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放課後、部活が始まる前。
練習着に着替えるため更衣室に入ると、入口付近でばったり後輩と顔を合わせてしまった。
「あ――」
びくっとなって身をすくめた。どうしてこんな入ってすぐのところで着替えてるんだと文句の一つでもつけたい気分になりながら、あたしは後輩にかけるべき言葉を探した。
「チーッス、先輩!」と、後輩は笑顔で言った。
「え……ああ、チーッス……」
……ん?
あれ、どういうこと?
思った以上に普通だった。後輩は昨日のこと何て覚えてないように、気軽に声をかけてきた。そしてあたしも、気軽に返事をしてしまった。
「今日は、どんな練習するんスか?」
後輩は、いつもの調子で話しかけてくる。
「あ……明後日は大会だから、実戦形式で紅白戦だよ」
「いいッスねー。勝ち負けがあった方が、俄然燃えるッス!」
普通に話せた。昨日の告白が夢みたいだった。
えーっと。昨日、何かあったっけ?
それからふと、後輩が思い当たったように尋ねてきた。
「ああ、そういえば先輩」
「ん?」
「最近先輩の球を受けてて思ったんスけど……なんだか球が軽くないッスか?」
「軽い?」
「ミットに球が収まるとき、こう、なんだか抜けた感じがするんスよ」
「あたしのストレートが、遅くなってるってことかな?」
「そんな感じもするッスけど……」
グーを作って球を受ける仕草をする後輩。抜ける――ねえ。手は抜いてないつもりなんだけど。毎日あたしの球を受けてる後輩が言うから、実際そうなのかな?
「気のせいじゃない?」
あたしはあまり気にしなかったけど、後輩は納得いかないって顔をしている。
「先輩、また無茶してないッスか?」
「いやいや。そんなことはないよん」
「ふざけないで下さい! こっちは心配してんスから!」
声を荒らげて言ってくる。あらら、怒られちゃた。怒ると恐いんだよね、この子。
でも後輩が言ってる通り、本当に球が遅くなっているかもしれない。それはちょっと困るかな。投球練習をサボった覚えはないし、体調も万全で痛いところはないのだけれども。
「だーいじょうぶ、涼子は気にしすぎだって。それに約束したじゃん。ね?」
「……」
疑わしい目を向けてくる後輩。気がきくけど、口うるさいのがたまにキズだ。また、あたしが怪我しないか心配なんだ。
「どれだけでも無茶できる先輩を持つと、気苦労が絶えないッス」
「それがあたしの長所だし」
「短所ッスよ」
むっとしながら、後輩は言った。
「どれだけ無茶しても大丈夫だと思ったら、大きな間違いッス。これからもずっとそんな調子だったら、いつか先輩が壊れてしまうかもしれないッス」
「大袈裟だね。でも、ありがと。ほんとに今は何ともないから」
「約束、忘れないで下さいね」
じーっと上目づかいに見てくる後輩。ふと気付くと、着替えが全然進んでいなかった。まだソックスとアンダーストッキングしか履けてない。あたしは後輩を急かす。
「そんなことより早く着替えよ。部活始まっちゃうから」
「……そうッスね」
他の子たちは、もう着替え終わってグラウンドへ向かってしまった。十人以上いた部員はいなくなり、更衣室にはあたしと後輩のふたりだけが残された。
急がないといけないから、話半分に後輩の話を聞いていた。
「明後日はいよいよ大会ッスね」
「……そうねえ」
「勝てますかね」
「……そうねえ」
「先輩と、一緒にバッテリー組めるのも最後ッスね」
「……そうね」
そう――あたしは中三だから、泣いても笑ってもこれが最後だ。今まで頑張ってきたんだから、明後日は絶対に負けられない。
でも不安だった。どうしても悪い結果を想像してしまうから、授業中も家でもなるべく考えないようにしていた。
「勝てるかな、あたしたち。大丈夫かな」
ぽつりと、あたしの喉から言葉が漏れた。
「不安ッスか、先輩」
あたしは、ゆっくりとうなずいた。
「うちのチームは、がんばって練習してきたかもしれないけどさ。それって、他もおんなじなんだよね。スポーツは勝負だから、誰かが勝てば誰かが負ける。それにさ、あたしより才能のある選手なんていっぱいいるんだよ? なのにあたしのこと、『ヒーロー』だなんてさ……そんなに期待しないでほしいな……はぁ……」
重く長く、息を吐く。正直あたしには荷が重い。期待の重さで潰れそうだ。
「じゃあ先輩は、努力しても無駄とか言うんスか?」
「それは……」
少し考える。あたしは今までできる限りの努力をしてきたつもりだけれど、努力で埋められない差はきっとあると思う。必死にもがいて、努力した挙句に勝てなかったとしたら――見えてくるのは、才能や運と書かれたどうしようもなく高く厚い壁なんだろう。
じゃあ、努力してもムダ? 分の悪い賭け?
