーを置くと、床に落ちている資料を拾い上げていく。どんなに綺麗にしても、一日経つ頃には床や机に物が転がっているのだから始末に負えない。シェリルは拾った紙を簡単にまとめながら机のある方へと視線を向けた。
シェリルに気づくこともなく書類と睨めっこをしているグレン。その眼差しはとても真剣で、シェリルはふっと口元を緩めた。
グレンを見ていると思い出す。シェリルの父であるハミルはとても仕事熱心な男だった。家では家族思いの優しい父親だったが、仕事が関係すると、頑固で、常に険しい目をしている。その表情はとても怖かったけれど、仕事姿を初めて見た時、シェリルはかっこいいと思ったのだ。
そして何より、そこまで一生懸命取り組めるものがあることに尊敬と羨望を抱いた。
「……本当に好きなのね」
寝ていないのだろう。目の下にはくっきりと隈がある。それでも向き合えるのは、ただ好きだからなのだとシェリルは思う。
父とは似ても似つかぬ細い背中。それでも、シェリルには大きく見える。その背にシェリルはそっと手を置いた。
「おはよう。もう朝だよ」
「ん? ああ、お前か。ちょうどよかった。ちょっと意見を聞かせてくれ」
「待った。まずは食べよう」
今にも仕事の続きをしようとするグレンを引き止め、テーブルにあるトレーを指差す。この会話も毎度の事だ。掃除をする魔道具を提案して以来、グレンは度々シェリルの意見を聞きたがるようになった。グレンにとってはシェリルの意見が物珍しく面白いらしい。正直、二人の生活環境が違いすぎたからなだけだとシェリルは思っている。
「いや、まずはーー」
「はい、座った座った」
グレンの背を押すようにして無理やりソファーに誘導すれば、グレンは諦めたのか盛大なため息とともにソファーへと身を沈める。この一連の動きもすでに定番化しつつある。
グレンには口で言っても無駄だということがこの数日でわかった。少しぐらい抵抗されても無理矢理行動させる。それがグレンを研究から引き離す最善策だ。
「本当にお前は頑固だ」とか「研究の邪魔ばかり」とか、ブツブツと文句を言いつつグレンが朝食に手を伸ばしたのを確認してからシェリルも隣で朝食を食べ始める。
グレンは食べ始めると途中で席を立つことはない。そこらへんは、しっかりとした幼少期の教育の賜物だろう。だから、警戒すべきは食べ始めるまでなのだ。
グレンが食事に対する感想を述べることはない。きっとシェリルが作っていることにすら気がついていないだろう。シェリルはそれで別に構わない。だって、一人で食べるより何倍も美味しく感じる、それだけで十分だからだ。
「おはよう、グレン!」
「しーーーっ」
「え? あぁ、ごめん」
ノックと同時に部屋に入ってきたジェフにシェリルは人差し指を口元に近づけ、静かにするようにと注意する。驚きつつ振り返ったジェフの目に飛び込んできたものは、ソファーの背にもたれかかりながら僅かに肩を上下させ、小さな寝息をかいているグレンの姿であった。長い睫毛に縁取られた目は完全に閉じており、その寝顔は幼くさえ見える。
「ご飯を食べたらそのまま寝てしまって」
起こすのも可哀想だから、とシェリルは困ったように横で眠るグレンを見つめながら笑う。
「そっかぁ」
ジェフは嬉しそうな笑顔を浮かべ、グレンをまじまじと眺めていた。
「まさかグレンが綺麗な部屋でご飯を食べて、ソファーで眠る日が来るとは……シェリル様様だなぁ」
「大袈裟ですよ、ジェフさん」
ジェフはそんなことないんだよ、と心の中でシェリルの言葉を否定した。
なぜなら、グレンが他人の意見を聞く事も、人前で眠りに落ちることも今までなかったのだから。