不愉快な女
『渡したいお知らせがあるんだけど、明日って家にいるかな?』
―――またあのうざい女からメールが来た。この前、顔文字も絵文字もなしのそっけない返信メールを送ってやったばかりで、てっきり距離ができたとばかり思っていたのに。
ああ、また返事を出さなければならないのか。胸中に苦いものが目いっぱい広がって、とげとげした感情を抑えきれなくなる。
あの女……大原綾子。旧姓、小笠原綾子。
私は着信したメール画面を睨んだまま、処理しきれない気持ち悪さを抱え込む。どうして私ばかりがこんな思いをしなくちゃならないのか。到底すぐさま返信する気になんてなれず、ベッドの上に携帯電話を放り出す。このまま画面を閉じたら返信しないままになりそうだった。メールが来たことすら忘れて。
希薄な友情。これでも昔は友達だったはずだった。
綾子とは中学の時の同級生だ。当時私にははまっていたものがあって、友達と言えばだいたい同好の士だったが、綾子はそうではなかった。丸っきり知らないということもなくて話を合わせられる程度の知識はあったけれど、それでも属するグループが違うタイプではあった。
無邪気で天真爛漫で、天然で、けれどかわいいタイプだったから皆から愛されかわいがられて。
友達の友達としての付き合いから始まったけれど、中学生の時なんてそれでも十分に楽しかったし友情も感じられた。稚拙で幼稚で取るに足らない、高校へ進んでしまえば自然と途切れてしまうような儚いものだったとしても。
事実、高校大学の頃はまるっきり何のコンタクトも取っていなかった。年賀状のやり取りすらなかった。だから私としては関係は死んだとばかり――――むしろあったことすら忘れていたのに、急にそれが復活したのは、彼女から結婚式の二次会に出てほしいと言う電話をもらった時からだった。
もし今現在その連絡をもらっていたら。悪いけれど断っていただろう。けれど当時はおめでたいことだからと参加を快諾してしまった。もう十年も前の出来事だ。
綾子は中学の頃の印象とまるで変わったところがなかった。無邪気で天真爛漫で天然。まさかその性質が悪い方へ傾くなんて想像もしていなかった。
そちらへ傾かせたのは、当の綾子だ。
「すごくいい化粧品があるんだけど、一度使ってみない?」
結婚式以来、まるで旧交が復活したかのようにぐいぐいと迫ってくる綾子の押しに負けて連れて行かれたのは、会員制の化粧品販売店だった。それは別にいい。品物は悪くなかったし値段もぼったくりというほどではない。
ただ彼女は執拗に、その商品がどれだけ肌によくて市販のものがどれほど害悪かという理論を押し付けてくるようになった。それはその販売店の従業員も同様で、まるで悪質な宗教のようであった。
とはいえ言っていることは分かる。ただ、しつこいのだ。一度言えばわかることを手を変え品を変え、馬鹿に諭すように何度も言う。口を酸っぱくして、ほらこれが馬鹿につける薬だよとでも言わんばかりに。そうして周りに拡散しろ啓蒙しろ喧伝しろと言う。
商売だからそれが商法だというのは分からないでもないが、そんなことは一購買者たる私には関係ない。私はまずその販売店が嫌いになった。そしてそこに毒され続けている綾子からも好感情が消えていくのを感じずにいることはできなかった。
ところでその販売店の売り方は、いわゆるねずみ講式であった。つまり私が品物を買えば、紹介者にして親会員である綾子のところへマージンがいくらか転がり込むのだ。当然彼女には、私以外にも子会員がいたに違いない。
綾子はその制度を私に隠しもしなかった。むしろ私にも誰かを紹介して親会員になればいいとすら言った。無邪気に、天真爛漫に、天然に。
思い返してみれば綾子からのメールは常に、「新商品が出た(から買わない?)」とか「そろそろ(何か買わないと)会員期限過ぎちゃうよ」だとかそういった財布のひもをゆるませる類のものばかりだった。世間話は全然ない。
否、ないわけではない。子供が生まれたとか、今日は暑いとか、でもその程度だ。結局既婚子持ちの彼女と勤め人で独身の私では話が合わないのだ。その程度でしか。
「その人本当に友達? 姉ちゃんのこと金づるとしか思ってないんじゃねえの」
ドライな性格の弟はそんな風に言って顔をしかめた。その時はなんということを言うのかと弟を諌めたのだが、よく考えてみたらまるで的外れというわけでもないのだった。
金づる。もちろんそんな金払いがいい方ではないけれど、他にしっくりくる言葉を思い浮かばない。そしてそんなただれた言葉でしか表現できない相手とはさっさと縁を切るべきだ。
けれど思うのと実際にやろうとするのとではとてつもなく差がある。私は踏ん切りをつけられずに、イライラを募らせていく。
ああ、嫌だ。どうして私が悩まなくちゃならないんだ。そっけなくしてるんだから察して離れていけばいいのに、むかつく女だ。そうこうしているうちにまたメールが来た。もう嫌だ。返事をしたくない。顔文字や絵文字を入れて冷たく響かないよう気を使うのも疲れるのだ。
