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あたりは暗くなっていた。
帰宅したあたしは、夕ごはん前に日課のランニングへ出かけた。やっぱりランニングは、陽が出てない涼しいときに限る。
ピッチングは足腰が重要。野球と違って大きく前にジャンプする投げ方だから、特に大事だ。
小学校のころからずっと走ってるこのコースは、中学三年生になった今でも変わらない。足の裏でしっかり地面を蹴り、跳ねるようにかける。
走りながら、一年前ことを思い出していた。
『波多野涼子ッス! よろしくお願いします!』
『ああ……うん、よろしく』
ちっちゃな身体を九十度くらいに折り曲げた後輩。初めて新一年生と練習して、後輩と会った。他の子より背が小さくて、おっきな目だったから、結構印象的だったんだよね。
『ああ、あたしの名前は――』
『保坂真理先輩ッスよね?』
『え、何であたしのこと……』
『何言ってんスか。先輩は有名ッスから、ソフトボールやっていた子なら誰でも知ってるッス』
『……そうなんだ』
そのときは偶然、いつもあたしの球を受けてくれる子がいなくて。キャッチャーができる後輩と初めて投球練習した。
後輩は座りながら『手加減しなくていいッスよー』って生意気に言った。
ちょっと意地悪で、びっくりさせてやろうと思ってさ。防具をつけた後輩に、思いっきり得意のストレートを投げてやったんだよね。
びっくりしたのは、あたしだったけど。
『おおー。こうして受けると、やっぱ速いッスねー!』
あたしのストレートが後輩に向かっていったとき。後輩はあたしの球を捕ってしまった。
てっきり、取りこぼすか防具に当たると思っていた。いっこ上の三年生でも、恐くてなかなか取れなかったあたしの速球。
恐がらずに。
自然に。
――捕った。
何年も付き添ったバッテリーみたいだった。あたしの球を識ってるみたいに。綺麗に、ボールがミットへ収まった。
ちっちゃな体なのに。
一年生だったのに。
あたしは後輩に不思議なものを感じた。もちろんごく普通の子に見えたし、背が低いから他と比べてずっと頼りないような気がした。
なのに、それだけじゃない違うものを後輩は持っていた。あたしはその『違うもの』が、今でもわからなくて気になっている。
なぜか、コイツしかいないって思った。
自然と仲良くなって、それからいろんなことを話した。
『ねえ涼子、あんた家どこ?』
『神社の前ッスね。ほら、郵便局の裏で、近くに小学校があるところ』
『おお。あたし、よくその前通るじゃん。ランニングするときとか』
『そうだったんスか。じゃあ先輩の家と近かったりして』
『いんや。二キロは離れてるね』
『同じ小学校じゃないんだから、そりゃ地区外ッスよね』
『涼子は、家の近くの小学校に通っていたんだよね?』
『そうッスよ』
『もしかして、そこでソフトボールやっていたのかなって』
『ええ、自分も小学校から始めたッス。何でそんなこと聞くんスか?』
『うん。まあ……ね』
後輩は小学校のころからソフトボールをやっていたらしい。あたしも同じく小学校からで、後輩の小学校に行って試合をしたこともある。
だから、小学生のあたしを見たかもしれなかった。あたしは小学生の後輩を覚えてなかったけど、その頃のあたしは今とは別の意味で目立っていたから。
覚えてるか聞こうとしたけど、やめた。
だって。小学生のあたしは、すっごく下手だったんだもの。ピッチャーだったあたしのせいで負けてて、試合が終わるといつも泣いていた。そのせいでいつの間にかマイナス思考になっていた。若かりし頃の黒歴史だ。
そんなとき便利だったのが長い髪だ。目にかかって前が見えないような髪型だった。周りの顔が見えないし、何より泣いてるあたしの顔が見えない。
セカイから目を背けるための道具。そんなモノがないとやっていけないような。弱くて、泣き虫で、才能もない――それがほんとのあたしだ。
後輩は覚えていたかもしれない。みじめなくらい、かっこ悪かったから。
今は髪型も変わってるし、あたしの小学校からはあたししかソフトボール部に入らなかったから、言わなきゃ絶対わかんないだろうけど。言う気がないから、今後もずっと打ち明ける予定はない。
小学生のときから、死にものぐるいで練習してきた。自分に才能がないってことくらい、わかっていた。でも一度でいいから、感動ってやつを手にしてみたかった。
