53.嵐は穏やかな風に変わり、導きの星は花の乙女を優しく照らす。
――ついに、ついに完成した!!
製作期間約三ヶ月。
義母と私の初めての共同作品、花と蔦模様の机掛けが万を満を持して完成に至ったのだ。
この三ヶ月間の苦労を思い出して眦に涙が浮かぶ。
義母のやる気の無さと集中力の無さで増えていく未完成の花達。義母は花びらを縫うのは楽しいが、真ん中の黄色い部分や、蔦や葉は面倒だから縫いたくないと言ったり、楽しいと言っていた花びらの刺繍でさえ、五枚のうち二枚とか三枚とかで飽きてしまい、勝手に自分の好きな色の布を持ち出して、予定に無い花を縫ったりとやりたい放題だったのだ。
私が考えていたものは、青い菫の模様を白い布地に散らした可愛らしいものを想定していたのに、完成したものには色々な種類の花達が共存している落ち着きの欠片もない物が仕上がっていた。
青い菫には「小さな幸せ」という花言葉がある。それをいっぱい縫って「沢山の幸せ」にする意味があったのに、出来上がった机掛けの一部を広げ、どうしてこうなったのだと首を傾げる。
義母はこれが机掛けだというのを失念していたのだろうか?
一見すれば、刺繍練習用の布地に見えてしまう。
小さな花の中に、空気を読まないで手の平程の大きさの薔薇という超大作があったり、五枚の花弁の全ての色が違う花があったりと自由気ままなものとなっている。
義母は、一週間に一度だけ集中力が三時間位続く日があって、そんな日にとんでもない花達が爆誕するのだった。
だが、私はそんなやる気を見せる義母を止める事が出来なかった。今、少しだけ後悔をしている。
義母の飽きた刺繍を綺麗に完成させるのも大変だった。しかも、義母は縫い終わった花を見て、「全然違う花になったわね」と批判までしてきたのだ。と、そんな風にチクチクと布では無く、言葉で突かれていたが、尊大な態度を見せるようになったのも元気になっている証拠だと思って我慢をしていたのだ。
まあ、こうなってしまったのも仕方が無い。とりあえず完成を喜ぶことにした。
早速目の前で本を読んでいたシン・ユーに見せれば、「雑多だな」という尤もな感想を頂いた。
雑多な花の机掛け。何と言うか、纏まっていないようで、結局纏まっていない私達にはお似合いの一品かもしれない。
お金持ちの家に生まれ育った自尊心が強い義母。ザン家という格式の高い華族の家に生まれ、次代当主として厳しい環境の中で育ち、若者らしさをどこかに無くしてしまったシン・ユー。貧乏貴族として生まれ育ち、その場の軽率な判断で異国に行くことになった私。皆が皆、異なる生まれと育ちを持って集まっているのだ。互いの論理などが一致する訳もない。親子喧嘩も頻繁にする訳だ。
真っ白な布地に俺が俺がと主張し合う種類の違う花々。
うん、良いではないか、雑多机掛け。まるで私達のようだ。
白い布なので汁ものを溢したら一発で駄目になるが、その時はまた作り直せばいい。染み抜きの方法は知っているが、知らない振りをしつつ作り直そうと決意を固める。
現在の時刻は日付が変わる一時間前だ。だが、義母の部屋から灯りが漏れていたので、まだ起きているのかと思い、出来上がった机掛けを見せに行くことにした。
◇◇◇
義母は寝台の背もたれに寄り掛かって本を読んでいたようだ。近くにある机に置かれた本には「世界経済学」と書かれている。まあ、あれだな。読んだら眠くなるというか、目が冴えた夜に相応しい本だ。
「どうかしたの?」
「うん。あのね、机掛けが完成したから見せに来たの」
義母が被っている布団の上に机掛けを広げて見せる。
私は雑多な机掛けと義母の顔を交互に見ながら、発せられる批判の言葉に身構えていたのに、口から出てきたのは重たいため息だった。
「お義母さん?」
「もう、いいのよ」
「え?」
「私に構うのは止めてちょうだい」
寝台の上に乗り出していた体を強めに押されてしまう。
今日はご機嫌斜めだったのだろうか。
いや、こんなに夜遅くに部屋に来たのが駄目だったのかもしれない。
色々と不満を言いつつも、仕上がったことが嬉しかったので、我慢出来ずについ見せに来てしまったのだ。
