29.後宮からの挑戦状!?その壱
一人部屋の中で勉強をしていると、近くを通りかかった義母が死ぬほど暇だったからか、突然訪れる。もしかしたら初めての訪問かもしれない。結婚式の準備が終わってすることが無いのだろうか。よく分からない。
「あら、一人で勉強しているの?」
「うん。リイリン、勤務、減った」
「そうだったわね」
リー・リンは兄が経営しているお店が忙しくなっているようで、ザン家での勤務をごっそりと減らしている。いずれはここを辞めて、飴玉作りに専念したいと言っていた。
心地よい毒を吐く彼女が居なくなるのは寂しい感じがするので引き止めたい気持ちはあったが、自分一人の我儘でやっと訪れた家族の平安を邪魔する訳にはいかない。
そんな教師不在の私はひたすら一人で大華輪国の文字を覚えようと奮闘していた。
今までは喋ることを優先して覚えていたので、読んだり書いたりというのを後回しにしていたのだ。
「ここ、間違っているわよ」
「あ!」
「ここも、ここもね。……あなた、本当に真面目にやっているの?」
「……」
教師不在というのは些か厳しいもので、見ての通り苦戦をしている。使用人はそれぞれ忙しくしているので、教えを請うことも出来ず、意味が無いかもしれない自主学習の時間だけが刻々と過ぎていく。
「嫌だわ、間違いだらけじゃないの」
「うーん」
そんなに間違いに気が付くのなら教えて欲しかったが、嫌だとお断りされるのが分かっていたのでそのまま黙っていた。
「あら?」
「ん?」
「指に付けているのって」
「!!」
――しまった。指輪のことを失念していた!! シン・ユーに勝手に嵌められた指輪は旅行から一ヶ月経って尚外れないままでいたのだ。今までずっと気を付けていたのに、勉強に集中していたので、指輪についてすっかり警戒を忘れていた。
慌てて隠したが、その行為が返って興味を引いてしまう事となった。
「ちょっと!! 何を隠したの!?」
「何も、ない」
「嘘おっしゃいな! 指輪を付けていたでしょう?」
「……ない、なにも」
「何か付けていたでしょう!? まさか、また安っぽい玩具みたいな指輪を買って付けているんじゃないわよね!?」
「お、玩具、違う。目利きのシンさん、貰った。本物、確実。本当」
「目利きのシンさんって誰よ!!」
お宅の息子さんを勝手に呼ばせて貰っております、とも言えずに薄ら笑いをして誤魔化した。
義母は私の指輪の追及を諦めていない。扇で私の袖で隠した手の甲をトントンと叩いて、うっかり中身が飛び出してくるのを虎視眈々と狙っている。
さて、どうやって言い逃れをしようか、と考えている所に天の使いが現れた。
「大奥様、こちらにいらっしゃったのですね」
「何か用なの?」
「それが」
使用人は義母に用件を耳打ちする。
「は? シン・ユーじゃなくて?」
「は、はい」
「へんな子ね。全く、訳が分からないわ」
急に不機嫌になった義母が部屋から去って行った。とりあえず、危機から逃れることに成功した。
一体義母があんな迷惑そうな顔をする来客とは誰だったのか。謎のまま、部屋で一人きりとなってしまった。
◇◇◇
「う~~ん」
自主学習も三時間目になっていたが、集中が途切れていた。その理由というのも……。
「リェン・ファちゃん、お茶飲む? それともお菓子食べる?」
「……」
私の前に居るのはファン・シーンだった。
「ファン・シーン、帰って」
「え~、ちょっと位いいじゃん~」
「帰って」
「お茶一杯だけ付き合ってよ~」
背後に控えていたメイ・ニャオを振り返り、視線で「こいつをどうにかしてくれ!」と訴えたが、困った笑顔を向けられるだけだった。
「何、しに来た? シン・ユー、帰る、夜」
「ラン・フォンちゃんとお出かけしたくて来たんだけど、断られちゃった!」
「は?」
「ラン・フォンちゃん。シン・ユーのお母さんね」
「し、知っている!!」
こいつは馬鹿なのか!? あろうことか義母をちゃん付けで呼んで、更にお出かけにまで誘うとは、なんという命知らずな男なのか!!