そんな私を見かねた弟が、とあるサイトを教えてくれた。
「それ、『友達をやめる時』っていうスレッドなんだけどさ、もしかしたらヒントあるかも」
見かねたと言うよりはいちいち報告しては当たり障りのない返事の仕方を訪ねていたのを鬱陶しく思ったのかもしれないが、とにかくそのサイトというか掲示板に、私は足を踏み入れたのだ。
そこには数々のパターンの報告がされていた。何度言っても遅刻癖を改めてくれない友達、自慢しかしない友達、上から目線の友達、食べ方が汚い友達、いい年して公共のマナーを守れない友達などなど。それらを思い切って切ってやったという報告である。中にはこうなんだけどどうしよう、というまだ悩み中の書き込みもあって、それに対してスレッドに常駐しているらしき住人たちがああだこうだと講釈を垂れたり背中を押したり賛同したり反対したりしていた。
私はしばらく自分の問題を棚上げにして、過去ログを読み漁った。それほどまでに友達をやめる報告には惹きつけられるものあったのだ。反面教師的に、こうはならないようにしようという教訓すら得られた。気づかなかった横暴な振る舞いにも気づかされ、それでも関係をやめないでいてくれる友達に感謝すらした。
だが綾子への想いだけは改まることはなかった。ひとしきり読みふけると、私は自分の内にあるものを吐き出すためキーボードに手を伸ばした。
『プチですが。私を金づるとしか思っていない友達を切りたい。中学の時の同級生なのだが、結婚したら急に連絡を取ってきて化粧品を買えと会員制の店に連れて行かれた。それだけならどうということはないのだが、彼女は私の親会員なので執拗に商品を買わせようとする。断りきれずに購入してしまうがだいたいは最低価格のもの一つだけで、実入りがいいとも思えないのに、しつこい。私が欲しくないと言っても「これはいいものだから!」と勧誘を辞めない。正直FOも視野に入ってる。これさえなければいい子なんだけど』
FOとはフェイドアウトのことだ。最初に『切りたい』と言っておいて最後に『これさえなければ』などと言い訳じみた言葉を付け加えたため、住人に「結論出てるんじゃん」と叩かれる覚悟もあった。
それはその通りなのだけど、黙っていることなどできなかった。みんなこんなにも友達のことで悩んでいるというのに、私だけ我慢してイライラをため込むなんて不公平じゃあないか。
しかし自分の書き込みが表示されているのを読み返してみると、あまりに次元の低いところで足掻いているようにも見えた。他の人が壮絶すぎるというのもある。地味だ。目立たずスルーされる気もした。
それでも私は吐き出したことで、少しだけ満足していた。そして誰かのレスを期待した。壮絶であればあるほどレスが付く。当然それには及ばないにしても、なんでもいいから一言でもいいから、返してほしかった。一人ぼっちの壁打ちほど空しいものはない。
そうしてスレッドに張り付いていると、ようやく乙コールをもらえた。つまりそれは、今までよく耐えたねお疲れ様っていう意味なのだけれど文面はその先にもあって、もしかしたらそこには波風立てずに綾子と縁を切る手段が書かれているのではと期待する。
『乙です。押し付けはむかつくよね。ていうかそれって本当に友達なの? なんで言いなりになってるの? はっきり嫌だって言えばいいじゃない。それで不満な顔されたらそれはもう友達じゃないよ。奴隷乙になりたくなかったらきっぱりCOするべき』
「……」
私はモニタを睨んだまま、何度も何度もその書き込みを読んだ。残念ながら私へのレスはそれ一件だけで、他の人は既に新しく投下された書き込みに食いついているようだった。
私の書き込みは壁打ちで終わらなかった。でも、だけど。
何、なんなの、これ。
COはカットアウト、つまり絶縁ってことだ。それができたら苦労してない。そんなに簡単に縁を切れるわけないじゃない。はっきり言ったら角が立つに決まっているのに、どうしてそんな風に短絡的な考えに至れるのだ。当事者じゃないから、気楽に言えるのだ。
私が欲しかったのはそんな言葉じゃない。この書き込み主、友達いないんじゃないの? 現実の相手を目の前にして、あなたとはもう絶交だからとか、言いたいことをそのまま言えるとでも思ってるの? そんなわけないじゃない。それが言えたら最初からイライラなんてしてないし、うざい思いを抱え込んだままにしていないし、メールの返信にもたついたりしないし、第一こんなとこに書き込みもしない。
ああイライラする。気分が悪い。
私が悪いの? だらだらとした関係を切らずに結果だけ先延ばしにしている私が? 本音では切りたくて仕方なくいのに、もうずっと友達とも呼べない存在になり下がっているあの女を友達ヅラさせている私がいけないの?