「ご、ごめんなさい」
「あなたも疲れたでしょう? 嫌いな相手に気を使うのは」
「へ?」
「本当は、シン・ユーと二人きりで暮らしたいのでしょう?」
「な、何の、こと?」
「だから、私のこと嫌いなのに、無理矢理構わないでって言っているのよ! 分からない子ね!」
「……」
なんという事だろうか。私と義母の間に気持ちのすれ違いがあったとは。
毎日真心を持って看病やお世話をしていたのに、私の愛が全く伝わっていないとは思ってもいなかった。
「な、なによ!! 早く出て行ってちょうだい!!」
「お義母さん」
「……」
雨の中、行く当ても無い小犬のような顔で義母を見たが、プイっと顔を背けられてしまう。……同情心を煽る小犬風作戦は呆気なく失敗したようだ。
おかしいなあ、シン・ユーには良く効くのだけれど。
「お義母さん、少しだけお話聞いて」
こうなったら隠していた義母への親愛を分かって貰うしかない。私は勝手に寝台の端に座り、思い出さないようにしていた記憶を語り始める。
「私の……ハイデアデルンのお母さん、私が十二歳の時に病気になったの」
働きすぎて体の異常に気付かなかった母親は、医者に前途の見込みが無い病気だと告げられ、余命半年という診断が言い渡される。
母は入院費が勿体無いからと自宅での療養を望んだ。
私と父は病気の空気感染を防ぐ薬を打ってもらい、看病をする毎日を送っていたのだ。
処方された薬の効果は無く、母は日に日に衰弱していった。
幼い私に出来ることなどほとんど無くて、大切な人が居なくなってしまうかもしれないという状況が辛くて、悲しくて、母の前で毎日泣いていた。
そんな私に母は背中を撫でてくれと頼み、凄く楽になったと笑顔を見せてくれたこともあった。今思えばあれは何も出来なくて落ち込んでいた私への気遣いだったのかもしれない。病人に気を使わせるなんて、なんて酷い娘だったのだろうかと反省する。
現在の状況もそうだ。義母に気を使わせてしまった。
だから、私の本当の気持ちを今、伝えなければならない。
「日に日に食事が喉を通らなくなって、痩せ細って弱っていくお母さんを看るのは本当に辛かった」
「……」
「でもね、ラン・フォンお義母さんは違う! 毎日、ちょっとずつ元気になっているから、私は嬉しいの!」
「!」
なんだか気持ちばかりが先走って、だんだんと言葉使いが拙くなる。
「ここに来たばかりの頃は茶碗一杯のお粥が食べられなかったけれど、今は食欲も出てきた。お喋りもしてくれるようになって、最近はよくシン・ユーと喧嘩もする」
私の気が効かない看病でも、義母はどんどん元気になっていく。それが本当に嬉しかった。
義母は私の母のように儚くはならない。それを思ったら、日々のお世話にも充足感を覚え、やり甲斐が出て来たのだ。
義母は信じられない、という顔でこちらを見ている。
……ここまで言ってもまだ分からないというのか。この鈍感さんめ。
仕方が無いので、私は分かりやすく気持ちを伝えることにした。
「――私ね、お義母さんのこと、本当のお母さんみたいに思っているの。だから、悲しいことは言わないで。辛かったら、頼って欲しい」
「!?」
義母は驚いた顔を見せている。まさか私の想いに気がついていなかったとは。
多分、自分自身も義母を元気にしようと熱心になりすぎて、相手が安心するような表情では無かったのかもしれない。
「ねえ、お義母さん、こっちに来て」
「え!? な、何」
呆然とした表情を見せる母親の手を引いて、寝台の上から窓際へ移動をする。少し肌寒かったので、椅子に掛けてあった上着を義母の肩に羽織らせた。
「私の宝物を見て欲しいの」
「??」
部屋の灯りを消してから、窓を開けて、その場にしゃがみ込む。
一体何をしているのだと訝しむ義母の表情は、見なくても分かるなと考えながら、左右の人差し指と親指をくっ付けて四角い枠を作り、夜空に浮かぶ宝物を封じ込めた。
「お義母さん、この中にある、空で一番綺麗な星、分かる?」
「え? ええ」
空には数え切れない程の星が広がっている。
その中でも、私の星は一番大きくて、眩いばかりの輝きを放っていた。
