3.星空と別れ
――言い値でお前の体を買ってやろう。
ゴクリと唾を呑み込み、頭の中で浮かんでいる金額を口にするべきか悩んでいた。
「決まりましたか?」
このような機会など、二度と無いことだ。それは頭の悪い私にも分かっていた。
父親に相談をしなければならないことだと分かっていたが、決定は今すぐにと急かされ、私は自身に値段を付けた。
「……か、百枚」
「すみません。聞き取れませんでした。もう一度」
「金貨、百枚、が、欲しいです」
黒髪少女は黒髪婦人に提示した金額を訳している。その様子を私は固唾を呑むようにして見守っていた。
金貨百枚。
国に納めれば、貴族としての役割を放棄出来るのだ。
金貨百枚など私達親子が死ぬまで働いても手に入れることが出来ない大きな金額だ。
隠しているつもりだが、父は腰が悪く、毎日痛みを我慢しながら働いている。このまま二つの仕事を続ければ、父の体はボロボロになってしまうだろう。
祖父が生きていた時代の父は、城で文官をしていた。それから祖父が死に、伯父が財産を一瞬にして食い潰してからライエンバルド伯爵家が没落をすると、父は職場を首になってしまった。伯父に自分の罪と伯爵位共々押し付けられたのだ。
父はヘラヘラしながらも、家族の為に努力と犠牲を惜しまなかった。大好きな母の今際の時にも仕事に行った。
父の人生は不幸という名の泥に塗れていた。けれど、父はその泥に負けなかった。
だから、もう、楽になっても……
「奥様は了承なさいました」
「!!」
「今日の夜にはここを発つのでそれまでにご準備を」
そう言いながら手渡されたのは、金貨百枚と書かれた商会券だ。
これを銀行省へと持って行けば簡単にお金が受けとれるのだ。
「それでは五時間後に正門前でお待ちしております」
「――あ、待っ」
黒髪少女と黒髪婦人は風のように去って行ってしまった。時機が良いのか悪いのか、二人が居なくなった後でマリアさんが店に出て来た。
「あら、誰が来ていたの? 何か売れた?」
「あ、あの、わた、わた……」
「ん?」
「私が、売れました」
「……はあ?」
◇◇◇
就業時間が終わった私は、そのまま城に向かった。貴族の名を返上する為だ。
恐らくこのお金を父は受け取らないだろう。だから先に手続きを済ませてしまおうと思った訳だ。
このような手続きは当主である父親が居なければ受理されないのではと想定していたが、あっさりと書類は通ってしまった。
これで私達は自由、もう毎月の支払いに怯えなくてもいいのだ。
職場の姐さん達は、金持ちの家の息子との結婚話に玉の輿じゃないと喜んでくれた。まあ、本当に結婚をする訳ではなく、あくまで私の扱いは幸せになれる異国の珍品だが。
だが、父は違った。
「うっ、ううっ、うううう……」
現在、父は涙で顔をグシャグシャにしている。
私が金貨百枚と交換して大華輪国に行かなければならないことを告げると、突然泣き出したのだ。
「お父さん、ごめん……ごめん」
「うっ、ううっ、うううううううう……!!」
「……」
父の気持ちは言わなくても分かる。多分、貧しくても親子でひっそりと暮らすことを望んでいたのだろう。
私も出来るなら今の暮らしを続けたかった。だが、体の替えは無いのだ。このまま無理を続ければ、父の腰は駄目になってしまうだろう。
父はこう見えて頑固者だ。自分の信念は絶対に曲げない。これまでに何度も仕事を減らすようにお願いしてきた。私の給料を全て支払いに回せば、父が仕事を増やさなくてもなんとかやって行けたのだ。
しかしながら、私の給料の残りは将来の為に貯金をしてくれというのが父親の主張だった。
だから、私はこのような強行手段に出た。
「ごめん」
「……」
「これ、私が今までに貯めていたお金。引っ越しの費用に」
爵位を放棄したので、この広いお屋敷も没収だ。しかし机に置いたお金は要らないと突き返されてしまった。
「私、もう行かなきゃ」
「待って、待ってよ」
父はしゃっくりあげながら、奥の部屋へと消えていく。そして、手の中には大きな革袋が握られていた。
「これ、これは、お金」
「いらない。お父さんの生活費にして」