私は発作的に、放り出されたままになっている携帯電話を掴みとった。ここに一言書いて送ってやればいい。もう私にかまわないでって。関わりたくないからって。あとはアドレスを着拒に放り込んでやればおしまい。そもそもそんなことしなくたって、このままメールの返信を忘れて放置しておけば切れるかもしれないんだけど。
『渡したいお知らせがあるんだけど、明日って家にいるかな?』
無邪気で、天真爛漫で、天然なメール。無神経で、図々しくて、むかつくメール。うちには家族だっているのに何かと家に上がりたがる女。理由をつけて断ってるけど、どうして察してくれないの。言わなきゃわからない? そういう家庭で育った人ならだいたい価値観が違うんだから、付き合うなんてそもそも無理なのよ。
私たちもう、中学生じゃないんだから。
無邪気にも、天真爛漫にも、天然でもいられないの。察しなさいよ。言われないと分からないっていうのは馬鹿ってことなのよ。
ああ、これが言えたらどれだけすっきりすることか。
私は携帯電話を握りしめていた手から力を抜いた。できっこない。そんな勇気を振り絞るほどの体力をあの女に振り分けて戦えるほど、もう若くもないのだ。
下唇を噛みしめながら、メールの返信ページを開く。心を無にして思考も感情も一切取り払って指先にだけ神経をとがらせる。
『しばらく私事で忙しいから無理かなあ(顔文字)急ぎの用ならポストにでも入れておいて(顔文字)』
碌に読み返しもせず送信。この苦行からさっさと解放されたいから。まあ、誤字などはないつもりだ。結局忙しさで逃げた。前もそうだった。前は私事じゃなく仕事が、だったけど、間違っちゃあいない。
独身で勤め人だから忙しいのだ。そっちだって子育てして家事して主婦業が忙しいでしょう? でも、その比じゃあないから。メールの返信だって遅れる位に多忙を極めているのだ。
でも前回は入れた白々しい『ごめんね』は入れてやらなかった。だって別に私、悪くないし。忙しいのは私のせいじゃない。今回の私事に相当するものが果たして実在するかは謎だけど。
ああ、情けない。結局こうして細々としたか関係を続けていくしかないのだろう。その都度私はイライラを募らせて、向こうは何も感じずに終わるのだ。不公平だ。
まあでもこれでしばらくメールは来ないだろうから、一安心だ。たった一件短いメールを返すだけなのに、どっと体力を消耗したのを感じる。甘いものでも食べて補給しないと、明日に響いてしまいそうだ。
やれやれ。
そうして腰を上げようとしたところで、携帯電話が鳴り響いた。メールの着信。他の人と混ざらないように一人だけデフォルトの味気ない電子音にしてある、それが今まさに鳴って、止まった。
うざい女からのメールに相違なかった。
「ちっ」
舌打ちしてメールを開くも、どうせ『分かった』とかいう送っても送らなくてもいいような内容に違いない。そんな短文を見させられる身にもなれと思いながら嫌々開いた。
『そうなんだ、何か大変そうだね(絵文字)あのね、今月末で会員期限が切れるんだ。何かなくなりそうなのとか気になるものとかないかなと思って』
だから何か買えよてめえ、という内容だった。
こいつ、また私に何か購買させようとしてやがる。
ああもう。ああもうめんどくさい。何が会員だ。辞めてやろうかそんなもん。わが身を燃やし尽くそうとせんばかりのどす黒い感情が瞬時に沸き起こったせいで、思わず携帯電話を握りつぶしてしまいそうになった。
でも。私は携帯を放り出し、棚を確認する。なくなりそうなものはない。洗脳されかけていた時に得た知識で、毒物と思しき成分の入った化粧品には市販のものでも手を出していない。最近は市販でも天然系とかあるので、そちらで補っているため足りている。
ああでも、化粧水とか乳液とか、基礎系のものは割と肌との相性がいいらしくて、ここぞというときには使いたいからちょっとずつ消費している。まだあるけどそっちを買い足しておくか。他の商品は正直効果のほどを得られないから、論外だけど。
『乳液がなくなりそうだから、お願いします』
今度は顔文字すらなしで送信。これでこれで本当に、もうしばらくコンタクトを取ってくることはないだろう。取ってきたらきたでまた多忙を理由に切り抜けるだけだが。ああ、でも商品を受け取らなくてはならない。面倒くさいがこればかりは仕方ない。てめえの親会員の義務とやらに付き合ってやるよ、クソ女。
……ああ、すごく、ものすごく消耗した。これはちょっとしたスイーツなんかじゃあ回復できそうにない。台所へ行って何か、軽くでもいいからご飯系ものをつままないといけない。夜だけど、確実に脂肪になるだけだけど構ってられない。
だって私は忙しくて、他のことにかまってる余裕なんかないんだから。うざい女の相手をして無駄にした時間を取り戻さなくちゃ。あいつにくれてやるものは一つだってない。友情なんて過去のものだ。
End