「あれは、幸せに導いてくれる星」
ポカンとする義母に向かって、母親からこの星を貰った時の話をする。
「……それで、貧乏なお父さんはお母さんに贈る物が何も無くて、代わりにあの星をこうやって手で枠を作って、【あの一番星に誓って君を幸せにするよ】って言って渡したの」
普通の令嬢ならば怒り狂っていたかもしれないが、母は童話の中の世界観のようだと、父の手ぶら求婚を喜んでいたのだ。
「手で作った枠が宝石箱で、中に納まった星が宝石、それが私の持っている唯一の宝物」
母は父と結婚をして、私が生まれて、最高に幸せだからと、病床の中で私に思い出の品を譲ってくれた。
私も今、義母に出会って、シン・ユーと結婚して、細かい事は色々あるが、何の憂いもない生活を送ることが出来て、最高に幸せなのだ。
「あの星は、ハイデアデルンでは【宵の明星】という、幸せの星だと言い伝えられているけれど、大華輪国では【星玉】と言って、迷っている人を導いてくれる星なんだって」
「……」
「二つの国の意味を合わせたら、【幸せに導いてくれる星】だね」
「!!」
私は枠組みをしていた手を離し、義母の手をぎゅっと握り締める。
「あの星を、お義母さんにあげる!」
「え!?」
「私は今、幸せなの。ここに来て、幸せになれたから、今度はお義母さんの番。このお星様を持っていたら、きっと幸せになれるよ!」
何だか幸せ押し付ける宗教のようになっていないかと心配になって、義母から手を離す。家族の内輪話だから鼻先で笑われるかな、と恐る恐る義母の顔を見上げた瞬間に、抱きしめられてしまった。
「――わ!」
「ご、ごめんなさい!! ごめんなさい、リェン・ファ!! あ、あなたは、こんなにも、優しくて、いい子なのに、わ、私はこれまで、ひ、酷いことばかり、して、きたわ」
突然の事で驚いたが、私を抱きしめる義母の体は微かに震えていた。
そんな弱々しい義母の体を抱き返し、大丈夫だと言わんばかりに背中を撫でて落ち着くように促す。
義母は堰を切ったように、謝罪の言葉を繰り返した。
少しだけ落ち着きを取り戻すと、ポツポツと話し出す。
――今まで素直になれなかったと。何が悪くて、何がいい事なのか、心の奥では分かっていたのに、行動が伴わなかったと。
「あなたにばかり八つ当たりをして、辛かったでしょうに」
「ううん、大丈夫だよ。すぐに忘れるから」
心にも無い事ばかり言っていたのは分かっていた。だから、義母の激しい言葉の数々は適当に聞き流していたのだ。
「あ、ありがとう」
義母はしゅんとしながらもお礼を言ってくれた。初めて聞いた言葉だったので、嬉しいような、恥かしいような気分になってしまう。
「シン・ユーにも謝らなきゃだわ」
そう言って義母は立ち上がると、そのままシン・ユーの居る居間へ走って行った。
その行動の速さに驚きながらも、私もその後を追う。
「……シン・ユー、その、えっと」
勢い良く部屋を飛び出して行ったのに、義母は何故か謝罪の言葉を言い出せずにシン・ユーの前でもじもじとしていた。
なんだよ、早く告白しちゃいなよ、と後ろで見ていれじれったい気分になる。
シン・ユーもいつもと違う母親の態度を感じ取ったのか、立ち上がって対峙する。
「――!?」
……い、いやいやいや、その顔!! シン・ユー、もっと優しい顔で見下ろして!
餌の準備を待つ間、早くしろよ! とイラついているヨーヨーのような顔で母親を見下ろすシン・ユーに心の中で突っ込みを入れる。
だが、シン・ユーの顔をまともに見ていなかった義母は、迫力ある息子に向かって頭を下げて謝っていた。
「い、今まで、迷惑を掛けて、ご、ごめんなさい!」
「!」
「ゆ、許してくれる、か、かしら?」
普段、無表情とキレた顔のどちらかに固定されているシン・ユーの表情も、流石に義母の謝罪を聞いて驚いたようなものになっている。
義母は眦に涙を溜めながら、震える声で謝りきった。
素直になった義母がシン・ユーに歩み寄るという、歴史的な瞬間に私の涙腺も崩壊しそうになっている。
――さぁ、シン・ユーよ、呆然としていないで、返事をするのだ!!