「ち、違うんだ。……これは、お母さんと二人で、お前が結婚するときの支度金にしようって、ずっと貯めていたもので」
「!!」
「我が娘ながら、こんなにも優しくて、可愛い子だから、幸せな結婚をするに違いないって、お母さんと話ながら、貯めていたんだよ」
「……」
今の私には、両親の貯めたお金を受けとる資格など無くて、差し出された革袋どころか、父の顔も見れなくなっていた。私は結婚をする為に大華輪国へ行く訳じゃない。
向こうでどのような扱いを受けるか分からなかったので、異国の珍品として渡ることなど言える訳が無かった。
「いつか、居なくなることは想像していたけれど、言葉も通じない異国に嫁ぐなんて……心配、心配で」
「大丈夫だよ」
「花嫁衣装も、持参金も、恥ずかしくないようにって、沢山、沢山、お金を、貯めようって」
「大丈夫、お母さんの言いつけを守るから」
母は言っていた。幸せはいくらでも転がっていると。どんなに貧しくても、心を豊かにする術を知っている。だから、私は大丈夫なのだ。
「何も、持たせるものも無くて」
「……大丈夫。私はお母さんから宝物を貰っていたから」
「宝物?」
「うん。でも内緒にしていてって言われたから、何かは言えない」
「……そ、そうか」
三年前、母は大切にしていた宝石箱と宝石をくれた。誰にも話してはいけないよと言われているので、父にも内緒なのだ。
荷物を纏めて父親に最後の挨拶をする。
今になって、たった一人の肉親を置いて行く事に罪悪感が込み上げて来た。
「幸せに、おなりよ」
「……ありがとう」
空を見上げれば、まばらに星が散らばっている。
この国は一年のほとんどが雲で覆われ、星が見えることは珍しいのだ。
だが上空は常に淀んでいるので、満天の星空というものは見たことが無い。空に見えるのは、強い光を放つ星だけだ。
父と別れて、正門の外へと歩く。
まだ集合場所に大華輪国の主従は来ていなかったので、荷物の入った鞄を置いて空を見上げた。
左右の指先をくっ付けて四角い枠を作り、その中に夜空で一際輝く星を閉じ込める。これが、母から貰った宝石箱と宝石で、私の宝物なのだ。
病床の母は様々な話をしてくれた。その中に父から贈られたという宝物の話があった。
母は子爵家の令嬢で、幼少時から父との婚約が決まっていた。ところが、ライエンバルド家の没落により婚約は解消され、無職の父は一人寂しく暮らす予定だった。
しかしながら、数日後に母は荷物と白馬を持ってライエンバルド家のお屋敷へとやって来る。母は父のことが大好きで、実家から勘当されても結婚をしたかったと言っていた。
そんな母を前に、父は盛大に動揺をしていたらしい。お金も無ければ仕事も無いという自分が、苦労をさせてしまうと分かっているのに妻を貰う訳にはいかないと。
だが、母も決心を曲げなかった。勝手に屋敷に住み込んで、慣れない家事を一生懸命になって覚えた。
母は必死になって父を説得した。「貧乏でも、幸せになれる方法を私は知っている」と言って。
一年後に漸く父が折れて二人はめでたく結婚。指輪も婚礼衣装も無い、書類を書くだけという質素な結婚式だった。
教会から帰る途中、父は左右の指先で作った枠の中に、夜空に浮かぶ星を囲んだものを母に見せた。
そして一言、「あの一番星に誓って君を幸せにするよ」と言ったのだ。
夜の空で一番輝き、宵の明星とも呼ばれる星は、眩い光から地上に暮らす者に幸せをもたらすだろうと言われている。
お金が無くて母に何も渡せなかった父は、夜空の星を母に贈ったのだ。
その後の父は自分の行動を恥じて、この事は誰にも言わないでくれと言ったという。
その約束は長い間守られていたが、母は誰にも言わない約束よ? と言ってから、父に貰った宝物を私にくれたのだ。
そんな風に過去の思い出に浸っていると、背後から声を掛けられる。
振り替えるとおかっぱ頭の黒髪少女が無表情で佇んでいた。
「出発の時間です」
大きな決意を胸に、小さな鞄の中に私物を詰め込んだ鞄を手にして、宝物である宝石箱を心の中に仕舞い込んで私はひっそりと旅立つ。
まだ見ぬ、大華輪国へと。