20.美しい森にて。その壱
「奥様、起きて下さい、奥様」
「うーーん」
いつもは布団の中に入ったらすぐに就寝出来るのに、昨晩は占い師のことやザン家の親子のことなどを考えていたら眠れなくなっていた。意識が途切れたのは外が明るくなってからだ。
リー・リンは被っていた布団を無表情で剥ぎ、早く起きろと急かす。
まだ眠いので動きたくなかったが、これ以上迷惑を掛けるのも悪いと思って、のろのろとした動きで起き上がり、寝台の上から下りる。
「なんだか少し顔色が悪いですね」
「眠れない、かった」
「珍しいですね」
「珍しい、ない。私、とっても繊細」
「……」
リー・リンは繊細だと主張する私に訝しげな視線を送る。
確かに、基本的にはどこでも眠れるし、食事はなんでも食べられるし、住む場所とかにも拘りはないけれど、私は案外神経が細く、か弱いところがあるのだ。……誰も信じちゃくれないが。
そんな私の意外と弱い子主張を無視したリー・リンは、朝の支度をどんどんと進めていく。
本日着用するのは、詰襟状で足首の辺りまですっぽりと覆う位の長さの上着に、下は脚衣と呼ばれる足を別々に通す形にして下半身に着用する衣服、ハイデアデルンではズボンと呼ばれる、男性が着用する下穿きを手渡された。
上着は腰辺りを帯でぎゅっと締めて、動きやすいように太ももの辺りまで左右に切り込みのある形となっている。
いつもはひらひらとしたスカート状の華服を用意してくれるので、今日は一体何をやらされるのかと不安になってしまった。
「リイリン、この格好、何?」
「よくお似合いですよ。……童子みたいで」
「とんずー? 何?」
「何でもありません。さあ、お急ぎになってください。そろそろ旦那様がお帰りになられる頃ですから」
「!?」
な、なんだって!? 本日の用事はシン・ユー絡みなのか!?
嫌な予感しかしなかったが、化粧を終えた後、案内されるがまま玄関口へと向かった。
◇◇◇
「今日は部屋全部に赤絨毯を敷くからあなた達は外で時間を潰して貰うわ」
「え!?」
「……」
今日は結婚式前日なので、家にお祝いを意味する赤い絨毯を全部の部屋に敷いて回る作業をするらしい。その際に新郎新婦は外出しなければならないという変な決まり事があった。
そして、夜勤から帰ってきたシン・ユーは勿論寝ていない。顔色もいつもより悪い気がする。
「早く出かけて頂戴。邪魔になるわ」
「おかーさん、シンユウ、寝せて」
「駄目よ」
「シンユウ、眠たくて、死にそう」
「駄目駄目!」
なんでも布団や卓布まで赤いものに変えるらしいので、シン・ユーが寝る場所は無いと言われてしまう。
それでも私は食い下がった。
「部屋の端っこ、大丈夫。新聞紙、敷いて、その上にシンユウ、小さい、丸くなって寝る! 邪魔になる、だったら、優しく転がして!」
「何言っているのよ、あなたは」
「だって~、シンユウ、ねむねむお顔だもの~可哀想~」
義母の上着をグイグイ引っ張って可愛らしくお願いをするが、駄目だ駄目だと素気無く断られてしまう。背後に佇むシン・ユーは、目の下に痛々しい程の隈を拵えている。眉間には深い皺が入り、眼光もいつもより鋭かった。
正直に言おう。私は睡眠不足で機嫌がよろしくない状態に見えるシン・ユーと一緒にお出掛けしたくなかった。
この、荒ぶる睡眠不足貴公子をどこか安らかな場所で眠らせたかったが、私の足掻きは無駄に終わる。
「奥様、朝食です」
「!!」
リー・リンから布に包まれたお弁当を手渡された。これを持って仲良く遠乗りにでも行って来いということなのだろうか。
「シンユウ、大丈夫、ない? その辺、近く、宿借りて、寝る?」
「問題ない」
「……」
シン・ユーが宿で眠るというのなら、お付き合いしたい所だったが、身が震えるような低い声で問題ないと言って私の手からお弁当箱を無言で奪い取ると、外門の方へ歩き始めてしまった。
どんどん遠くなっていく背中にため息を一つ吐いて、小走りで後を追う。
シン・ユーが寝不足だというので、ザン家の馬車を使っての移動となった。車内では眠っていればいいものの、シン・ユーは腕を組んだまま視線をこちらへ向けている。
私は三段重ねのお弁当箱をぎゅっと抱きしめながら、シン・ユーの視線に耐えていた。勿論会話なんぞ一切無く、気まずい沈黙が空間を支配している。