「……なんで、おかーさん、誘った?」
「え? ラン・フォンちゃん超美人じゃん。お近づきになりたいなあって」
「……」
「三歳しか離れていないし、別に不思議なことでもないでしょう?」
「は!?」
「あれ、ラン・フォンちゃんって僕の三つ上だよね?」
「フ、ファン・シーン、三十三!?」
「うん、そうだけど?」
「……」
とんでもない童顔男がこんなに近くに居るとは。驚きすぎて絶句してしまった。
いつも飄々としていて余裕のある感じだからシン・ユーよりは年上だと認識をしていたが、そんなに年を食っているとは思わなかったのだ。
なるほど、なるほど。
何となく信用出来ない奴だと疑っていたが、彼の底知れない感じは経験によるもので、わざと本心を見えないようにしているのかもしれない。
ファン・シーンが三十三歳と分かれば、彼にも色々と背負うものがあって、このような馬鹿げた振る舞いをしているのは現実逃避でもしているのではないかと思いなおしてしまう。
「もしかして若く見えていたとか?」
「……」
「お兄ちゃんって呼んでもいいよ」
「嫌。ファン・シーンおじさん、帰って」
「まあ、おじさんでもいいけどね」
「……」
何を言っても帰りそうになかったので、勉強道具を片付けて一休みすることにした。
メイ・ニャオは透明の急須を机の上に置き、その中に茶色い果物の種みたいなものを入れる。その中にお湯を注ぐと、種みたいな固まりがホロホロと解れていく。
「わあ!」
果物の種みたいだった塊がどんどん大きくなっていき、最終的には花が咲いたように茶葉が広がった状態になった。
メイ・ニャオにこれは何かと聞けば、花咲茶という大華輪国の工芸茶というものらしい。お茶の葉を丸めて食用の植物の茎で縛り、長い時間を掛けて乾燥させたものだという。
味は普通の大華輪国のお茶と変わらないが、見ていて楽しい気持ちになる。
そんな私の気分を沈ませる贈り物をファン・シーンは持って来ていたのだ。
「あ、そうそう。手紙をね、預かっていたんだ」
「誰?」
「王妃様からリェン・ファちゃんに」
「へ!?」
ファン・シーンは懐の中から一通の手紙を出して、私に手渡す。
正方形の変わった形の封筒には、大華輪国の王家の紋章が描かれており、裏には王妃様の名前だろうか。【帝=翡翠】と書かれていた。
「じゃあ、帰ろうかな」
「待って、ファン・シーン!!」
「ん? まだ遊んでくれるの?」
「遊ぶ、チガウ!! な、なに、これ!?」
「王妃様からの手紙でしょう? 内容までは知らないよ」
「……」
「気になるなら読んでみたら?」
ファン・シーンに促され、王妃様からの手紙を開封する。
手紙の紙面を緊張した面持ちで読み始めたが、ほとんど読めなかったので、ファン・シーンに読んでもらう。
そこには、一ヵ月後に後宮でお茶会が開かれるので、是非来て欲しいというお誘いの言葉が書かれていたようだ。
「こ、これ、は?」
「そんなに畏まらなくても大丈夫だよ。王妃様はリェン・ファちゃんと同じ年だし、気安い御方だから」
心臓が嫌な感じにドクドクと鼓動を打っている。喋りも片言、文字もまともに書けない、振る舞いも怪しい私が王妃様の前に立つなんて考えられないことだ。
呆然とする私に、ファン・シーンは別れの言葉を告げて部屋から出て行ってしまった。どうしてこういう事態になってしまったのか話を聞きたかったが、頭が上手く回らなくってそのまま見送ってしまう事となる。
そして、結婚式以来早めに帰宅をするようになっているシン・ユーに泣きついてしまった。
「シンユウ、どうする、ど、どど、どう」
「落ち着け」
シン・ユーは冷静な態度で私の動揺を落ち付かせようとしている。王妃様のお茶会に招待されたと言っても眉の一つすら動かさなかった。流石だ。
「言葉、片言、文字、読めない、振る舞いと礼儀、壊滅的、どうする!?」
「まだ一ヶ月あるだろう」
「先生! 言葉、先生、呼んで! リイリン、あまり、来れない」
「教師は必要ないだろう」
「む、無理!! 先生、必要!!」
「夜、帰って来てから教えてやる」
「――え!?」
それから、一ヶ月間の猛特訓の日程がシン・ユーの手によって組まれる。
発音と言語教育はシン・ユーが、礼儀の講習を義母が、振る舞いの強化訓練をメイ・ニャオに教えてもらうことになった。
――私の辛い一ヶ月が始まる。
「あなた、その小動物みたいな口はどうにかならないの? 貴婦人たるもの、口元まで気をつけなければならないのよ!」
「……はい」
お茶会の礼儀を義母に学んでいたが、頭の天辺から足先までの動きを駄目出しされた。まさか口元まで注意をされるとは思いもしなかった。私の唇は常に動物の口みたいにむにゅっと曲がっているらしい。知らなかった。しっかり引き締めとくように怒られてしまう。
「奥様、背中が曲がっておりますわ。棒を入れてみましょうか?」
「う、うん」
姿勢良く、綺麗に見えるように歩くというのは難しい。
メイ・ニャオは言葉通りに細く長い棒を持って来て、エイヤ! っと私の背中と服の間に差し込む。重心が後ろに行って歩き難い状態となった。
「動きがぎこちなくなっていますわ。目線は上げて、踵に重心を置き、足は大きく上げずにすり足で、頭を糸に吊られる感じを想像しながら歩くのですわ」
「う、うーん」
歩き方一つに手間取っている私だったが、その後座り方からお茶を持つ器の持ち方まで様々な動きについての指導が待っていた。いつもはおっとりしているメイ・ニャオが鬼になる瞬間を目の当たりにしてしまったのである。
――そして。
「発音が違う!!」
「お、おお……」
一番怖かった……ではなくて、指導に力が入っていたのはシン・ユーだった。
リー・リンよりも厳しい教えのお陰か、喋りも随分と上達をした。発音が全然出来ていなかった敬語も喋れるようになり、文字も読めるようになった。お茶会の席での不安も随分拭えたように思える。
それからあの人も協力してくれた。
「困った時は大奥様の真似をすればいいのです。華族の婦人とは、大奥様のような人を言うんじゃないですか?」
「へ、へえ」
たまに出勤してくるリー・リンは、右往左往するばかりの私に雑な助言をしてくれる。
「さあ、真似して見て下さい。【――あなた、馬鹿なの?】」
「あ、あなた、馬鹿、なの~?」
「全然似ていません」
「……」
後宮は女達の戦場だという。うっかり気を抜けば最後、ザン家の名誉すら傷つけられるのだ。きっと結婚式の時に来たリシュ・リーンみたいな完璧女子がわんさか居るに違いない。
だから、義母のような強気が必要になるのだ。
「な、何を言っているのかしら!?」
「気迫が足りません」
「嫌、よ」
「駄目ですね」
「なんて、口の減らない、子なの!?」
「心の底から馬鹿にしたように言うのです」
私とリー・リンの無駄な特訓は続く。
このようにして沢山の人の協力を仰いで一ヶ月過ごす。
そして、一ヵ月後の私は生まれ変わったかのような、華族の貴婦人となった。