その思いでやってきて、努力が実ったのかはわからないけれど。結構うまくなって、それなりに有名になった。中学になって、ヒーローって呼ばれるようになった。弱い自分と決別するため、長かった髪も切った。
でも、全然強くなれてない。必死に何とか取り繕ってる。マイナス思考は、相も変わらず残ったままだ。
ほんとのあたしを知られたくなかった。紛い物の自分を保つために、ひたすら投げた。何百、何千、何万……どれくらい投げたか覚えてない。とにかく投げた。
そんな去年の、中学二年生のときだった。あたしの足は遂に、限界を迎えた。
疲労骨折だった。投げすぎて、左足の裏、親指下の骨にひびが入った。医者に安静を強いられて、しばらく部活を休んだ。
欠かしたことのない練習。気を抜けば、腕がにぶるかもしれない不安に駆り立てられた。
部活へ行かず家にいたとき、部員が何人もお見舞いに来てくれた。心配の言葉をかけてくれた。早く治るようにって、励ましの言葉もくれた。
でも、なんか一人だけ違った。
『先輩、疲労骨折だったんスよね?』
『あはは……ごめんね、わざわざきてくれて。でも大丈夫。今度の試合はちゃんと投げるから』
『今度って、今度の日曜日の? でも先輩は全治一ヶ月って聞いてんスけど……』
『みん何迷惑かけるわけにはいかないよ。あたしが投げなかったせいで、負けるかもだし』
『……ばか』
『――へ?』
『先輩のばかっ!!』
『え、え……?』
お見舞いに来てくれたそいつは。後輩はあたしの部屋で、大きな声を張り上げた。
『みんなの期待に応えることが、自分の身体より大事何スか!』
『でも……あたし、エースだし……』
『先輩が投げるっていうなら、自分は受けないッス!』
『そ、そんな無茶苦茶な……』
『先輩、またスパイクの当て皮変わっていたッスね!』
『う、うん……それがどうかした?』
『どうもこうもないッス! 先輩が無茶な練習をしてる証拠ッスよ! 相当な投げ込みをしないと、あん何早く変えたばかりの当て皮が破れるはずがないッス! 足が治るまで、練習も試合も禁止ッスからね!』
『わ、わかりました……!』
『本当にわかったッスか!?』
『わかった、わかったから……』
『じゃあ約束してください』
『――約束?』
『今後一切、無茶はしないって』
『……うん』
去年、後輩の剣幕に圧されて約束させられた。練習も試合もムリヤリ止められた。ドクターストップもとい後輩ストップ。
怒った後輩は、すっごく恐かった。でも、なんだかあったかくて。ちょっとだけ嬉しかった。
今ではすっかり治って、投げれるようになったけど。後輩が止めてくれなかったら、大変なことになっていたかもしれない。
たった一年の関係。それでもあたしの中の大部分に居座ってるやつ。
思うと、後輩の告白を受け入れたのは。きっとそれは、バッテリーだったからだと思う。
ピッチャーとキャッチャー。お互いのことがわかってないと、できないバッテリー。ってことは、あたしたちがくっついたのは必然かも。
あたしは後輩のことが好きなのかな? もしそうなら、どこが好きなんだろう。元気なところ? かわいいところ? あたしの体調を気にかけてくれるところ?
全部、なんだかしっくりこない。はっきりしないなあ。
もしかして。あたしは、後輩のことが好きじゃないのでは?
その可能性も捨てきれない。今まで、他人なんて好きになったことがなかったから。
女の子から告白されたことはあるけど、全部断った。その子達が見てるのは『ヒーロー』としてのあたし。実際のあたしはそんなのじゃなくて。本当はもっと弱い何かで。その子達の告白を受け入れることは、その子達をだますことになる。
何より、あたしが幻滅されるのに耐えられない。未来の失望を避けたいがために、深い関係を退けた。
でも後輩の告白にだけは、なぜかオッケーした。よくわからないけど、他と違うような気がしたから。
やっぱそれ、ずっとバッテリー組んでて、仲良かったからだよね。となると、それはやっぱり恋愛対象としての『好き』じゃないんだと思う。
後輩はあたしの何が好きなんだろう。やっぱソフトボールができるところ? 『ヒーロー』な、ところ?
そうだよね。後輩も、きっと……。
じゃあ、あたしは後輩をだましてることになる。
言わなくちゃ。ほんとのあたしは、他人から愛されるようなやつじゃないんだから。