私が心の中で突っ込みを入れている間、シン・ユーはいつもの表情を取り戻していた。
そして、ついに、ついに義母の謝罪を受け入れたのだ。
「許すもなにも、自分達は家族だから、意見の衝突などを気に病む必要は無い、と思っている」
「!!」
義母はそんな言葉を聞いて、感極まったからか、シン・ユーの体を抱きしめた。
シン・ユーも、その抱擁を静かに受けている。
私は彼らを二人っきりにしようと思って、そっと部屋を後にした。
◇◇◇
外は少しだけ肌寒かった。
一年中温かなこの土地にも、一年に数日だけ寒い日があるらしい。今日がその日かもしれない。
薄着で出て来た私は後悔をしつつ、両手で自分の肩を摩る。
まさか、寒いから戻って来ちゃった、なんて家の中に入れる訳が無い。
今、シン・ユーと義母は長年の溝を埋め合っている最中だろう。
私は暇つぶし目的に、夜空の星を見上げた。
降ってきそうな程の、満開の星空が広がっている。
ここに来て、星を見る余裕も今までに無かったのだ。
だが、数え切れない星を見ていると、少しだけ寂しいような気分になる。
――何故だろう、理由は分からない。
そんなことを考えていたら、背後から扉が開く音がして振り返った。出て来たのはシン・ユーだ。「家に入れ!」と言いに来たのだろうか?
「そのような薄着で寒くないのか?」
「ちょっと寒いかも」
そう言えば、シン・ユーは自らの上着を脱いで私の肩に掛けてくれる。
「あ、ありが」
へへ、悪いねえ、お兄さん、的なお礼を言おうとすれば、上着と共に置かれた手は離されずに、そのまま近くへ引き寄せられ、気がつけばシン・ユーの腕の中に抱き締められていた。
「レイファローズ、ありがとう、本当に」
「!!」
不意打ちでハイデアデルンの名前で呼ばれ、一瞬で全身の柔軟を失ったかのような硬直状態に陥ってしまった。
「あ、えっと、はい」
混乱した中で、ふと我に返り、自分はこのように抱き締められて礼を言われる事を何かしたのかと疑問に思う。
「母親と和解出来る日が来るなど思ってもいなかった」
「あ~! そ、そっか」
シン・ユーは義母と和解出来たお礼を言いたかったらしい。なんという情熱的なありがとうだろうかと考えていたら、今までに無い程顔が熱くなっているのに気が付いてしまった。
「で、でも、何でハイデアデルンの名前?」
「英知と救済の女神」
「?」
「俺達親子は救われた。その名は、お前にこそ相応しい」
「!!」
――英知と救済の女神。
私には身に余るもので、でも、いつかその名につり合う自分になれたらと夢見ていた、両親から贈られた大切な名前。
シン・ユーは救われたと言ってくれた。それが本当に嬉しくって、情けない話だったが涙が止まらなくなってしまった。
この涙には、多分先ほどの親子の仲直りの感動も含まれていると思われる。
どれだけ泣いていたかは分からない。シン・ユーは私が泣き止むまで傍に居てくれた。
「……」
「……」
ちょっとだけ気まずくなった私は、シン・ユーからそっと離れて別の話題を振る。
「そ、そう言えば~、【シン・ユー】ってどういう意味なの?」
基本的に人の名前は古代語発音で、音を聞いただけでは意味が分からないものが大半だ。
そんな質問をする私を、シン・ユーは呆れた顔で見ていた。勉強不足と言いたいのだろうか?
「やはり、気付いていなかったのか」
「はい?」
「一番好きで、大切だと言っていたのにな」
「……?」
シン・ユーは夜空の星を指差す。
その先には、一際大きく輝く一番星があった。
「――え!? わあ、も、もしかして、星玉の古代読みがシン・ユー!?」
星玉さんはこっくりと頷く。
長い時間を掛けて止めた涙が、再びワッと溢れ出てきた。
先ほど空を見て寂しく思ったのは、自分の星が空に無かったからだったと思い至る。
けれど、私だけの星は、こんなにも近くに居てくれたのだ。
こんな夢みたいな事があるのかと、嬉しくって、本当に嬉しくって、涙が止まらなかった。
でも、これだけは言わねばと、震える声を振り絞って言う。
「シン・ユー、大好き。私の大切で一番好きなお星様!」
その言葉を聞いたシン・ユーは何の断りもなく、私を掬い上げる様にして抱き上げる。
持ち上げられたことによって目線が同じになり、涙でぐしゃぐしゃになった私を間近で見たシン・ユーは笑っていた。
その穏やかな表情を見て、驚くほど隙だらけだと思ったので、泣き顔を笑った事に対する一矢を報いる為に、私は無防備な頬に唇を寄せる。……が、残念な事にシン・ユーにはこの類の攻撃は効いていないようだった。
どうすれば困らせてやることが出来るのかと考えているうちに、口を塞がられてしまった。
シン・ユーをどうにかして困らせようだなんて、未熟な私には早かったのだ。
それから、後で聞いた話だったが、シン・ユーも自分の名前を重たく感じていたというのだ。
【導きの星】の名を持ったばかりにファン・シーンに目を付けられ、国やザン家を正しく導かなければならないという精神的重圧に日々悩んでいたとか。
けれど、そんな思いからも解放されたという。
本当に良かった!