「――そんなことないよ。確かに、努力したチームがみんな報われるとは限らない。でもあたしは、それを理解していながら、結局ソフトボールを続けてきた。だって優勝したチームは、みんなすべからく努力してる。だからあたしたちだって、もしかしたら勝てるかもじゃない? そこに賭けてみる価値はあると思うの」
「それはなんともまあ、消極的な強気ッスね」
「強気じゃないよ。やっぱりあたしは怖い。負けて今までの努力が無駄になったらどうしようって、考えちゃう」
「……」
「ごめんね、かっこ悪い『ヒーロー』で」
あはは、と力なく笑う。こんなあたしは、やっぱり『ヒーロー』なんかじゃないんだろう。
「かっこ良いッスよ」
ぽつり、と後輩は言う。
「怖いものがないヒーローより、怖いのに勇気を振り絞って戦うヒーローのほうが、自分は断然かっこ良いって思うッス。応援したくなりますね」
かっこ良い?
あたしが?
そんな馬鹿な。
「そりゃないって……」
「大丈夫ッス。先輩なら、きっと大丈夫」
後輩は優しく言ってきた。「大丈夫」と言われると、ほんとにそんな気がしてくるから不思議だ。まるで魔法の言葉のみたい。
「まあ、やれるだけやってみるよ」
「はい。で、先輩。さっきの台詞、誰に教えてもらったんスか?」
あたしは目をそらした。なんでそんな質問をしてくるんだ。
「なんのことかな」
「ほら、先輩。嘘ついてるのがバレバレッスよ。先輩がなんの準備もなしに、あんな気の利いた台詞を思いつくわけがないッスからね。『すべからく』とか難しい言葉も、使うはずがありませんし?」
「いや、その」
顔を寄せて問い詰めてくる。
「『はじめの一歩』の鴨川会長が……」あたしは観念して白状した。
「確か少年マガジンッスよね、それ。趣向も男とは思ってもみませんでした」
「う、うるさいな! ほっといてよ!」
恥ずかしさのあまり、顔が熱くなった。悪かったですね、どうせあたしは口下手で消極的で男女ですよ!
それからふと、後輩が時計に目を向けた。つられて視線を追うと、非常によろしくない時間だった。
「あ。先輩、時間が……」
「うわっ、やば! あたしまだ着替えてない!」
急いで練習着を身につける。話に夢中になっていたせいか、いつの間にか手を止めてしまっていた。のんびりしていると、監督に喝をいれられて、みんなの前で恥をかいてしまう。
速攻で着替えると、あたしは練習道具が詰まったバッグを持ち上げて、急ぎに更衣室を飛び出した。ドタバタと階段をかけ降りる。
「先輩、きっと勝てますよ。先輩が投げたら、きっとどんな選手も三球三振ッス」
「はは、そうかな――そうだといいんだけど。でもそんなに甘くないよね現実は。ホームランとか打たれたらごめんね……」
「はいそこ、マイナス思考禁止! なるべく部員の前では、そんなこと言わないでくださいよ。それにもし先輩が打たれたら、自分が打って取り返します。大船にのった気分でいてください」
「あ、うん」
「しっかりしてくださいよキャプテン。自分とふたりのバッテリーで、やっちゃいましょう」
無駄に前向きな後輩を見て、内心でくすりと笑う。その能天気なプラス思考を少し分けてほしいものだ。
そういえば毎度のことだけど、後輩には励まされてばかりだ。マイナス思考全開のあたしを、いつも支えてくれる。
「一緒に優勝しましょうね、先輩」
「――うん」
この子と一緒なら、優勝できるような気がした。