三十分ほど馬車に揺られた後に目的地へと到着をした。
行き先はシン・ユーが決めた所で、柵に囲まれた森のような場所に連れて来られた。
出入り口には門番が居て、シン・ユーの顔を見るなり複数のお兄さん達の姿勢がピーンと伸びるという、どこかで見たことにある光景に出会う事となる。
「ザン中郎将!! お疲れ様です!! えーーっと、本日は?」
「私用だ」
「さ、左様でしたか」
「……」
「そ、そちらのお連れのお嬢様は?」
「妻だ」
「つ!? あ、はい、了解です。どうぞ、中へ!!」
「……」
「……」
シン・ユーが武官服を着たままだったので、抜き打ちの監査か何かだと思ったらしい。明らかにほっとしている武官達の脇を通って中へと進む。
「シンユウ、ここ、何?」
「三代前の御上が寵姫に与えた庭園だ」
「へー」
「今は誰の所有物ではないが、先ほど見たように、見張りの者が配備されている」
「ふーん」
普段は人の出入りも出来ないようになっているらしいが、華族の一部の家の者だけは中に入ることを許されているらしい。
昨日の夜に雨が降ったからか芝が敷き詰められた地面が濡れて滑りやすくなっている。何度か足元を取られそうになっていると、弁当箱を手に歩いていたシン・ユーが腕に掴まれと言ってきた。
私も「問題ない」と鋭い眼光を放ちつつ低い声で決めたかったが、早くしろと怒られたので腕を借りることとなってしまった。
雨が降った後の森の中は不思議な雰囲気を醸し出している。葉の一枚一枚が雨で濡れて鮮やかな光沢を放ち、まるで童話の一部を切り取ったかのような美しい光景が広がっていた。
そして、森を抜けた先にあったのは――
「わー!! ナニこれ!!」
眼前に広がっているのは大きく美しい泉だった。
「す、すごい!!」
あまりの予想外な光景に、思わず駆け寄ってその水面を覗き込む。
そこは、満開を迎えた白いレンの花が咲き誇る場所だった。
「あ!」
その泉には、白い水鳥が泳いでいた。餌を探しているのか、水の中に顔を突っ込んでいる。
水の中から顔を出した水鳥を見て、思わず叫んでしまった。
「――!! シ、シンユウ、見て!! 家にある鳥の置物、同じ!! かわい~」
シン・ユーを振り返って、言葉を言い終えてから、しまったと自らの口を手で塞ぐ。
あの鳥の置物は私とリー・リンと一部の使用人しか知らないものだったので、何を言っているのだと自分の迂闊さに呆れてしまった。
シン・ユーも呆れているだろうなと思って、恐る恐る顔を見上げれば、なんとまあ、シン・ユーが薄く笑っているではないか!?
――って、あれ!? あの無愛想で有名なシン・ユーが笑っているだと!?
しかしながら、そんな柔らかな表情をしていたのも一瞬で、すぐにいつもの愛想の欠片も無い顔に戻ってしまった。
あの笑顔は気のせいだったのか。それとも寝不足で、笑いのツボが可笑しくなっていたのか。
その前に、一つ解決していない問題があることを失念していた。
あの鳥の置物はリー・リンが置いた品ではないと、つい先日発覚したのだ。
リー・リンには後で丁寧にお礼を言おうと思っていたが、結婚式の準備に忙殺されていたので、なかなかゆっくりと話す時間がなかったのだ。で、つい先日になって、リー・リンとゆっくりお喋りをする暇があり、その時になって彼女が置物の送り主では無いと分かったという訳だった。
もしかしなくても、あの置物の贈り主はシン・ユーで、次に会ったらお礼を言わなくてはと思っていたのだ。
「シンユウ」
「なんだ?」
「あの、鳥の置物、シンユウが、置いた?」
「……」
シン・ユーは何も言わぬまま、じっとこちらを見ている。沈黙が怖いから何か言って欲しい。
一刻も早くその視線から逃れたかったが、その漆黒の目に射止められたかのように、私自身も動けなくなっていた。
「あれは――」
「ぎょわ!?」
シン・ユーが何か言葉を発しようとした瞬間に、泉の中を泳いでいた水鳥が何故か旋回をしつつ、私とシン・ユーの間を滑空して行った。私は驚いて間抜けな悲鳴を上げてしまう。
「ご、ごめん、シンユウ。何、話?」
「……」
折角シン・ユーが何か言おうとしていたのに、鳥のせいで話が聞けず終いになってしまった。