◇◇◇
その日の夜、不思議な夢を見る。
どこだか分からない場所で、シン・ユーは蹲った状態で苦しそうに咳き込み、その体には真っ黒な煙が纏わりついている。
その黒い煙は手でいくら払っても落ちなくて、息も絶え絶えなシン・ユーを前にして、誰か助けてくれと叫んだ。
『――そのように叫ばなくとも、聞こえておるわ』
「!?」
声のする方を見れば、長い黒髪の女性がこちらを見下ろしていた。顔はぼやけていてよく分からない。
『蓮の子よ、よくぞ務めを果たした。このままでは王都は黒霧に飲まれておったぞ』
「?」
『そなたは約束を守った。だから、もう、赦してやろう』
「あ!」
突然現れた女性は、持っていた扇子をシン・ユーに向けてゆっくりと扇ぎ出す。
すると、体中に纏わり付いていた黒い煙が吹き飛んだのだ。
『もう、見守ることは止める。我が子らは、自らの力で幸福を手に出来ることが分かったからな。……さて、死に別れた夫の元へ行くとしようか』
「!!」
謎の言葉を残した女性は、消えて無くなってしまった。
……一体何だったのか。
これが昨晩見た不思議な夢の全貌だった。
ところが、不思議な事は、この夢だけではなかった。
シン・ユーの体調が以前と比べ物にもならない程に良くなったのだ。医者に診断して貰えば、健康な成人男性そのものだという言われる位に。
もしかしてあの夢に出て来た女性は蓮華仙女様で、シン・ユーの呪いを解いてくれたのかな? と思ってしまった。
その日以降、シン・ユーは一度も体調を崩すことは無かった。
◇◇◇
それからの私達は何の事件に巻き込まれることも無く、平和な日々を送っている。
義母は暇つぶしに家事を覚え、天才的な主婦としての才能を開花させた。義母のお料理は本当に美味しいし、裁縫も私より上手くなってしまった。これはちょっと悔しい。
健康体を手に入れたシン・ユーは、私との約束を律儀に守って写本を手がける仕事を続けてくれている。
私は布小物を作り、商人を通して街で売って貰ったり、ファン・シーンの妹姫様の収集品であった恋愛小説を読み漁ったり、森を散策したりと、色々なことをしつつ気楽な生活を送っていた。
それから一年後にハイデアデルンに移り住む事になったり、新しい家族が出来たりと色々な事があったが、私の人生は語りきれないほどに幸せに満ち溢れていたのだった。
◇◇◇
――二十年後。
下の娘が学士院に通うようになり、暇を持て余した私は働きに出ることにした。
夫は私が働きに出ることを渋ったが、父の職場で働くなら許可をするという妥協案を出してくれたのだ。
理由を聞けば他の男が居る場所に行かせたくないと言っていたが、四十前のおばさんを誰が相手にするのだと問い詰めたかった。
父の職場、というのは長年お世話になっているベルンハルト家だ。私はそこで使用人をしている。
一番上の十八の息子も学士院が終わった後、小間使いとして働いている。夫も旦那様が経営しているベルンハルト商会で働いているので、家族ぐるみでお世話になっているのだ。
ちなみに義母は私が昔働いていた布物商店で、子供用の産着を作る仕事をしている。孫の為に作り始めたものだったが、余ったものを店に置き始めた事がきっかけで話題になり、今では注文が殺到していて、忙しい毎日を送っているという。
日も沈みきった頃、最後の部屋の掃除を終えた私はそろそろ帰る時間だな、と大きな壁掛け時計を眺めていた。
ところが、勤務終了の鐘が鳴るのと同時に、部屋の扉が勢い良く開かれる。
「――大変だ、レイファ!!」
「ど、どうしたの、お父さん? 私、もう帰って夕食の準備をしなきゃなんだけど」
「ちょ、ちょっと待ってくれないかい!?」
父が血相を変えて家に帰ろうとする私を引き止める。話を聞けば、旦那様の葉巻を買いに行かせた息子が帰ってきていないというのだ。
