アクリムニア魔術研究所
薄っすらと感じる光に導かれ、シェリルはゆっくりと瞼を開ける。目に飛び込んで来た見慣れない景色に一瞬身動きを止めたシェリルは昨日の出来事を思い出し、重いため息を吐き出した。
王女から絡まれた歓迎会という名の夜会は、その後大きな問題が起きる事なく終わりを迎えた。王女への行いに対するお咎めもなく、他の人魚達の言い寄る熱が少し上がったくらいで、失態はなかったはずだ。
帰り際、グレンの両親から屋敷で過ごさないかと打診があったが、シェリルはグレンの実家で過ごした二日間を思い出し、丁重にお断りした。家事や掃除などをしなくていい生活は夢のようだけれど、マナーや立ち振る舞い、動きづらいドレスなど、今までとはかけ離れた生活に耐えられそうもないと思ったのだ。
例え放置されるとしても、グレンと共にいた方が気が楽である。たったそれだけの理由で、シェリルは優雅な生活を蹴り捨てた。
シェリルの言葉を受けたエレシースは呆れた表情を浮かべながらも、好きにしていいとシェリルの願いを聞き入れてくれた。そして、近くにいたグレンを呼びつけると「必ずシェリルから離れないように」と真剣な顔つきで約束させていた。グレンはあんなに関わり合いを持ちたくなさそうにしていたというのに、エレシースの言葉に若干面倒臭そうにしつつも頷いている。その反応に驚いていたシェリルも、エレシースに「貴女もグレンから離れては駄目よ」と有無を言わさず約束させられた。
グレンの実家にあるベッド程ではないが、それなりに柔らかいベッドから降りたシェリルは、部屋に備え付けられた洗面台で顔を洗い、手櫛で髪を整えてから部屋を出る。人が二人通れるかくらいの幅の廊下を歩いていると、前方からジェフが現れた。
「おはよう、シェリルさん。よく眠れたかな?」
「おはようございます。お陰様でグッスリ眠れました」
「それはよかった」
朝がよく似合う爽やかな笑顔を浮かべているジェフだが、昨日はとても疲れた顔をしていた。それもこれもシェリルとグレンの所為である。
夜会の後、グレンの後をついて行くと、たどり着いたのは家ではなく研究所であった。正直、やっぱりな、というのがシェリルの率直な感想だ。
そして、研究所でグレンとシェリルを出迎えたのがジェフだったのである。二人を見た瞬間、盛大なため息を吐きながら目元を覆ったジェフにシェリルは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
だが、そこは長年グレンと共に過ごしたジェフである。こうなる事は想定済みだったのか、シェリルが初日に寝かされていた仮眠室ではなく、ちゃんとした部屋が用意されていた。なんでも、客が宿泊する用の部屋だそうだ。疲れていたこともあって、シェリルは有難く部屋を使わせてもらった。
「食事を持って来たんだ」
「うわぁ……何から何まですみません」
「気にしなくていいよ。それで悪いんだけどグレンにも届けてもらえるかな? ここまっすぐ行って四つ目のドアがグレンの部屋だから」
「……わかりました」
渡されたトレーの上には二人分の卵とハムが挟まったサンドウィッチに野菜たっぷりのスープ、果物まであった。研究所で出されるにしては随分と豪華である。買って来てくれたのか、研究所に台所が完備されているのか。聞いてみたいところだったが、ジェフはシェリルにトレーを渡すと早足でその場を去って行った。もしかしたら忙しい合間を縫って持って来てくれたのかもしれない。
やっぱり優しい人だな、とジェフの消えた方を見つめながら感慨にふけっていたシェリルは、向きを変え、グレンの部屋を目指し歩き出した。
グレンの部屋にたどり着いたシェリルは軽くドアをノックする。しかし応答はない。次は少し強めにノックをしてみるが、やはり応答はなかった。
立っていてもしょうがないので、シェリルは「入りまーす」と声をかけつつドアを開ける。窓がカーテンで閉め切られており、足元もよく見えない真っ暗な部屋に足を踏み入れたシェリルは、数歩進んで足を止めた。
「おはようございます」
シェリルの穏やかな声が部屋の中に響き渡る。だが、人の動く気配はない。まさかいないのかと一瞬思ったが、あのジェフが部屋に持っていけと言ったのだからいないはずがない。
「おはようございますっ! 朝です! 起きてください! ご飯ですよー! 起きろーーー!」
シェリルは畳み掛けるように大きな声を張り上げた。前方でガサガサと音がして、むくりと小さな影が現れる。
「お前……もう少しマシな起こし方はないのか」
「すぐ起きないくせに文句を言わない。はい、カーテン開けて。なにも見えなくて身動きがとれません」
グレンは重いため息を吐くと、床からノロノロと起き上がり近くにあったカーテンを無造作に開け放った。眩しい光が部屋に差し込み、シェリルは目を細めながら辺りを見回す。
「ほんと汚い」
床には資料なのか紙が散乱していて足の踏み場がない。シェリルが部屋に入ってすぐ足を止めたのも、何かを踏む感覚があったからだ。下手に進んで転んだら朝食が無駄になりかねない。それだけは避けたかったのである。
「ジェフさんから朝食を貰ったんだけど、どこで食べるの?」
「あ? あー、そこのテーブルにでも置いておけ」
「そこのテーブルって……えっ、あれテーブルなの?」
グレンの指差す先にはゴミの山にしか見えない程に荷物の積まれたテーブルらしきものがあった。シェリルは思わず呆れた視線をグレンに送る。
「ここ、人の住むところじゃないよ」
「住んでない。研究室だ」
「いや、もはや住んでるでしょ。まぁ、今はいいや。ここでは食べられそうもないから休憩室で食べよう」
「まず俺は昨日の研究データをーー」
「うるさい。行くよ」
文句を言ってくるグレンを問答無用で連れ出したシェリルは、以前使った休憩室へと向かう。
黙って朝食をとるグレンはさすが良い家のボンボンと言うべきか、食べ方に品があり、とても優雅だった。寝癖で髪が跳ね、服がヨレヨレでなければ、その美しい容姿と相まってさぞかし絵になることだろう。会話がないためシェリルは朝食を食べながらそんな余計な事を考えていた。
朝食を終えたグレンが空になった皿の乗るトレーを持って席を立つ。この後の予定が何もないシェリルも付いて行こうと立ち上がった。それを見てグレンが不快そうに顔を歪める。
「お前……」
「だって離れないって約束しちゃったし」
「……はぁぁ」
私だって嫌だわ、と心の中でシェリルは悪態をつく。だが、不安なのも事実なので、ここはグレンを怒らせないでおこうと言葉にするのはやめておいた。
休憩室を出て暫く歩くとグレンはある部屋の前で足を止める。そこにはグレンの家と同じ様式の台所があり、食器棚などもあった。
「研究所になんでこんなものが……」
調味料なども充実しており、ここで料理をしているのが見てとれる。しかし、あくまでもここは職場なはずだ。客用の宿泊部屋があるとはいえ、ジェフがグレンに家に帰れと言い、仮眠室が備え付けられているくらいだから、基本的には皆通ってきているのだろう。
なのに何故こんなにも使用感を感じられる台所があるのだろう。
「あぁ、なんかわかった」
きっとグレンのように帰らない研究者ばかりなんだろうな、とシェリルは思わぬ所で悟るのだった。