「ど、どこかで寄り道をしているのかな」
「それは無いと思うけれど」
長男は見た目から性格まで夫にそっくりな頑固で真面目な男だ。与えられた仕事を放棄して遊び歩く事はありえない。
「だ、だよね、だったら事件に巻き込まれた、と、とかじゃ」
「……」
可能性としてはそちらも高かったが、もう一つ、考えたくも無い呆れた理由があるのだ。
「――ゲッ!」
「ん?」
外は真っ暗になっていたので、部屋のカーテンを閉めようとすれば、問題の人物の姿を発見する事が出来た。
「みっ、見つけた~~!!」
「ええ!?」
外にある外灯に照らされた影は二つ。
一つ目は、着飾った女性のもの。
もう一つは、馬鹿息子のもの。
「あ、あの子は~~、全く、なんてこった!!」
息子が我を忘れてしまう存在は、今も昔もベルンハルト商会のお嬢様、メルディア様(三歳年上)だけだ。
こんな所まで父親に似なくってもいいのにと憤慨しながらも、ここはビシっと息子を叱って貰おうと父の腕を引いて外に出る。
息子を追って外に飛び出した私たちは、きっちりと現場を押さえていた。建物の影に隠れ、いつ出て行こうかと時機を見計らっている。
「……」
「……」
だが、お嬢様は大号泣しており、このまま見なかった振りをすべきなのかとも迷ってしまう。
話を盗み聞きしていれば、本日は夜会だったようで、二十一歳という微妙な年頃のお嬢様に向かって、一生結婚出来ないだろうという胸に突き刺さる一言を言われたと泣きながら話していた。
メルディアお嬢様は強気に見える顔の作りをしているのだ。そのお蔭で気が強い女性だと勘違いされる事が多々あり、見た目の事で悩みの種を抱えている。
そんなお嬢様を息子は出会った時から敬愛していたようだ。
嫁の貰い手なんか無いと泣きじゃくるお嬢様を息子は必死に慰めている。
お、おい、息子よ。頼むから、早まるでないぞ、と念を送っていたが、それも無駄に終わる。
息子はお嬢様に求婚をしてしまったのだ。
まだ、学士の資格も持っていない、かつ、一人で暮らしていく力すらない男が、手ぶらで求婚をするだなんて、ありえないこと。
私は頭を抱え、父は後ろで信じられないとばかりに口を押さえている。
夫がこの場に居れば、求婚する前に素早く接近して、便所の履物で息子の頭を馬鹿か!と叩いていたかもしれない。
反応の悪い自分達に軽く絶望した。
その後、息子はお嬢様をその場にしゃがませてから、自分もその隣に膝をつく。
「あ!」
「わあ!」
それは自分達に見覚えのあるもので、思わず声に出してしまい、覗きがバレそうになったので、逃走を図った。
「どどどどどうして、あああ、あれを知って」
「……」
息子がお嬢様に指し示したのは、夜空にポツリ輝く【幸せに導いてくれる星】だった。
父は自分が母に贈った星の記憶を蘇らせて、焦っているのだろう。
多分、あの星は、義母から息子へ渡ったに違いないと想像をした。
私は父へネタばらしを行った。
「なんだ、そうだったのか」
「うん。お母さんとの約束で喋れなくってごめんね」
「いや、むしろ嬉しい位だよ」
良かった。父が寛大な人で。
しかしながら、息子はこれからどうするつもりなのかと心配になったが、この問題は夫に丸投げをすることにした。私と父には重過ぎる。
「本当に不思議だね。あの星は伝承通り、人を幸せにして回っているんだ」
「そうだね」
先ほどの光景を私と父は見なかったものとして、その場を後にした。
その後、大変な騒ぎが起こる訳だが、またそれは別の話である。
◇◇◇
私はハイデアデルンの夜空を見上げた。
相変わらず厚い雲に覆われた空には、星が疎らに輝いている。
けれど、その煌めきは、どこから見ても変わらないものだ。
――夜空の星は、巡り巡って様々な人を幸せに導く。その僥倖を、私は奇跡のようだと思った。
没落貴族令嬢の異国間結婚奮闘実録 完。




